2 疑心暗鬼と甘い放課後

 



 ──"黒い獣"に襲われた翌日。




『登校中、変わったことはなかったか?』




 学校の昼休み。

 汰一は同じ教室にいる蝶梨に、スマホでメッセージを送った。



 柴崎からの忠告を受け、汰一は周囲を十分に警戒しながら登校した。

 別々に登校した蝶梨が心配だったが、教室に入ると既に彼女はいて、目が合うと照れたように微笑みかけてきた。


 胸を撫で下ろしつつ、軽く目配せをし、そのまま特に会話することなく午前を過ごした。

 汰一としては、それがベストな対応だと考えていたのだが……



『大丈夫だったよ、ありがとう。でも、すぐそばにいるのに、なんで直接お話しないの?』



「う゛っ」



 蝶梨からの返信に、汰一は弁当を喉に詰まらせそうになる。

 横目でちらりと確認すると……蝶梨はこちらに背を向け、昼食を摂りながら友人と談笑していた。どうやら彼女もこっそりメッセージを送信しているらしい。



『だって、彩岐が野良犬に襲われたなんて知れたらクラス中が大騒ぎになるだろ? 彩岐にも迷惑だろうと思って』



 と、汰一はすぐに返信する。

 蝶梨もあの"黒い獣"からはただならぬ雰囲気を感じているようだが、一先ず『野良犬』として話を合わせることにしていた。


 彼女と教室内で直接話さないのは、文面通り周囲の混乱を避ける意図もあるが……

 柴崎から聞いた『"堕ちた神"が身近な人間に憑依している可能性』を警戒しているというのが、最も大きな理由だった。


 仮にこのクラスの中の誰かに"堕ちた神"が憑依しているとしたら、昨日襲撃したはずの汰一たちが平然と過ごしているのを見て、何か動きを見せるかもしれない。

 だからこそ、あえて昨日までと同じような距離感で過ごし、相手の出方を伺いたかった。


 ……いや、本当はこれも言い訳に過ぎない。


 と、汰一は胸中で懺悔するように目を伏せる。

 ……本音を言うならば。



 俺みたいなモンが、あの"麗氷の蝶"と呼ばれる気高き美少女・彩岐蝶梨と教室で馴れ馴れしく喋るだなんて、できるか!!



 ……である。

 ましてや付き合っているだなんて知られたら……学校中の男子から袋叩きにされること請け合いだ。それこそ買わなくていい恨みまで買ってしまい、別の問題を発生させる可能性すらある。


