第51話「幾の選択」

 気絶したムズウの首を掴み、いくつは地上に着地した。ミールをはじめとした仲間たちが、喜びをあらわに駆けつけてくる。ヴァルガだけは不愛想な顔つきだったが。


「やった、やったわね、イクツ!」

「おう、勝ったぞ。ミール。……おっと、その前に」


 幾はかろうじて焼け残っているムズウのローブから、ディザスとヒガンの秘宝を取り出した。それから無造作にムズウの体を放り投げる。彼はまだ息をしており、「嘘だ、こんな、あり得ない……」とうわ言を繰り返している。


「うわっ、まだ生きてるよこいつ……」とゼラ。

「イクツ、手加減したのかしら?」

「いや、全力でやったよ。ただ、最後の瞬間にこいつはすべての魔気を防御に回したんだ。オルトがやったみたいにな」

「あれだけ見下していたくせに……だっせぇな、こいつ」


 ゼラが呆れ顔で、ため息をついた。


 やがて——空が青く染まり始めた。『喰われ』かけた山や街並みも元にの色に戻ろうとしている。ムズウの魔気が尽いたことの証左だ。このままいけば現実の世界への影響もなくなっていくことだろう。


 不意に、いくつもの馬蹄の音が聞こえた。首を向けば、騎兵隊がこちらに向かってきている。宿舎周辺で起こったこと、無数の魔獣の死体、そして——焼け焦げたムズウを見、誰もが言葉を失った。


