第2話

 ――ジリリリリリリリリ


 なんだ……、もう、朝なのか……。


 目を覚ますと、寝室の中は薄暗かった。雨の音は聞こえないけれど、快晴じゃなさそうだ。


 時刻は、午前八時。まだ眠いけれど、起きることにしよう。日曜日だといっても、睡眠リズムを崩したくないから。


 伸びをしながらベッドを降り、サイドボードに置いたタバコに手を伸ばす。

 火を点けて息を深く吸い込むと、湿った煙が口の中を満たした。

 まだ不味いけれど、昨日の味よりはましかな。あれは、本当に酷かった。


 

 ただ、それよりも酷かったのは――



 突然現れた真由子の娘と名乗る少女。

 告げられた真由子の自殺。

 預かることになった真由子の遺骨。



 ――口から重たい煙と一緒に、深いため息がこぼれた。



 ひょっとしたら全部、厄介な夢だったのかもしれない。

 そうだ、顔を洗ってくれば、眠気とともに厄介ごとも消え去ってくれるはず。



 そう思いながら、タバコをもみ消して洗面所へ向かったけれど――


「そう、都合良くはいかないか……」


 ――思わず、独り言をこぼしてしまった。



 洗面台の棚に置かれた、私のものじゃないコップと歯ブラシ。


 ……残念ながら、椿のことはすべて現実か。

 でも、嘆いていても仕方ない。


 椿がこの家を探し当てた方法。

 真由子の自殺の理由。

 他にも、分からないことが多すぎるし、もう少しだけでも情報が欲しい……。

 真由子の遺骨を預かることになった以上、彼女達の身になにが起こったかくらいは知っておきたいから。

 気分のいい話じゃないことは、分かっているけれども。


 重い気分で顔を洗い、洗面所を後にした。



 リビングの扉を開けると、背筋を伸ばしてソファーに座る椿の姿が目に入った。

 今日はセーラー服じゃなくて、白いポロシャツなのか。でも、紺色のスカートは、多分制服のものだろう。


 真由子の服を着ていたときはとても似ていると思ったけれど、今日はそんなに似ていないように見える。

 ……格好の問題、なんだろうか?


 思い出してみると、彼女がまともに制服を着ていたのはあんまり見たことがなかったかな。

 いつも、ブラウスの上にニットのベストを着たり、学校指定のものじゃないリボンをつけたり、なにかしら小物を付け加えていたから。


「おはようございます」


 不意に、椿が背筋を伸ばしたまま、深々と頭を下げた。


「おはよう。昨日は眠れた?」


「はい、おかげさまで」


「そう。それならよかった。じゃあ、私は朝食にするから」


「はい、分かりました」


 キッチンへ足を進めると、食器用の水切りカゴが目に入った。中には、何も入っていない。

 カップ麺の買い置きなんてしていないし、皿を使わずに食べられるものはなかったはずなのに……。


「椿、朝食はとったの?」


「……え」


 椿はゆっくりとまばたきをして、かすかに眉を寄せた。


「食べても……、よかったのですか?」


 食べてもよかったのですか、って……。


「昨日、キッチンと冷蔵庫にあるものは適当に食べていいって、言ったはずでしょ?」


「分かりました。次からはそういたします」


 抑揚のない声で、短い答えが返ってくる。

 次から、ということは、朝食はとらずに昼食はそうする、という意味なんだろう。

 別に本人がそれでいいというのなら構わないけれど、空腹の少女を前にして一人だけ食事をとるというのは気が引ける……。


「適当なものでよければ、二人分作るから一緒に食べよう」


 再び、長い睫毛をした大きな目が、ゆっくりとまばたきをする。


「一緒に、ですか?」


「うん。ひょっとして、食欲なかったりする?」


「あ、いえ、あります。ありがとうございます」


 意外だ、と言いたげな表情のまま、椿は軽く頭を下げた。

まったく、一度朝食を食べそびれたら昼間で何も食べてはいけない、と考えるなんて極端すぎる。

 ……いや、でも、仕方もないのか。

 

 母親の遺骨を処分してこい、なんて言う家族と一緒に暮らしているんだから。


 胸にかすかな圧迫感を覚えながら、冷蔵庫から食パンと卵とレタスを取り出した。トーストと目玉焼きとサラダでもあれば、朝食としては充分だろう。

 

 それから、さっと作った朝食をテーブルに運んで、クッションに座った。

 向かいに座った椿が、深々と頭を下げる。


「いただきます」


「どうぞ」


 そんな簡単な言葉を交わして、食事が始まったけれど――



「……」


「……」



 ――無言の状態が続いている。


 これといって話題は浮かばない。それでも、さすがに若干気まずい。

 椿はこの気まずさを感じていないんだろうか? 表情一つ変えずに、黙々とサラダを食べ続けているけれども……。


 それにしても、眉、目、鼻、口といった顔のパーツは、やっぱり真由子に似ている。でも、そこには確実に、なにか違いがある気もする。彼女の服を着るまで、似ていると思えなかったくらいの大きな違いが。


「……なにか、見苦しいところでもありましたか?」


「あ、いや、別にそうじゃないよ」


「そうですか」


 ……食事中をジロジロと眺めるのは、失礼か。

 目を反らすと、リビングの棚の上に置いた骨壺が目に入ってしまった。思わず目をつむると、生前の真由子の顔が浮かんだ。

 