 そんな諸々の事情により、汰一は同じ教室内にいながらもスマホのメッセージでやり取りをしているのだった。



 そもそも、未だに信じられていないのだ。

 ずっと想い続けてきた彼女と、付き合うことになるだなんて……


 しかし、実感の湧かない汰一に対し、蝶梨は、



『せっかく刈磨くんの彼女になれたのに……もっとお話したいな』



 ……などという甘えたセリフを送ってくるので、汰一は現実であることを思い知らされ、「ぐぅっ」と唸る。

 すぐに謝罪の言葉を返そうとするが、それよりも早く蝶梨から追加のメッセージが送られてくる。



『なんてね。私もみんなにあれこれ聞かれるの嫌だから、お付き合いのことはまだ秘密にしておこうね』



 その文面に、本気で彼女を悲しませているわけではなかったことを悟り、汰一は安堵する。

 そして、



『内緒でやりとりするの……ちょっとドキドキして楽しいね』



 さらに追加で来たメッセージに、汰一はいよいよ頭が沸騰しそうになる。

 思わず蝶梨の方に目を向けると……彼女もこちらを一瞬振り返って。



 ──にこっ。



 と、照れたような笑みを向けてきた。



 はぁぁあああああ……

 ダメ。可愛い。好き。



 狂おしい程の愛しさを吐き出すように、『俺は彩岐が可愛すぎてドキドキします』と素早く返信した……その時。




「気持ち悪ぃくらいに百面相だな」




 汰一の目の前で、忠克ただかつがパックの牛乳を飲みながら言った。


 ……しまった、こいつと弁当食っていたことを忘れていたと、汰一は慌てて平静を装う。



「別に、俺はいつだって表情豊かだろ」

「何かイイコトあったのか?」



 ニヤリと笑いながら尋ねる忠克。

 汰一は内心ギクッとしながらも、落ち着いた声で答える。



「あるわけねぇだろ。ご存知の通り、今日も不運全開だよ」

「その割には最近表情が明るいよな。俺の知らないところで楽しいことしてんじゃねぇの? 放課後も全然遊んでくれねぇし」



 こいつは……相変わらず鋭いと言うか目敏めざといと言うか……

 と思うも、なんとか表情には出さずに、



「楽しいことならしてるよ、庭いじりという最高に崇高で孤独な作業をな。お前こそ、ゲームのイベントやら何やら理由をつけて先に帰るじゃねーか」



 ……という、自分で放ったセリフに。

 汰一は、ハッとなって思い出す。



 "ひるの厄"と戦った、あの雨の日。

 先に帰ったはずの忠克を、校舎内で見かけた。


 そして、"黒い獣"に襲われた昨日。

 駐輪場に忠克の自転車が残っているのを発見した。



 いつもなら気にならない違和感。

 何か用事があってたまたま校内に残っていたのだろうと流せる、そんな程度の違和感。


 しかし今は、柴崎にあんな忠告をされた直後なので……

 考えたくもない可能性が、頭の隅にチラついてしまう。



 緊張に身体を強張らせる汰一に、忠克は不敵な笑みを浮かべ、



「十年近くお前を見てきたが、こんなに幸福オーラを発しているは初めて見るんだよなぁ」

「……何が言いたい」

「べっつにー? ただ……なるべく早く帰った方がいいと思うぜ? 世の中物騒だからな」



 菓子パンを齧りながら放たれた、その言葉に。



「……物騒、って?」



 汰一は、思わず低い声音で聞き返す。

 すると忠克は、きょとんとした顔をして、



「いやほら、だいぶ日が長くなったし、不審者とかも増えるしさ。お前ただでさえ不運なのに今は徒歩とバス通学なんだろ? 単純に気をつけろよって話」



 そう、あっけらかんと答えた。

 瞬間、汰一の胸に罪悪感が押し寄せる。