「おっせえぞ、お前ら! 今まで何をしてたんだ!!」


 真っ先に怒鳴ったのはゼラである。彼女のみならず、キスティも腕を組み、不機嫌さを隠そうともせず「今さらどういうつもり?」


 馬から三人の男たちが降り立った。その中には魔闘大会で幾の首を捕らえた者もいて、幾と目が合うなり、ばっと目をそらした。


 この騎兵隊の隊長と思しき者が前に出て、「弁解のしようもない」と頭を下げた。


「城にも魔獣が攻め込んできていて、消えてしまった者もいて、もはや救援を送れるような状況ではなかったのだ」

「ふぅん……まぁ、いいですわ」


 次に隊長はムズウを見下ろし——「この男が?」


「ええ。ディザスとヒガンの秘宝を盗み出し、国どころか世界中をも危機に陥れた張本人。あなた方が勘違いして捕らえた、そこの角飾りをつけた彼とはまったくの別人ですわ」

「むぅ……」

「さっさと連れて行きなさい。それがあなた方の役割でしょう?」


 隊長はうなずき、後方の兵に「おい」と呼びかけた。二人ほど降りてきて、ムズウの両脇を抱えて運んでいく。


「あー、それと……」


 幾は片手にディザスの、そしてもう一方の手にヒガンの秘宝を載せて全員に見せるようにした。


「これ、持って帰らないとマズいだろ?」

「う、うむ……」


 隊長は足取り重く幾に近づき——「あ」と突然幾が声を上げたので、びくっと体を震わせた。


「ごめん、返すのちょっと待ってくれ。あ、ヒガンの方は返しとくから」


 そういって気軽に隊長の手にヒガンの秘宝を載せる。怪訝そうな彼に構わず、幾はディザスの秘宝を「うーん……」と見下ろした。


「イクツ、それでどうするつもりなのかしら?」

「ん? ああ……これで帰ろうと思ってさ」


 その言葉に、全員が唖然とする。「ちょっ……どういうことだ!?」と詰め寄ってきたのはゼラだ。


「ムズウの言葉通りなら、俺がここにいるだけでも、この世界に何かしらの干渉が起こるかもしれないだろ? だから、いつまでもってわけにはいかないと思ってさ」

「ふざけんな! あたしとお前との決着はまだついてないんだぞ!」

「魔気なしでまたやれってか? そんなの冗談ごめんだ。……また、アルータに睨まれるのは嫌だし」


 アルータを見やると、彼女は白杖の持ち手をぎゅっと握っていた。


「確かに……そうかもしれない。ムズウの言葉を信じれば、だけど。でも、イクツ。それは建前じゃないの?」

「…………」

「本当に、どうしても帰らなきゃいけないの?」


 幾は困ったように首筋に手を伸ばした。


「俺は……そうだな、俺がいた世界ではさ、真面目に生きてこなかったんだよ」

「どういう意味?」

「友達もいなかったし、何かやろうってつもりもなかった。ここに来てからは生き残るために必死だったけど、それももう終わったと思う。ここでの俺の役割は、たぶんこれで終わりなんだよ」

「だから帰る、と? そんなの、納得できませんわ」


 今度はキスティがぐいと迫る。相変わらず美人だなぁと思っていた幾に、ぱぁんと張り手が飛ぶ。


「今、関係ないことを考えたでしょう?」

「ご、ごめん……」

「あなたにはぜひ、この腑抜ふぬけたヒガンの連中を叩き直してほしいと思っていたのよ。例えば――あそこにいる彼とか」


 キスティの指さした先には、ローブを纏った男がいた。彼だけでなく、魔闘まとう大会で幾を捕らえた者も何人もいて、そのことごとくが恐怖に口を結んでいる。


「あー、いいなそれ。イクツ、とりあえずあの野郎を一発ブッ叩いたらどうだ?」

「それがいいと思う。誰も文句を言わないわ。……というか、言わせない」

「そういうことよ、イクツ。今回の件でわかっているでしょう? あなたにはまだ、この世界でやることが——」


 幾は首を横に振り、「違うよ」


「それは俺がやることじゃない。ヒガンの問題はヒガンで片づけるべきだと思う。それに、俺は身分上はただの学生だよ」

「そんな言葉で逃げられると思って!?」


 キスティが幾の首元を掴んだ。彼女らしくもなく、激昂している。そこに——「やめろ」と口を挟んだのはヴァルガだった。


「帰るってんなら、ほっときゃいいだろ。ムズウの野郎はブッ倒した。秘宝は取り戻した。世界も元通りになる。……これ以上、こいつに何をやらせようっていうんだ?」

「ヴァルガ……!」

「だがな、イクツ……」


 ヴァルガが歩み寄り——幾を睨みつける。


「俺はまだお前ときちんと戦ってねぇ。俺より上に立ってると思わねぇことだ」

「……わかってるよ、ヴァルガ。ありがとうな」


 けっ、と言い——ヴァルガは背を向けた。ポケットに手を突っ込み、適当な位置まで歩いていく。彼なりに——惜しいのかもしれない。


「イクツさん……本当に、帰っちゃうんですか?」


 アーデルの目には涙が浮かんでいた。罪悪感が膨らむのを自覚しつつも、幾は困り顔で「ごめんな」と言った。〈纏石まとうせき〉は砕け、取っ手から先が焼失しているバチを、彼に手渡す。


「ガンデルさんと、おじいさんに『ごめんなさい』って伝えてくれるか? それから……『ありがとう』って」

「はい……」

「それと、頼みがある。俺の代わりにオルトをとむらってやってくれないか?」

「……はい、もちろんです」

「楽しかったよ、本当に。君がいなかったらどうなっていたことやら」

「いえ、そんなことないです。全部、イクツさんがいてくれたから……」


 アーデルの肩に手を置き、「ありがとう」と伝える。とうとう彼の頬に涙が流れ、幾の手渡したバチを大事に抱きしめている。


 そして、ミールは——幾に背を向けていた。


「……ミール。イクツに、お別れを言わなくていいの?」

「後悔するぞ、お前」


 アルータとゼラがそう言うと、「馬鹿みたい」と彼女はつぶやいた。


「あっちの世界で、嫌なこといっぱいあったんでしょ。だったら、ここにいればいいじゃない。みんなあなたの強さを認めてるし。なんでわざわざ帰らないといけないの? また、辛い目に遭うかもしれないのに」