 目の前の彼女は、楽しそうに笑顔を浮かべている。


「川上さんと、母は友人だったんですよね?」


 不意に、椿の声が耳に入った。目を開けると、相変わらず無表情な顔が、こっちをまっすぐに見つめていた。


「私と真由子が友人?」


「はい。違うんですか?」


 椿が眉をひそめながら、軽く首をかしげる。てっきり、私と真由子の関係を知って、遺言を引き受けたんだと思ったけれど、そうじゃなかったのか。


「交際していたんだ。高校生のときにね」


 答えると、椿はさらに不可解そうに、眉を寄せた。


「え……、交際、していた?」


 表情に違わず、不可解そうな声が私の言葉を繰り返す。


「そうだよ。まあ、驚くよね。女どうしなわけだし」


「あ、えーと……、そうではなく……、あの人に父以外の交際相手がいたことに、驚きました」


 心底理解できない、とでも言いたげな声と表情だ。


「なぜそんなふうに思ったの?」


「あの人に……、人から好かれる要素があるとは、思えなかったので」

 

 ……たしかに、その言葉には一理あるのかもしれない。

 私も最終的には、裏切られたんだから。


 それに、椿からしてみれば、彼女は自分をあまりよくない境遇に産み落とした元凶だ。悪く言いたくも、なるんだろう。


 それでも、かすかに苛立ちを覚えた。


 その苛立ちが、肉親に辛辣な言葉を吐くという非常識さに対してのものなのか、彼女に対する暴言に対してのものなのかは、分からないけれど。


「一体、なぜあの人と交際するなんてはめになったのですか?」


 苛立ちに気づくことなく、再び不可解そうな表情で首がかしげられる。

 なんで交際することになったか、か……。


「そうだね……」


 目を反らすと、またしても骨壺が目に入った。再び、楽しそうに笑う真由子の姿が頭に浮かぶ。


「女子校で同じクラスになった。しかも、隣の席だった。多分、出席番号が近かったからとか、そんな理由だったと思う」


 当時のことを思い返しながら説明すると、椿は軽く眉を寄せた。


「それだけの理由で、交際することになったのですか?」


「まさか。でも、可愛かったから、初対面のときから気になってはいたよ」


「外見だけで、あの人に惹かれたのですか?」


「まあ高校生くらいなら、そんなもんだと思うよ」


「そうですか」


 質問に答えると、抑揚のない声が返ってきた。自分から振った話題なのに、もう興味を失ってしまったんだろうか? でも、他に話題もないし、気まずい沈黙を避けるためにも、この話題を続けさせてもらおうかな。

 

 真由子と親しくなったきっかけか……。


 視線が自然と骨壺に向く。またしても、真由子の笑顔が頭に浮かんだ。


 まつげの長い目を細めた、楽しそうな笑顔。


「川上さん?」


「ああ、ごめん。親しくなった、きっかけを思い出してて」


「そう、ですか……」


「うん。ある日、君の母親が国語の教科書を忘れてきてね、それで教科書を見せることになったんだ」


「それが、好意を持ったきっかけ?」


「まあ、私の方はね。でも、君の母親はどうだったか分からないよ。なにせ、開いたページに、鼻毛を大量に書き足した芥川龍之介の写真が載ってたんだから」


「は、鼻毛っ……」


 椿の声とともに、目の前に真由子が現れた。


 そうだ、あの日もこの笑顔を見て、すごく可愛いと思ったんだった。

 二十年近く経つっていうのに、全然変わって……。


「……っ失礼しました。予想外のお話だったので」


 彼女の口から、聞き慣れない声が響いた。

 二、三度まばたきをしてから目をこらすと、目の前には目を伏せて口元を隠す椿の姿があった。部屋の隅へ視線を動かすと、骨壺は変わらずに棚の上にある。


「川上さんって……、けっこう、やんちゃだったんですね」


 声のする方に視線を戻すと、椿が深呼吸をしていた。


「まあ、国語とかの文系科目が、があんまり好きじゃなかったからね。ノートや教科書に落書きすることも、あったよ」

 

「そうだったのですか」


「そうそう。まあ、そんなかんじで、教科書の落書きがきっかけで、君の母親と話す機会が増えたんだ。それで、話とか趣味が合ったから、一緒にいることが多くなった」


「それで、交際することになったんですか?」


「そうだね。あと、一緒にいると楽しいってだけじゃなくて、正反対な部分もあったから、お互い惹かれたんじゃないかな」


「正反対な部分?」


「そう。私は理系科目とか体育とかが、好きだし得意だった。対して君の母親は文系科目とか美術とかが、好きだし得意だった。そういう所が、お互い魅力的に思えたんだと思うよ」


「そうでしたか」


 言葉を交わしているうちに、いつのまにか、彼女の面影は消えてしまった。目の前にいるのは、無表情に抑揚のない声で話す少女だ。


「川上さん、どうしました?」


「……いや、なんでもないよ。それで、今のが好意を持ったきっかけだけど、ご期待に添えない答えだったかな?」


「いえ。大丈夫です」


 椿は目を伏せて首を横に振った。


「教えていただき、ありがとうございました」


「いえいえ、どういたしまして」


 それからは、また黙々とした食事が続いた。



 私が食べ終わってから少しして、椿も自分の分を食べ終わった。


「ごちそうさまでした」


「おそまつさまでした。朝食の量は足りたかな?」


「はい。充分です」


 椿は深々と下げていた頭を上げながら答えると、静かに立ち上がり空になった食器を重ねて手に取った。


「洗い物は私がしますので、水場を貸してください」


「うん、どうぞ」


「ありがとうございます」


 整った顔立ちに、薄い微笑みが浮かぶ。


 その瞬間、かすかに真由子が現れた。

 

 ……彼女との決定的な違いは表情、か。

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