 ……何を考えているんだ、俺は。

 忠克を疑うなんて……神経質になり過ぎている。

 毎日誰よりも近くで話しているが、喋り方や仕草に変わった点はないだろう? 冷静になれ。



 と、高ぶった鼓動を落ち着かせるように自分に言い聞かせて。



「……そうだな。気をつけるわ」



 ごめん、と心の中で付け加えた。






 * * * *






「──やっと放課後だね」



 汰一の隣で、蝶梨が嬉しそうに笑う。



 ホームルームを終え、汰一は真っ直ぐに中庭の手入れに向かった。

 三十分程が経ち、生徒会の用事を済ませた蝶梨が今まさに合流したところである。


 三つ編みおさげに、スカートの下にはジャージ。

 すっかりお馴染みの庭いじりスタイルに着替えた蝶梨は、汰一の顔を覗き込むと、



「もう。刈磨くんよそよそしいから、メッセージもらうまで『昨日のアレは私の願望が生み出した夢だったのかな?』なんて思っちゃった」



 艶の良い唇を、少し尖らせながら言った。

 その拗ねたような表情とセリフが可愛すぎて、汰一はドキッとしながら微笑み返す。



「悪い。クラスの連中を混乱させたくなかったんだ。大丈夫。夢じゃなくて本当に、彩岐は俺の……」



 ……そこまで言いかけて。

 ぐ、と言葉を詰まらせる汰一。



「俺の……なに?」



 続きを促されるが、それを口にするのはあまりにも烏滸おこがましい気がして……

 しかし、蝶梨にじーっと穴が開くほど見つめられ、逃げるわけにもいかず。



「………………彼女、デス」



 未だ信じられない事実を口にした。

 それを聞くなり、蝶梨はにまにまと笑って、



「んふふー。そっかぁ。私、刈磨くんの彼女かぁ。えへへ」



 頬に手を当て、心底嬉しそうに言った。

 その反応に、汰一は自身の胸をガッ! と押さえる。



「(二人きりになって速攻デレ全開とかっ……可愛すぎて心臓が爆ぜそう……!!)」



 そんなやり場のない感情をぶつけるように、目の前の花壇の土を意味もなく掘り始める。

 その隣で、蝶梨は花に水をやりながら「でも……」と続けて、



「ということは、あの三匹の犬のことも夢じゃなかったんだ。ちょっと不気味だったけど…….何だったんだろうね」



 小首を傾げながら、あの"黒い獣"についての疑問を投げかけた。

 しかし汰一は、動揺しなかった。何故なら、そう切り出された時の返答を既に用意していたから。

 汰一は少し目を細め、わざとおどろおどろしい雰囲気を醸し出しながら言う。



「ただの野良犬だとは思うが……場所が場所だし、だった可能性もあるな」

「えっ。それって……」

「妖怪や化け物の類いかもしれない、ってこと」

「ぴっ……!!」



 びくっと肩を震わせ、小動物のような声を上げる蝶梨。

 汰一は神妙な面持ちで、さらに続ける。



「最後に現れた白蛇も妙だったよな。あの神社の主だったのか、それとも……妖怪同士の睨み合いだったのか」

「ひぇっ……」

「不自然な風も吹いていたし、蛇が現れた途端に雨が止んだし……考えれば考える程、超常的な出来事だったよなぁ」



 汰一の言葉に、蝶梨はぷるぷる震え出す。

 さすがに脅かし過ぎたかと、汰一は思わず笑って、



「なんてな。冗談だ。昨日のあれは、本当にただの野良犬だったと思うよ。俺、不運だから野良犬に追いかけられるのも初めてじゃないし」

「そ、そうなの?」

「あぁ。人生最大の幸運が舞い込んできたから、帳尻を合わせるように不運がやってきたんだろう。でも、彩岐の運の良さがあの蛇を呼び寄せ、野良犬を追い払ってくれた……と、そんな風に俺は考えている。って、それもだいぶ超常的だけどな」



