12 桔梗と撫子
その声を、汰一は知っていた。
聞いた瞬間、学校の中庭の花壇が目に浮かんだ。
一緒に育てた花の香りが蘇った。
悲しいくらいに、耳に馴染みのある声。
だから、信じたくなかった。
他人の空似であってほしかった。
しかし……
振り向いた先にいたのは、予想通りの人物だった。
ハーフツインにしたミディアムヘア。
垂れ目がちな瞳。
小柄な身体に、
その姿を目にしてもなお、汰一は信じられない気持ちで奥歯を噛み締める。
そして……
「………………裏坂……ッ」
目の前にいる少女の名を、苦々しく呼んだ。
美化委員の後輩、裏坂未亜。
その姿は間違いなく彼女そのものだが、先ほどのセリフやこの"境界"へ自分たちを招き入れたこと、何より表情や雰囲気の違いから、汰一は目の前にいるのが
「裏坂さん……どうしてここに……?」
汰一の後ろで蝶梨が困惑の声を上げる。
未亜の姿をした
「うふふ。こんばんは、先輩」
「……違う。お前は裏坂じゃない」
蝶梨を背に隠すように立ち塞がり、汰一が低く言う。
まさか"堕ちた神"が、忠克ではなく裏坂に憑依していたとは……
いや、まだこいつが"堕ちた神"だと決まったわけではない。
わかっているのは……
蝶梨の命を狙っている、ということだけだ。
汰一の鋭い視線を、未亜の姿をした
「いいや、あたしは未亜ちゃんそのものだよ。だって、未亜ちゃんの"願い"から生まれたんだから」
「裏坂の、願い……?」
「そう。未亜ちゃんはね、あんたのことも、彩岐蝶梨のことも、憎くて憎くて堪らないんだ。だから殺して、"願い"を叶えてあげるの!」
そう叫ぶのと同時に、"未亜"は勢い良く右手を振るう。
すると、"未亜"が纏っている浴衣の生地が、足元からシュルシュルとほつれ始めた。
ほつれた糸は"未亜"の目の前で一つに集まり、ぐちゃぐちゃと絡まりながら黒い塊を形成していく。
「何が、起きているの……?」
汰一の背後で、怯えた声を上げる蝶梨。
"未亜"の浴衣の裾はみるみる内に短くなり、彼女の太ももが露わになるまでほつれたところで、糸がぷつんと切れた。
黒い糸の塊は、絡まりながら凝縮し続け……
一つの球体になったかと思うと、そのまま膨張し始めた。
気体のように、液体のように、何かを形作りながら大きくなる塊。
やがて、それは……
汰一の背丈より二回りは大きい、巨大な獣と成った。
牛のように太い二本の角。
虎のように鋭い牙と爪。
真っ黒な胴体の腹の部分には、浴衣と同じ撫子の花の模様が浮かび上がっている。
そんな、猛獣の凶悪な部分だけを集めたような
「汰一くん、これって……」
蝶梨は震えながら汰一の背中にしがみつく。
彼女も、撫子の模様を見て気付いたようだ。
二度に渡り汰一たちを襲った、犬のような"黒い獣"……
あの三匹の身体にも、同じ模様があった。
これで確定した。
あの"獣"たちを放ったのは、目の前にいる"偽物の未亜"だ。
「(やはり、こいつが黒幕……)」
黒く巨大なバケモノから距離を取るように汰一が後退すると、"未亜"はニヤリと笑う。
「あはは、今までのようには逃げられないよ。そのために
「何なんだ、お前……どうして蝶梨を狙う?」
「だから、あたしは未亜ちゃんの"願い"から生まれたモノ。その"願い"っていうのが、あんたと彩岐蝶梨に消えてもらうことなの」
「嘘を言うな。裏坂がそんなことを願うわけがない!」
「はぁ? あんた本気でわかってないの? 未亜ちゃんがこんな"願い"を抱いたのは、全部あんたのせいだよ」
「俺のせい……?」
「そう。だって未亜ちゃんは…………あんたに惚れていたんだから」
そのセリフに、汰一は息を止め、驚愕する。
反応を見た"未亜"は「あはっ」と楽しげな声を上げ、さらに続ける。
「その
直後、"黒いバケモノ"がゆっくりと汰一たちに向かって歩き始めた。