「……そうだな」

「だったら、なんでッ!」


 彼女の悲痛な声が、幾の鼓膜を打つ。手が震えるほど、強烈に。


「納得してもらえるとは思ってない」

「…………」

「でも、どうしても帰らないといけない。俺は……あの世界でもう一度、きちんと生き抜きたいって思ったから」

「…………」

「本当にごめん、ミール」


 彼女からの返答はなかった。


 幾は半ば諦め――ディザスの秘宝を確認した。魔気はまだ残っているから、一回ぐらいは使えるはずだ。


「イクツ」と手を差し出したのはアルータだ。彼女に秘宝を渡し、それで光の輪を開いてもらう。


 これに飛び込めば――元の世界に戻れるのだ。本来いるべきの世界に。


 幾は光の輪の前で振り返り、「ありがとうな」と告げた。


「ばっか、野郎……!」

「元気でね、イクツ」

「わたくしは認めませんわよ。絶対に。あなたの選択なんて……!」

「向こうの世界でも、僕たちのことを忘れないでいて下さいね!」

「チッ。さっさと行きやがれってんだ……!」


 そして、足を踏み入れようとしたところで——いきなり、手を掴まれた。幾にはそれが誰の手なのか、顔を見るまでもなくわかっていた。


「行かないで、イクツ!」


 ミールが、涙声で彼の名を呼んでいる。


「お願い、行かないで! あなたがいなくなったら、わたし一人になっちゃう!」

「……違うよ、ミール。君にはもう仲間が——」

「違う、そういうことじゃないの!」


 ぶんぶんと首を振り——「わたしはあなたにそばにいてほしいのよ! イクツ!」


 ぐっ、と幾は唇を噛んだ。血が出そうなぐらいに。


 小さな両手の感触がとても温かくて、心地よくて、何もかも――投げ出してしまいたくなる。抱きしめたくなる。


 戻ってどうする——


 帰ってどうする——


 その言葉が悪魔の囁きのように、自分を責め立てる。


 このままここに留まればいいじゃないか。


 なぜ、好き好んで戻らなくてはいけないのか。


 自分の存在がこの世界に影響を与えてしまうとしても――それがどうしたというのだ。全部、無視してしまえばいいではないか。そしてもう一度、あの屋根の上でお喋りすればいいではないか。


 約束された幸福を捨ててでも得るものが——あの世界にあるのか。


 それは自分にもわからないことだった。


 だからこそ、戻らなくてはいけないのだ。


「……ミール」と彼女の名を呼び、するりと手を抜いて、その手で彼女の頭を撫でてやった。そして——彼女の額に、キスをした。


 これで許されるわけがないとわかっていながら。


「イクツ……」

「ごめん、な……ありがとう」


 ミールの体を軽く押しやって、幾は光の輪の中に入った。彼の名を叫ぶ彼女の声が、最後に聞いた言葉だった。


 暗い、空間の中を——ただ漂う。


 そして、幾はアスファルトの地面に降り立った。あの時と同じ、ムズウと出会った場所だ。周りに人気はなくて、電車の通過音がただ響いてる。


 幾は力なく、地面に両膝をついた。ぽた、ぽた、と水滴が落ちている。


 これは、涙だった。幾自身が泣いているのだ。


「う、うぅう……」


 これまで――いや、今までずっと、どれだけ泣いていなかっただろう。本当は辛かったはずなのに。本当は誰かに、そばにいてほしかったはずなのに。寄り添ってくれる人が——ほしかったはずなのに。


「ああ、あ、あぁあッ……」


 これでよかったのだろうか——


 本当にこれでよかったのか――


 自分の選択は、正しかったのか――


「うああああああああッ……!」


 幾の泣き声は無数の雑音によって紛れ、誰の耳にも届くことはなかった。


 それだけがせめてもの救いだった。

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