冷夏を探して
北乃イチロク
月は満ちては欠ける
第1話
月は満ちては欠ける
「待ってるから。私を見つけて。そして今度は離さないで」と暗闇の中、彼女が言った。そして遠い記憶のように徐々に彼女が消えていく。僕は消えていく彼女に「必ず君を見つけるから。今度は離さない」とすがる様な気持ちで必死に叫んだ。
そして彼女は輪郭も残さず完全に消えてしまった。
完全な暗闇だ。感覚全てが何もない。けれど恐怖もない。あるのはただ彼女の面影と、それを離さないという気持ちだけだった。
どれだけ時が経っただろう、永遠に続くかと思われた暗闇に薄く光が差し込んだ。光は大きくなり、徐々に身体の感覚が鮮明になる。ああ、この感覚。知っている。これは目覚めだ。
目を開けるとそこは静かな森の中で、一本異様に大きな楠木が風にゆれていた。
体を確認すると、肌には汗が滲んで、熱気をおびている。そして体中に乾いた土がついていた。
不思議な気持ちで土を払うと、一筋の涙が零れた。そこで自分の気持ちが、大事な人を無くしたようなとても悲しい気持ちである事に気付いた。でもその理由はわからない。何か悲しい夢を見ていたみたいだ。
しかし夢どころか、ここがどこなのかもわからなかった。どうしたんだろう。記憶が台風の後のように散乱していた。
呆然と立ち尽くす僕の耳に、蝉の声が聞こえてきた。
ああ、夏なんだ。
「おーい」と後ろから伸びやかな声がした。
僕は振り向いた。ダンロップスポーツのTシャツに黒いハーフパンツを履いた、ショートボブの背の低い少女が、笑いながら手を振っている。その少女の顔を見た途端、僕の散乱していた記憶は、秒速何秒かの間に元の正しい位置へと戻った。
少女は「大丈夫?」と大して心配する様子もなくそう言った。
僕は「こっちは大丈夫。ツクモは?」と言った。
「問題ないよ」そう言ったツクモの顔は酷く懐かしく見えた。
「見事に土砂崩れしたんだな」と僕は足元にある土に埋もれたテントの残骸を見て言った。上に目をやると、ショートケーキの端をスプーンで削ったように、2メートル上の崖が崩れている。
ツクモは「最近雨が続いていたし、崖の端で眺めが良いからってこんな所にテントを張る奴らが悪いね」と言った。
「最近雨が続いていたし、崖の端で眺めが良いからってこんな所にテントを張るのは危ないって僕は言ったけどな」
「そうだっけ?」
ツクモはあっけらかんとした顔と口調で言った。
「で、僕をテントに残して君はどこに行っていたんだ?」
「ちょっと、レディにそんな事聞かないでよ」
「レディねえ」
ツクモは、僕と同じ15歳だけれど、成長する事を放棄したかのように、少女を色濃く残した外見をしている。目は丸く大きく、鼻は低い。唇は腫れぼったく、味方によっては小動物のような可愛さがある。
「そう言えばメガネしてないね」ツクモは長いまつ毛のクリクリとした瞳で僕の顔を覗き込んだ。
「この土の中さ」僕は土砂に埋もれた荷物に視線をやり辟易とし、しゃがんで荷物の発掘作業に取りかかった。
「で、この事は?」僕はツクモに聞いた。
「勿論私達だけの秘密。誰に対しても言う必要がないよ。池で泥を落として、テントを片付けたら帰ろう。今日も塾なんでしょ?」
「そうだね。ツクモの今日の予定は?」
「さあて、タイムマシーンでも作って暇を潰すよ」
そう言ってツクモは、ジッと目の前の大きな木を見上げた。
そして「ねえ、もし、私が死んだら志村はどうする?」と唐突に言った。
「なんだよ。いきなりだな」
「どうする?」
いつにもなく真剣な表情でツクモは言った。
「困る・・・」僕は恥ずかしさでそれ以上言えなかった。
ツクモは一変、にんまりと笑って「つまり、志村は私が死んだら生きていけないって事だね」と言ってその大きな瞳で僕を覗き込んだ。
「そこまで言ってないけど、そうかもしれない。俺ツクモ以外に友達いないし・・・できる気もしないし」
「志村は手がかかる子だな。よし、私が死んだら会いに行くよ。そしてメソメソしてたら、元気付けてあげる」
「死んでるのに、どうやって会いに来るっていうんだよ?」
「さあ、でも必ず会いに行く。だから待ってて」
僕は「なんだよそれ」と笑って「じゃあ、待ち合わせはどこにする?」と言った。
「ここ。この木の下で」
「この木?」そう言って僕は木を見上げた。悠然と立っているこの楠木は近所でも噂になっている呪いの木だった。
「呪いの木の下で待ち合わせって、幽霊になって出てくるって事かよ」
「この木は呪いの木なんかじゃないよ。もっと優しい何かだよ」
「優しい何か」
僕は木を見上げた。中々お目にかかれない大木だ。僕はこの木を見るといつも蛇を連想する。幹は数匹の蛇が絡み合っているかのようで、枝は獲物を飲み込むように、大きく張り出している。ツクモの言うような優しい何かには見えなかった。
「志村も何かあったら、この木の下に来たらいいよ。木が助けてくれるから」
「わかったよ。呪いの木の下で待ち合わせ。なんだかツクモらしい」と僕は笑った。
「うん。そしたらまたキャンプでもしよう」
そう言って笑ったツクモの顔は、少女と、倦怠と、シニカルをいい塩梅に混ぜたツクモの顔だった。僕の唯一の友達、桐生ツクモ。そんなツクモの顔を見るのは今日が最後になった。そして僕の心には、決して埋まる事のない穴ができた。
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