怯える蝶梨の手を引き、汰一は走り始める。
「カマイタチ、頼む!」
縋る思いで叫ぶと、汰一の首元からぶわっと風が溢れ、式神・カマイタチが細長い身体をくねらせながら現れた。
代わりに、
「たっ、汰一くん! また何か出てきたよ?!」
蝶梨の目にも映るため、困惑させてしまうのが難点だ。
驚き足を止めそうになる蝶梨に、汰一はすぐにフォローを入れる。
「大丈夫、コイツは味方だ!」
「み、味方? 汰一くん、あなた一体……」
戸惑いの眼差しを向ける蝶梨。
しかし、詳しく説明している時間はない。
汰一は蝶梨の手を引いたまま、近付いて来る"バケモノ"から逃げるように走り続ける。
「(おい、柴崎! 黒幕が現れたぞ! なんとかしろ!!)」
川砂利を鳴らしながら、浴衣の懐に入れた御守りに向かって念じる。
「(近くにいるんだろ?! 早く裏坂を正気に戻せ! このままだと蝶梨が殺される!!)」
汰一の背後では、カマイタチが目にも留まらぬ速さで"バケモノ"を攻撃し続けている。
が、"バケモノ"の進行が止まる気配はない。カマイタチが喰った箇所が、すぐに再生しているようなのだ。
やはりあの犬のような"獣"の時同様、カマイタチの攻撃は効かない。
ならばもう……
こんな風に呼びかけて、すぐに応えが返ってきた試しがないことは汰一も承知しているが……
「(たまにはすぐに助けに来やがれ、このチャラ神!!)」
渾身の想いを込めて、胸の中で叫ぶ。
すると、
『あーもー聞こえてるよ。てゆかその「チャラ神」っていうのやめてくんない? まじ無礼千万』
……という緊張感のない声が、脳内に返ってくる。
汰一は思わず足を止めそうになるが、走り続けたまま声に集中する。
「(柴崎! 早く来い! "堕ちた神"に襲われてる!)」
『いやいや、汰一クン。そいつは"堕ちた神"じゃないよ』
「(なっ……じゃあ一体……)」
『裏坂未亜の浴衣から生まれた怨念──"
此岸にある物体に、人間の"念"が宿り生まれる存在。
『純粋に持ち主の願いを叶えようとするのが付喪神の本質だからね。その願いというのが
汰一は、以前柴崎に聞かされた話を思い出す。
「(つまり……裏坂が本当に俺や蝶梨を恨んで、こいつを生み出したってことか?)」
『まぁ、そうなるね』
柴崎の淡々とした答えに、汰一は胸が締め付けられる。
知らなかった。まさか未亜が、そんな想いを抱いていたとは……
思い返せば、ここ最近彼女は花壇に姿を見せていなかった。
期末試験や忠克への疑念、蝶梨と過ごす日常に気を取られ、気付くことができなかった。
……いや、気付いたところで、きっとできることは限られていた。
だって、彼女の気持ちに応えることは……できないのだから。
「(……どうすれば、止められる?)」
汰一は、喉を鳴らしながら柴崎に尋ねる。
「(あの裏坂の姿をした奴を倒せばいいのか? 裏坂への影響は?)」
『大丈夫。あれは裏坂未亜の姿を真似た思念体だから、斬ったところで本人の身体が傷付くわけではないよ。本人に影響があるとしたら精神面だけど、キミにとっても都合が良いもののはずだ』
「(……どういう意味だ?)」
『付喪神を斬るってことは、キミや彩岐蝶梨への強い想いを断ち切るってこと。つまり、キミへの恋心も、それに付随する悲しみや憎しみも、綺麗さっぱりなくなる』
「(それって……裏坂の中にある感情を、勝手に消すってことか?)」
『そうだよ』
その言葉に、汰一は動揺する。
あの付喪神を斬れば、もう黒い"獣"や"バケモノ"に襲われることはなくなる。
しかし、同時に……
未亜の中の大きな感情を、強制的に消し去ることになる。
確かに、いつまでも悲しみや憎しみに囚われ続けるのは、未亜にとっても辛いことだろう。
