13 死神と三日月

 




 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




 交通事故に遭ったあの日──

 俺は、その声を聞いた。




『……刈磨、汰一』




 低く、濁ったような男の声。

 聞いただけで背筋が凍るような、禍々しい声だ。

 それが、鼓膜ではなく意識に、直接響いて聞こえてくる。



「誰だ……?」



 俺は聞き返す。

 もちろん、意識の中で、である。

 何故なら俺の肉体は、自動車との衝突により今まさに昏睡状態にあるから。


 俺の問いに、奇妙な声が応える。



『我が名は……いや、この名ももう捨てることになる。そうだな、今は"死神"とでも名乗ろうか』

「死神?」



 やれやれと、俺は思った。不運な人生だったが、ついに死神まで現れるとは。

 いよいよここで死ぬのかと、どこか他人事のような冷めた気持ちで、俺は声の続きを聞く。



『そう、死神だ。我は大罪を犯し堕ちた。だから、貴様の魂を殺し、身体をもらう』

「はぁ? なんで俺なんかの身体を?」

『愛する者を、殺すためだ』



 そのセリフに、俺は一気に聞く気を無くす。



 なるほど、これは夢だ。俺自身が作り出した、ナンセンスな夢。

 死神が、愛する者を殺すために俺の身体を乗っ取る? 支離滅裂にも程がある。はい、夢で確定。


 自転車のサドル盗まれた挙句、車に轢かれて気絶して、既に不運が大渋滞の飽和状態なんだ。その上悪夢まで見るなんて、勘弁してほしい。

 まぁ、こんなおかしな夢を見るくらいには意識があるわけだから、どうやら死は回避したらしい。


 あーあ、早く他の夢に切り替わらないかな。

 せっかく見るなら……そう。

 彩岐蝶梨の夢が見たい。



 そんなことを考えた直後、



『……その、彩岐蝶梨だ』



 死神の声が、言う。



『我が殺したいのは、その女だ。"エンシ"である彼女を護る中で、我はあの女の美しさに触れ過ぎた。気高く、強く、穢れのない魂……それを、我が物にしたいと願ってしまった』

「話のわかる悪夢だな。彼女が美しいという点においては、俺も完全に同意だ」

『我は、いずれ禍津日神まがつひのかみに……いや、貴様のような"にえうつわ"に堕とされるだろう。彼女とは相入れない。だから、殺す』

「……は?」

『我は"にえうつわ"に堕ちるというのに、彼女はやがて神になる。耐え難いことだ。殺すしかない』



 俺は、自分が見ている夢だというのに、言いようのない苛立ちを覚えた。

 カミだとかニエだとかは正直意味不明だが、要するに自分のものにならないから殺すと、そういう話だろう。

 ありえない。なんて自分勝手な死神なんだ。



「お前、最低だな」

『何とでも言うがいい。いずれにせよ、お前の身体はもらう』

「いや、だから何で俺なんだよ」

『彩岐蝶梨が、お前に恋慕しているからだ』



 出た。夢特有のご都合設定。



『お前の身体を使えば神々の目をあざむける上、彩岐蝶梨との接触も容易だ。あの女は、お前に殺されることを望んでいるからな』

「彼女が、俺に?」

『そうだ。だから、お前は消えろ。我が代わりに……彼女の望みを叶えてやる』



 その言葉の直後。



「ぐ……っ!」



 脳と内臓の全てが揺さぶられるような…… 異物が体内に入り込むような感覚に襲われ、吐き気が込み上げる。



 俺の意識の中……"魂"の在り処に、ドロッとした黒いモノが流れ込んでくる。

 それは、焦燥。欲望。そして、愛情。

 同時に、俺の脳裏に覚えのない記憶が映し出される。



 緑豊かな、まだ村だった頃の神代町かみしろちょうの風景。

 古い神社で催される賑やかな祭り。

 細長い、イタチのような獣。

 黒い異形との戦い。

 そして、景色は徐々に現代へと移り変わり──

 彩岐蝶梨の笑顔が、眩しく映し出される。



 これは、この死神の記憶?

