第12話 追いついた惣兵衛

「はぁ…はぁ…はぁ…」


 起伏の激しい山道を人間らしい荒い息を放ちながら踏破して、源之進は日没までに気賀宿に辿り着いた。


 この宿場には関所があって、旅籠に頼んで途中手形とちゅうてがたを手に入れなければならない。どちらにしても、もう役人も船の船頭も家に帰っているようで、宿を確保した源之進は料理屋を探している。これから思う存分、奪った路銀で飲み食いするつもりだ。


 飲み屋では旅人同士が晩酌の盃を傾けていた。しばらくすると源之進も彼らと席を同じくして、愉快な飲み仲間となっている。


 「お前さんは牢人の分際で、何でそんなに金払いが良いんだい?」


 「ああ俺も気になるぜ」


 酔っぱらった客たちが、料理を頼む源之進に絡んできた。


 「おうおう、聞いて驚け!そんじょそこらの牢人ではねえ。わしの先祖は徳川家の家臣として戦国の世を生き抜いたのよ」


 「おお~!」


 完全なる法螺話ほらばなしであるけれど、一同は感心して源之進を見つめている。


 こうして人の輪で和む方が、修行者として森にいるよりも楽しいのである。そうやってこの日は愉快な飲み仲間と共に、夜半に店が閉まるまで飲み明かしたのだった。 

 となれば、当然のように酔っぱらって起きるのも遅れる。しかも、途中手形の発行を頼むのも忘れていたので、気賀関所を通過するのを一日待たねばならなかった。


 その晩の源之進は相変わらず酒をぐびぐびと飲み続けている。


 次の日…、


 源之進は飲みすぎたので早朝から関所へ向かうのを怠り、旅人たちの長い列に加わらなければならなかった。

 役人の調べを済んでも渡し場に並ばなければならない。


 「どうもこりゃ…」


 こうして大きな足止めを食らったのだった。


 すでに雨は上がり、天気は夏らしい暑さに見舞われて旅人たちも苦しそうだ。中でも源之進は暑さに人一倍弱かった。


 「はあ…、肉体ごと変装しているというのに何故こんなに暑いのだ?」


 半刻後、そうやって茫然と立ち尽くしていると関所の順番が回ってきた。役人に見せる物など無いというのに、やたら念入りにお調べする物だから、余計な時間が掛かるのだと不服を述べてやろうかと思ったが、なんとか腹に納めた。


 関所を通過すると、すぐさま渡し船まで向かい。またここでも同じ列に並ぶ。関所の列で前に居た者がここでもいる。昼の鐘がもう少しで鳴ろうかと言う所で、やっと自分の番になったのである。


 源之進は船頭に渡し賃を払って船に乗り込む。船頭が船を出そうと準備していると、源之進は何やら離れた場所の人混みから騒がしい声を聴いた。自分に向かって執着心を燃やす者が迫っている予感もする。


 そのまま船頭が船をこぎ始め川を半分と渡ると、渡し場の衆人の合間から惣兵衛が姿を現した。


 「おやおや?これは驚いた!」


 てっきり伝文を呼んで京都に帰ったと思っていたのだが、惣兵衛は列に並ぶ人間を嗅ぎまわっている。


 「…なるほど匂いか」


 銭を取り返したくて自分を探しているのだろうか?しかし、体臭だけで探すなど難儀な方法だ。どうせ分かりっこないので無駄な苦労だと思った。


 この先でまた顔を変えればよいのだから、一つ惣兵衛をからかってやろうと楽しい心持である。


                ○


 「あの妖怪は居らんか?運が良ければここで追いつけると思ったけど、顔が変わりよったのでは見当もつかへんな」


 惣兵衛は藤川で逗留とうりゅうさせてもらってから、御油の追分おいわけを本坂通りの嵩山スセまで歩いて、さらに暁時に出発して本坂峠を踏破しようと思案していたのだ。


 相手は人間ではないから普通に関所を越えるとは限らない。惣兵衛としても駄目もとであるし、もちろん恐ろしい妖怪を退治できるとは思わないが、角谷に頭を下げなくてもいいように勝手に奉公を断るなと言いたいのだ。


 ここでは川を渡ろうと思えば関所も通過しなくてはならないので、かなりの足止めになるだろう。ついでに川も増水で渡れなければ良かったが、生憎にも空は晴れ渡り、普通に港運しているようだ。


 「おらんかな?」


 視線を川に移すと、対岸に着こうという船に牢人が乗っていた。他の客は向こう岸の方向に姿勢を向けているが、その牢人はこちら側に体を向けて、奇怪にも手拭を顏の付近でユラユラと振っている。


 こちらに同行者でも残っているのか?汗を拭いているのかもしれないと思った時、振っていた手拭いで顔を隠してから、唐突にバッと下にずらした。


 「あっっっ!あいつは妖怪や!とめい!」


 途端に惣兵衛は叫び出す。


 他の者に見えない瞬間を見計らって惣兵衛に相対した時の顔に戻したのだった。しかし、惣兵衛の叫びなどお構いなしにさっさと船を降りて、何も気に留める様子もなく走り去っていく。


 それを追いかけようと考えるが、関所を通過してないので船には乗れない。しかも、寺の鐘が鳴ると、関所の役人もご飯を食べると言って、お役目が中断してしまった。なんにせよ手形もない。


 これではとても追いつくことは叶わない。恨めしそうに対岸を眺める惣兵衛に、周りの旅人は何があったのかと問いかける。


 「この先でここ以上に足止めを食う場所はないのやろか?」


 天の采配に恵まれたかと思ったが、は諦めるしかない。残念そうに宿場に引き返したのだった。

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