だが、未亜の感情は未亜のものだ。彼女自身がその感情と向き合い、ゆっくりと消化していくべきもののはずだ。
それを……勝手に断ち切ってしまうなんて。
『……何を迷っているの?』
戸惑う汰一に、柴崎が問いかける。
『キミにとって、一番大切なものは何? 一番護りたいものは何? あれもこれも大切だから、全て同じように幸せにしたいだなんて、そんな綺麗事は通用しないよ。特に、神の世界ではね』
柴崎の言葉を、汰一は冷酷だと思う。
しかし同時に、その通りだと納得もする。
いつか
『誰かの幸福は、誰かの不幸じゃ。"
誰かの幸福は、誰かの不幸。
それが、今なら痛い程わかる。
だって、誰かを不幸にしたとしても、自分自身が不幸になろうとも、幸福にしたい相手はただ一人。
蝶梨だけ。彼女の幸せが、自分にとって一番大切なことだから。
「(……わかった。でも、斬ろうにもカマイタチじゃ歯が立たない。お前に何とかしてもらわないと……『ここからは神の領分だ』って、前にも言っていたよな?)」
そう。汰一の力ではどうにもならないことは、既に実証済みだ。
だからこそ、柴崎に助けを求めているのだが……
「(早く来てくれ。逃げるのもそろそろ限界だ。蝶梨の足がもたない)」
と、汰一は走りながら蝶梨の様子を確認する。
汰一に手を引かれ懸命に走ってはいるが、慣れない下駄で不安定な砂利の上を走っているため痛むのだろう、足が今にももつれそうだった。
迫る"バケモノ"にカマイタチが攻撃をし続けてはいるが、やはり大した足止めにはなっていない。
砂利と雑草が広がるだけの河原には、武器になりそうなものも落ちていない。今までのように剣を模して戦うことは不可能だ。
柴崎の……神の力に頼るしかない。
と、その時。
走っていた汰一の身体が、見えない何かにぶつかった。
突然止まった汰一につられ、蝶梨も足を止める。
「た、汰一くん、どうしたの?」
心配そうに見つめる蝶梨。
汰一は強打した顔面の痛みに涙を浮かべながら、何が起きたのかと手を伸ばす。
すると、目の前の景色は続いているというのに、そこには壁のような感触があった。目には見えないが、間違いなくそこに障壁がある。
先ほど、未亜の姿をした"付喪神"が言っていた。
恐らく、あの"付喪神"が作り出した境界の果てがここなのだろう。
つまりは……壁際に追い詰められたということ。
振り返ると、"黒いバケモノ"は巨大な図体を揺らしながらゆっくりと、しかし確実に汰一たちに迫っていた。
カマイタチが旋風を巻き起こしながら何度も飛びかかっているが、やはり効果はない。
「(柴崎、早く……早く何とかしてくれ!)」
額から汗を流し、汰一が胸中で叫ぶ。
が……
柴崎からの返答は、思いもしないものだった。
『そう。"厄"を祓うことに特化した式神は、単体では付喪神に太刀打ちできない。付喪神は、
その言葉の意味が、汰一にはわからなかった。
矛盾している。神の力が必要だと言っておきながら、何故人間である自分にやらせようとしている?
柴崎に聞き返そうとしたその時、"バケモノ"が振るった鋭い爪によりカマイタチが弾き飛ばされた。
地面に叩き付けられ、「キュウッ!」と響くカマイタチの悲鳴。汰一は駆け寄り、その細い身体を抱き上げる。
「カマイタチ! 大丈夫か?!」
カマイタチはガクガクと震えながらも、再び立ち上がろうとしている。汰一たちが逃げている間にも何度か爪でやられたのだろう、身体中傷だらけだった。
「あはっ。追いついた」
"バケモノ"の背後から現れた"付喪神"が、楽しげに言う。
「追いかけっこはおしまいよ。さぁ、何もかも終わらせて……未亜ちゃんの願いを叶えましょう」
"付喪神"のその言葉に従うように、"バケモノ"が汰一たちの方へのしのしと向かって来る。
「汰一くん……っ」
蝶梨の恐怖に染まった声。
どうする?
