天使にキスを

野坏三夜

前編

「やっと終わった」


 もう時刻は零時を越えただろうか、そんな時間。あかりひとつ無い階段を転ばないよう登り、ぎぃ、と木でできた古い扉を開ける。目の前に広がるのは大きな三角形の窓。中心には満月が見える。ここは屋根裏部屋。ぼろぼろで、歩く度に音が鳴る板。部屋の隅にはクモの巣だってある。それでも、生活するには十分だった。

 色褪せたシーツをひいた少し小さいベットに横たわる。


「疲れたな、もう」


 明日になるのがいつも嫌だった。扱き使わされ、誰よりも酷い扱いを受ける毎日。


 前の世界でも同じだった。学校では虐められ、家に帰れば暴力は当たり前だった。精神的に病んで自殺したのだった。当時はやってた異世界転生なんてなったら、今よりは楽になるかも、なんて信じて。

 でも、差程変わりはなかった。むしろ酷くなってる。


「誰でもいいから、私を救ってくれないかな」


 救いの手を差し伸べて欲しかった。負の連鎖を断ち切って欲しかった。そんなこと、もうない、か。

 ……もう、寝よう。そうして、目覚めなければいい。


「ほんとうに寝ちゃうの? 」


 いよいよ幻聴まで聞こえるようになったか。明日は来ないかな、そしたら、嬉しいな。


「君の声を聞いてやってきたのにさ」


 都合のいい幻聴だな。死ぬ前にいい事あったな。

 いよいよ眠くなってきて意識を手放そうとすると


「ねぇ怒るよ? 」


 思い切り顔を両手で潰された。


「!? 」


 眠気が覚め、目の前には見たことの無い男性? の美しい顔面があった。意味がわからなくて、フリーズする。


「だ、だれ……? 」


 やっと顔から両手が離れると、彼はすこしのため息を付く。


「はぁ。……君が呼んだから来てやったのに、その態度はないんじゃないの? 」


 私が呼んだ? どういうこと?


「意味わからないって顔してるね。いーよ、教えてあげる。……僕はね、救いの手を差し伸べてあげるために来たんだよ」


 え?


「そ、れは嬉しいけど、何者? 」

「うーん、悪魔? 」


 にこっとする悪魔は格好が良かった。スラリと伸びた体躯に、さらさらしている灰色の髪。目は悪魔っぽく紫色をしていた。


「綺麗」


 見上げて、まるでどこかの王子様のような外見に呟く。


「ありがと」


 悪魔は言う。

 それが私、ラフィリアと悪魔、ヨシュアのはじめての出会いだった。




 ヨシュアと出会って私の生活には変化が現れた。一日の仕事がおわり、へとへとになって屋根裏部屋に行くと、必ずそこに彼がいてくれるようになった。大したことではない、けれど、私にとって大きな変化だった。

 今日も屋根裏部屋に帰ると、彼はそこにいた。


「おかえり、ラフィリア」


 ふんわりと笑う彼は美しくて、紡ぎ出される言葉は暖かくて、自然と笑顔になる。


「ただいま、ヨシュア」


 持ってきた冷水で顔を濯ぎ、黄ばみ始めたタオルで顔を吹き、母親の唯一の手鏡で、肌をチェックする。うん、吹き出物もない。


「ラフィリアって肌、凄い綺麗だよね。特別なケアとかしてる訳じゃないんでしょ? 」

「うん。ばたばた働いてるから余分な成分は使い切ってるんじゃないかな? 」


 冗談交じりに笑って言った。


「いいねぇ。僕なんか丁寧にケアしてるのに、ラフィリアには負けそうだよ」


 肩を落とすヨシュア。


「いいじゃない、ヨシュアは。すんごく綺麗な顔立ちなんだから」


 ほんと、憎たらしい程に綺麗な顔立ちなんだから。まったくもう。


「やっぱり? 」


 ヨシュアはそうやって茶目っ気を見せた。


 こうやって話すようにやってヨシュアについて分かったことは、美容に力を入れていて、お茶目なところもある人間以外の美形なナニカっていうこと。

 人間でないのは恐ろしいことだけど、ヨシュアは不思議と怖くない。むしろ仲良くできた。男友達、みたいな感じで。まぁ異様に端正で、ムカつくところもあったりするけど。

 最近は彼のおかげか、辛くて泣きたくなる夜も無くなった。

 だから油断してた。




「何このスープ! 」


 アンネリーゼが叫ぶ。夜食でも作って、と突然言われ、出したカボチャのスープが気に入らなかったらしい。


「ほんと、よくこの私に、こんなものを出せるわね! 」

「申し訳ありません。作り直します」

「そんなの要らないわよ! もういいわ、お母様に言いつけてやるから」


 それはっ!


「それだけはっ! 」


 ジュリアおばさんに言われたら、きっと……耐えられない。


「じゃあ、分かってるでしょ? 」


 もうすっかり身についてしまったこの姿勢。深々と、頭を下げる。限界まで。そうして、立ってる足を叩かれ、痛みで足を折るのだ。頭を床にこすりつけて、アンネリーゼは私の頭を足で踏みつける。ぐりぐりと力を加えて擦り付ける。


「ほんっと、あんたって使えない。あんたなんかいなければ、こんっな不味い料理、食べなくて済んだのに」


 ほら痛い? にぃとわらうアンネリーゼが目に浮かぶ。

 気が済むまで、私はこのまま。足が退けられたら、最後はきっと

 ばしゃ!

 生ぬるくなった例のスープを頭にかけられる。髪から垂れる、上手くできたと思ったスープ。


「今度は絶対こんなの出さないで」


 アンネリーゼはそう言い残し、部屋を出ていった。

 ……大丈夫。こんなのは前もあったじゃない。あれ、あったっけ。でも、ジュリアおばさんに言われないだけ、まだマシ。

 カチャカチャと食器を流し所へ持って行きすすぐ。髪はスープのせいで固まりつつあるが、気にしない。

 もうすぐヨシュアに会えると思ってたのにな。浮かれていた気分が地へと落ちる。


「ラフィリア? 」


 ヨシュアの声が聞こえた。ばっ!と振り向くと案の定、彼がそこに。


「何で、ここに」


 皿を洗っていた手を止める。


「スープかけられちゃったのか。髪も服も汚れちゃったね。綺麗にしてあげるよ」


 すぐだからね、とヨシュアは言う。


「ちょ、ヨシュア、アンネリーゼとジュリアおばさんに見つかる」


 それに、綺麗にするってどうやって?


「大丈夫だよ。僕はラフィリアにしか見えないからね」


 穏やかにそう言って、あっという間に服も髪も、ついでに身体中がさっぱりとする。


「あり、がと。でも、何したの? 」


 ふふふ、と笑うヨシュア。


「これは秘密だなぁ」


 何よ秘密って! でも、仕方ないから今はこの顔に免じて絆されてやるか。


「それが終わったら早く来てね、ラフィリア。待ってるよ」


 そう言ってヨシュアは消えた。きゅぅと胸が締め付けられた。

 好きになりそう、そう思った。

 




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