 本当にこいつの意識が、俺の意識を乗っ取ろうとしているのか?

 俺の身体を使って、彩岐を殺すつもりなのかよ?

 そんなの……



「……させるかよ」



 刹那。

 俺の中の一番深い場所にあるが、燃えるように熱くなった。


 それが何なのかはわからない。

 だが、死神に塗りつぶされそうになっていた意識が、一気に覚醒するのがわかる。



「ふざけるな……お前みたいなヤツに、彩岐を好きにさせてたまるかよ」

『ほう……人間風情に堕ちた者が、精神力でわれを拒むというのか?』



 死神の低い声。

 それに、俺はニヤリと笑って、



「いいや、拒まねぇよ。むしろウェルカムだ。だって、今の話によれば……彼女は、俺に殺されることを望んでいるんだろ?」



 死神の意識の輪郭を、ガシッと捕まえる。




「なら、俺がお前を取り込んで…………死神になってやるよ」




 そして。

 俺は、死神の意識を、自らの"魂"の内側に引き摺り始めた。



『ば、馬鹿な……こいつ、我の意識を……飲み込んでいる……?!』



 死神の焦燥の声。

 それを聞きながら、俺は自分の"魂の質"が変わっていくのを感じる。

 身体中が熱い。血が沸騰し、心臓が焼き切れそうだ。

 だが、止めない。もう少しで、こいつを取り込めそうだから。



『ただの人間に……"贄の器"に、こんな力が……! 貴様ッ、こんなことをすれば人ではいられなくなるぞ?! 人と神の魂を併せ持つ異質な存在……そんなもの見たことがない!』