柴崎は助けてくれない。
カマイタチは傷だらけで、武器になりそうなものもない。
今の自分にできることがあるとすれば……それは…………
汰一は"バケモノ"の前に立ち塞がり、蝶梨を護るように両手を広げると、
「蝶梨には手を出すな! 殺るなら俺だけにしろ!!」
そう、力の限り叫んだ。
助けもない。戦う力もない。
それでも蝶梨を護るには……
もう、自分の命を引き換えにするしかなかった。
「裏坂の憎しみの原因は俺のはずだ! だから……俺を殺したら、蝶梨は解放してくれ!」
「そんなっ……汰一くん駄目ぇっ!!」
蝶梨の悲鳴が、閉鎖された境界に響く。
汰一はそれには応えず、未亜の姿を借りた"付喪神"を真っ直ぐに見つめる。
真面目で、責任感が強くて。歯に絹着せぬ物言いをして。
虫が苦手なのに、めげずに花壇の手入れをしてくれた、大事な後輩。
そんな未亜が生み出した存在なら、真摯に話せば耳を傾けてくれるのではと、信じたかった。
しかし……
未亜の顔をした"付喪神"は、汰一の言葉を鼻で笑い、
「ハッ。そういうヒーロー気取り、辞めてもらえる? 虫唾が走るから」
ひどく冷たい声で言った、直後……
"バケモノ"が腕を振り上げ、汰一の身体を殴り飛ばした。
「がは……ッ!」
身を翻す間もなく、振り下された鋭利な爪が汰一の胸を切り裂く。
色のない世界で真っ黒な血飛沫を上げながら、汰一は後方へと吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた。
「ぐ……っ」
着地と同時に頭を打ち、脳が揺れる。
切り裂かれた胸部は痛みを通り越し、熱いとさえ感じる。
「汰一くん……っ!!」
倒れ込む汰一の元に蝶梨が駆け寄ってくる。
そこに、"付喪神"が砂利を鳴らしながらゆっくりと近付き、
「『俺を殺したら蝶梨は解放してくれ』? そんなことで、未亜ちゃんが満足するとでも思っているの?」
倒れ込む汰一を、凍てついた視線で見下ろす。
「未亜ちゃんはねぇ、今日のお祭りをずうっと楽しみにしていたの。おばあちゃんの代から受け継いだ
そのまま、下駄を履いた足で汰一の頭をガッと蹴り飛ばす。
目の前で汰一の口から血が飛ぶのを見て、蝶梨が声にならない悲鳴を上げる。
「蝶梨……逃げろ……っ」
汰一は朦朧としながらも、振り絞るように言う。
が、"付喪神"はそれをすぐに否定する。
「馬鹿ね、逃げられないと何度言ったらわかるの? これで、彩岐先輩も終わりよ」
その言葉と同時に、"バケモノ"が蝶梨へと迫り……
巨大な手で、彼女の身体を捕まえた。
「きゃあぁっ!」
「蝶梨ィ……っ!!」
激痛に耐えながら見上げると……"バケモノ"が蝶梨の首を持ち上げ、ギリギリと締め付けていた。
白い満月を背景に、彼女の綺麗な横顔が、苦痛に歪んでいく。
「やめろ…………やめろ……!!」
怒りで、恐怖で、身体が震える。
本当に、どうしようもないのか?
どうして柴崎は助けないんだ? "エンシ"を護るんじゃなかったのか?
わからない。一体俺に、どうしろというんだ?
「……た……いち……く……」
蝶梨が、苦しげに手を伸ばす。
助けなきゃ。早く……早く…………!!
『──そうそう。早くしないと本当に死んじゃうよ?』
焦る汰一の脳裏に、柴崎の声が響く。
汰一は目を見開き、声に出して訴える。
「柴崎テメェ……見ていないで助けろよ!!」
『駄目だよ。これはキミに対する
「試験……? 何をわけのわからないことを……!!」
『思い出して。自分が何者なのか。キミは、カマイタチを武器化するための「
「
『仕方ない、もう少しだけヒントをあげよう。交通事故に遭ったあの日、キミは、失った意識の中で
その言葉に。
汰一の心臓が、急激に加速し始める。
『そうそう。それから? その男はなんて言った? キミはそいつを、どうしたの? 早く思い出ないと…………彼女、キミ以外のヤツに殺されちゃうよ?』
──ドクンッ。
一際大きく脈打つ鼓動。
強烈な既視感に襲われ、目眩がする。
……あぁ、そうだ。
あの時も、思ったんだ。
嫌だ。奪われたくない。
蝶梨は誰にも殺させない、と。
焦燥と、欲望と、愛情と……その奥。もっと向こうだ。
思い出せ。思い出せ。
誰に奪われたくなかった?
何を犠牲にした?
────あぁ、そうだ。あの時、俺は…………
蝶梨を護るために、人間を辞めたんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます