4 二人きりの保健室

 




 ──すうっと鼻に抜ける、消毒液の匂い。

 それから……


 あの、胸をくすぐる甘い匂いがする。



 そんなことをぼんやり考えながら、汰一はゆっくりとまぶたを開けた。

 真っ白な天井とカーテンが目に飛び込み、眩しさに顔をしかめる。

 同時に、鼻の付け根がズキンと痛んだ。



「いてて……」

「──刈磨かるまくん、大丈夫?」



 誰かに呼びかけられ、汰一は驚いて横を見る。

 すると、そこには……


 彼を覗き込むようにして座る、彩岐さいき蝶梨ちよりの姿があった。


 ドキッと跳ね上がる心臓。

 汰一は一気に覚醒し、声を絞り出す。



「さ、彩岐? なんで……?」



 上体を起こして、周囲を確認する。


 どうやらここは、学校の保健室らしい。

 野球ボールの直撃を受け気絶し、運ばれたのだろうか。制服のままベッドの上に寝かされていた。



「……君が、俺をここに連れて来てくれたのか?」



 信じられない気持ちで問いかけると、彼女は静かに頷き、肯定する。



「うん。刈磨くんにボールが当たるのを見て、先生を呼んで運んでもらったの。保健室の先生は、しばらく安静にすれば問題ないだろうって」



 その涼やかな声を聞き、汰一は思い出す。



 そういえばボールに当たる直前、誰かが「危ない!」と叫ぶ声が聞こえたが……あれは彼女の声だったのか。

 あんな情けない姿を、よりにもよって彼女に見られるとは……嗚呼、今すぐ花壇に埋まりたい。



 汰一は顔を覆いたくなるのを堪えながら、無理矢理笑みを浮かべる。



「そうか……ありがとうな。迷惑かけて悪かった」

「いいえ。大事に至らなくてよかった」



 表情を変えないまま、首を小さく振る彼女。

 長い黒髪がさらさらと揺れるその動きだけで、汰一はつい見惚れてしまう。

 同時に、彼女と二人きりでここにいるという現状をあらためて実感し、緊張が押し寄せてきた。



「えと……意外だな、彩岐が花壇にいただなんて。たまたま通りかかったのか? それとも花を眺めに来たとか……って、それはないか」



 無駄に饒舌になってしまう自分に、汰一は内心苦笑する。



 まただ。せっかくの会話のチャンスなのに……彼女を前にすると、どうしても舞い上がってしまう。


 窓からの夕陽を反射し、天使のような輪を作っている艶やかな髪も。

 こちらを真っ直ぐに見つめる大きな瞳も。

 身長の割に華奢な肩も、半袖のワイシャツから伸びる細い腕も、膝の上に乗せた綺麗な指先も……

 全てが尊くて、愛おしくて、見ているだけで胸が高鳴ってしまうのだ。



 そんな胸の内を誤魔化すように、汰一が乾いた笑い声を上げると……

 蝶梨は、桃色の唇を尖らせ、




「……私が花を見ていたら、そんなに変?」




 ……と、少し拗ねたように言う。


 初めて見るその表情に、どこか子どもっぽい可愛さを感じ、汰一はまたもや見惚れてしまう。


 しかし彼女は、慌てて目を逸らし、



「ごめん、何でもない。忘れて」



 そう、いつものクールな表情と声に戻って言う。

 その変化に目を奪われつつ、汰一は、



「……花、好きなのか?」



 と、尋ねてみた。

 彼女はぴくっと反応し、何度か目を左右に泳がせた後、



「……うん、家でもいろいろ育ててる。……似合わないでしょ?」



 目を伏せながら、白い頬をほんのり染めて言うので……

 汰一は、心臓を射抜かれたような衝撃を受ける。



 あの彩岐蝶梨が……"麗氷の蝶"と呼ばれる程クールな彼女が……


 顔を赤らめ、照れている。


 こんなの……こんなの…………





「…………かわいい」




 思わず口から漏れた本音に、「え?」と聞き返され、汰一は慌てて両手を振る。