「うるせーよ……彩岐を護ることができるなら、人間なんて喜んで辞めてやる。だって、俺は……」



 ズズズッ、と、音を立てるように。

 死神の最後の意識を飲み込んで。





「彩岐蝶梨に……どうしようもなく恋をしているから」






 そう、呟いてから。

 俺は、その全てを忘れ……病院のベッドの上で、静かに目を覚ました。





 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎







「…………そうか」



 川砂利の上、汰一は半身を起こしながら呟く。



 全て思い出した。

 あの日、死神が現れたことも、それを飲み込んだことも。

 そして……理解した。

 あの死神こそが……




「…………失踪した、神代町このまち地主神とこぬしのかみだったんだな」




 つまり"堕ちた神"は、誰かに憑依し身を隠しているのではなく……

 あの事故の日に、汰一自身が喰ってしまっていたのだ。


 その呟きに応えるように、柴崎の声が響く。



『やっぱり。彼はキミが取り込んでしまったんだね。思い出したのなら、もうわかるよね? 「躍如ヤクジョ祝詞ノリト」が何なのか』



 汰一は、砂利を踏みしめながら立ち上がり、頷く。



「あぁ……記憶ごと喰ったから、ってる」



躍如ヤクジョ祝詞ノリト』。

 式神の真価を発揮するための、真名を喚ぶうた


 目の前では"黒いバケモノ"が蝶梨を締め上げ、未亜の姿を借りた付喪神つくものかみが勝ち誇った笑みを浮かべている。

 それらと対峙し、汰一は……


 血の滴る右手を掲げ、高らかに詠唱うたった。




窮奇キュウキ、鎌ト成リテ── 千草チグサヲ刈ル疾風ヲ吹キ起コサン」




 力なく横たわっていたカマイタチの身体が、風を纏い、宙に浮き始める。


 ……いや、こいつは『カマイタチ』ではない。

 真の名は──





「────来い。鼬月無イヅナ大鎌オオガマ





 瞬間。

 視界を遮る程の風が、爆発的に巻き起こる。



「なっ、何……?!」



 困惑の声を上げる付喪神。

 バケモノも、怯んだように蝶梨を握る手を緩める。



「……その手を離せ」



 風の中で、式神が本来の姿へと変化してゆく。


 其れの名は、鼬月無イヅナ鼬月無イヅナ大鎌オオガマ

 その名の通り、三日月のように妖しく光る巨大な鎌と成った鼬月無を握り、汰一は言う。




「蝶梨を殺すのはお前じゃない…………この俺だ」




 汰一はバケモノへと駆け、高く跳躍する。

 胸を裂かれた痛みは消え、身体が疾風のように軽かった。


 空中で一回転し、蝶梨を捕らえているバケモノの腕に鎌を振り下ろす。

 すると、丸太のように太い腕が、音もなく輪切りになった。


 けたたましい悲鳴を上げるバケモノ。

 切断面からはドス黒い血がボタボタと垂れる。


 切り落とした腕と一緒に落下する蝶梨を、汰一は素早く受け止め、地面にそっと下ろした。目を閉じたまま動かないが、脈と呼吸はしっかりと感じられる。気を失っているだけのようだ。


 汰一は再び地面を蹴り高く跳ぶと、痛みに暴れるバケモノに向け、鎌を横薙ぎに振るった。


 それで終わりだった。たったそれだけで、バケモノの首が宙を舞い、胴体から切り離された。

 直後、その巨大は足元からほつれるようにして消えていき……

 元の黒い糸が、絡まりながらその場に山を作った。



「ど……どういうこと?! アンタ、ただの人間じゃ……!!」



 着地した汰一は、動揺する付喪神に向き直り、答える。



「そうだよ。ただの人間。けど、少し前に辞めた」

「……辞めた?」

「そう。蝶梨を護るために……死神になった」



 そのまま鎌を振り上げる汰一に、付喪神は未亜にそっくりな顔を「ひぃっ」と歪ませ、



「い、いいの?! あたしを斬ったら、未亜ちゃんはあんたへの想いを失くしてしまうのよ?!」



 そう、命乞いのようなセリフを吐く。



付喪神あたしを生み出すくらいに強くあんたを想っているのに、その気持ちを勝手に消しちゃっていいわけ?!」



 その言葉に、汰一は……

 一度、目を伏せてから、



「……強く想ってくれているからこそ、だよ」



 と……

 静かな声音で、言う。




「裏坂が、本気で俺や蝶梨を殺したいと想っているはずがない。裏坂の知らないところで勝手に死んだりしたら、それこそ彼女を傷付けてしまう。それに……」




 汰一は、伏せていた目をそっと開け、




「……蝶梨を護ること以上に大事なことなんてない。だから…………裏坂の想いは、斬る」




 そう言って、鎌を再び構える。

 その迷いのない瞳に、付喪神は全身を震わせると……



「ぅ……うわぁあああんっ!」



 ……と。

 まるで子どものように泣き出した。




っ……先輩とお祭り行きたかったっ……彩岐先輩じゃなくて未亜を選んで欲しかったっ……未亜のことだけを、見ていて欲しかったのにぃ……っ」




 大粒の涙を流し、泣きじゃくる"未亜"。

 恨みにも似た、深い悲しみと喪失感──

 恐らくこれが、この付喪神の正体なのだろう。


 未亜の姿と声で泣く付喪神に、汰一は胸が締め付けられる。

 だが、もう決めたのだ。

 蝶梨のためなら、どんな犠牲をも払うと。


 だから……

 彼は、鎌を握る手に力を込める。




 ……そういえば、言っていたな。

 花壇の手入れを頑張ったご褒美に、夏らしいことがしたいと。

 今なら、彼女がどんな気持ちであの言葉を口にしたのか、痛いほどわかる。

 あの約束は、もう守ってやれないけれど、





「裏坂………………ごめん。ありがとう」




 最期に、その言葉を贈って。


 汰一は、未亜の"想い"を…………斬り捨てた。


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