 そして、蝶梨の瞳を見つめ、




「……ごめんな。俺といると、不運な目に遭わせてしまうかもしれない。けど、必ず彩岐を護るから……こんな俺で良ければ、これからも一緒にいてほしい」




 そう、真っ直ぐに伝えた。

 蝶梨は目を見開き、頬を赤く染める。



 柴崎に口止めされたわけではないが、蝶梨には真実を話すべきではないと汰一は考えていた。


 あの"黒い獣"──汰一たちを恨む何者かが生んだ付喪神つくものかみの仕業か、あるいは"堕ちた神"が混乱を生むために放った化け物なのか。

 いずれにせよ、自分の命を狙う者がいることを知れば、彼女は今まで通りの生活を送れなくなるだろう。

 先ほど汰一が忠克を疑ってしまったように……必要以上の疑心暗鬼に陥るはずだから。


 知らなくていい。

 けど、警戒心は持っていてもらいたい。

 そう考えると、こんな言い方をするしかなかった。



 少し格好つけすぎただろうかと、汰一が照れ臭さを感じ始めていると、蝶梨は潤んだ瞳で彼を見つめ、




「そんなの、こっちのセリフだよ。『殺されたい』だなんて考えちゃう変態だけど……こんな私で良ければ、ずっと側にいさせてください」




 胸の前できゅっと手を握り、切なげに言った。


 まるでもう一度告白をし直しているようなやり取りに、汰一の胸は愛おしさでいっぱいになる。

 今すぐ抱きしめたい衝動にかられるが……ここが学校の中庭であることを思い出し、何とか踏み止まった。



「もちろんだよ。言っただろ? 俺はどんな彩岐も好きなんだ。これからもどんどん"素"を出してくれると嬉しい」

「ありがとう。それじゃあ、早速で申し訳ないんだけど……一つ、我儘を言ってもいい?」



 遠慮がちに言う蝶梨に、汰一が優しく「いいよ」と返すと……

 蝶梨は、真っ直ぐに彼を見つめて、




「……た、っ」




 ……と。

 初めて下の名前で、呼びかけた。



「……って、呼んでもいい? 二人っきりの時は……名前で呼び合いたいな、なんて……」



 もじもじと指を弄びながら、恥ずかしそうに言う彼女を見て……

 汰一は、いよいよ理性の糸が千切れそうになる。



 我儘と言うから何かと思えば……名前で呼びたい?

 いやいや……なんだその可愛すぎるお願いは。

『汰一くん』……いいな。最高の響きだ。まだ鼓膜の奥に残っている。まさか彼女にそんな風に呼ばれる日が来るなんて……



 などと、大きすぎる感情に震えながら、汰一はなんとか返事をする。



「もちろん。俺としても名前で呼んでもらえた方が嬉しいよ」

「本当? よかった。じゃあ……私のことも、下の名前で呼んでくれる?」

「……へ?」



 蝶梨は、大きな瞳を汰一に向け、



「だめ……かな……?」



 上目遣いで、そう尋ねた。


 ねだるような、甘えるような視線。

 汰一は、まるで催眠術にかけられたみたいに頭がぼうっとして……

 照れや遠慮など、一瞬で吹き飛んでしまい、




「…………




 半ば無意識的に。

 初めて、その名を口にした。


 すると蝶梨は、ぽっと顔を赤らめ、



「……うぅ、にやにやしちゃうぅ……っ」



 と、両手で頬を押さえる。

 そして、




「呼び捨てにされると、『汰一くんの彼女』って感じがして…………すごく嬉しい」




 俯きながら、消え入りそうな声で言った。


 鼓膜が溶けそうな程に甘い本音セリフ

 恥ずかしげに下を向く長い睫毛。

 朱色に染まった白い頬。

 笑みを堪えるようにきゅっと結ばれた唇。


 その全てに、汰一の理性は……遂に限界を迎えた。



「……ひゃっ」



 驚く蝶梨に構わず、彼女の手をぐいっと引き寄せ、そのまま腰に手を回し、




「……蝶梨」




 そう、耳元で、名前を呼んだ。

 蝶梨はぴくんっと身体を震わせて、「は、はい」と小さく返事をするが……

 汰一は、囁くのを止めない。



「蝶梨」

「ん……?」

「蝶梨」

「た、汰一くん……?」

「蝶梨」

「待って。そんなに呼ばれたら……」

「蝶梨」

「し、心臓が、おかしくなっちゃう……っ」

「蝶梨蝶梨蝶梨蝶梨」

「ひゃぁあああっ」



 思わず声を上げ、蝶梨は真っ赤にした耳を手で塞いだ。

 汰一はハッと我に返り、すぐに身体を離す。



「悪い。あまりにも可愛いことを言うもんだから、ついたくさん呼んでしまった」

「ど、ドキドキしすぎて死んじゃうかと思ったよ……はっ。もしかしてこれが『きゅん死』……? はぁん、素敵ぃ……これで殺されるのも幸せだなぁ……」



 うっとりと胸を押さえながら、相変わらず物騒なことを口にする蝶梨。

 その恍惚の表情を眺め、汰一は、



「……本当に、可愛いなぁ」



 なんて、聞こえないように呟いて。



「……あの野良犬、まだこの辺をうろついているかもしれないから、今日も一緒に帰ろうな。のことは、俺が護るから」



 彼女の名をしっかりと呼びながら、あらためてそう伝えた。

 蝶梨は、まだ赤い顔のまま汰一を見つめ返し、



「……うん。ありがとう、



 はにかんだ笑みを浮かべ、答えた。


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