「あ、いや……可愛いよな、花。似合わないなんてことは全然ない。むしろぴったりだと思うし……同じ趣味で嬉しい」



 言った後で「しまった」と口を閉ざす。

 どうやら照れ顔の威力がまだ響いているらしい、気を抜くとすぐに本音が漏れてしまう。


 汰一が次の言葉を慎重に探していると、先に蝶梨が口を開いた。



「実は……前からよく見ていたの、中庭の花壇。いつも綺麗に手入れされてて、お花も元気に咲いていて……それを刈磨くんがやっていることも、知っていた」



 ドクンッ。


 彼女の言葉に、心臓が一際ひときわ強く脈打つ。

 自分のしていたことを、彼女が認識してくれていただなんて……夢にも思わなかった。


 彼女が続ける。



「私も家でチューリップを育てているんだけど、中庭のみたいに綺麗に咲かなくて。何が違うのか、知りたくて見に来てみたら……」



 そこで一度言葉を止め……少し俯くと、




「……刈磨くんが、チューリップの花をぽきぽき折っていたから…………ちょっと、びっくりした」




 そう、遠慮がちに言う。

 汰一は、一気に顔面蒼白になる。


 確かにあんなバイオレンスな光景、事情を知らない人間が見たら勘違いするに決まっている。

 これは……何としてでも誤解を解かなければ。



「あ……あれは決して破壊行為とかではなく、来年植える球根を残すための作業なんだ!」

「球根を?」

「そう! 球根を良い状態で残すためには、ああして花を折る必要があるんだよ!」

「……そうなんだ」

「あぁ! 何なら今度、彩岐も一緒にやってみないか?!」



 ……と。

 思わず叫んだそのセリフに、汰一は自分自身で驚く。


 勢い余って何を誘っているのだろう。

 早く撤回を……じゃないと、断る彼女にも気を使わせてしまう。



「あ、いや、その……無理だよな。彩岐は生徒会とかで忙しいし……」



 なんて、彼女が断りやすい理由を自ら添えて訂正をする。

 しかし、



「……いいの?」



 彼女は、大きな瞳をさらに大きく輝かせ、




「刈磨くんがいいなら……お花のお世話のこと、いろいろ教えてほしい」




 そう言って、顔を近付けてきた。

 真っ直ぐに見つめられ、汰一は息を止めたまま動けなくなる。



 さらりと揺れる髪。

 鼻をくすぐる甘い香り。

 キラキラと輝く、万華鏡みたいな瞳。


 嗚呼、やっぱり好きだ。


 遠くから見ているだけで幸せだと、本気で思っていたが……

 こんな近くで見る彼女の可愛さを知ってしまったら、身の丈に合わない欲が出てしまう。



 汰一は、ごくっと喉を鳴らすと、



「……俺なんかでよければ……いくらでも教えるよ」



 掠れた声で、振り絞るようにそう答えた。

 それを聞いた途端、蝶梨は嬉しそうに目を細めて、



「──ありがとう。よろしくね、刈磨くん」



 ふわりとした笑みを浮かべながら、彼の名を呼んだ。


 あまりの愛らしさに、汰一は返事をすることも忘れ見惚れる。

 すると蝶梨が、不思議そうに首を傾げ、



「ところで……その、結構動かしているけど、大丈夫なの?」



 ……と。

 白い包帯に覆われている汰一の左腕を指さし、尋ねた。

 言われて汰一は、ハッとなる。


 確かに、先ほどから無意識の内に動かしていたが……痛みが全くない。

 花壇で花をいじっていた時までは、間違いなく動かせなかったはずなのに…………




 ……その時。


 彼の脳裏に、気絶していた間の記憶が、一気に蘇る。




 神を名乗る男が現れ、蝶梨の側にいるよう依頼してきたこと。

 蝶梨が"エンシ"と呼ばれる神さまのたまごであること。

 彼女を護るため、"厄"を喰うという式神・カマイタチを授けられたこと。

 そして……


 折れていたはずの左腕を、治してもらったこと。




「…………」



 あれは、夢ではなく現実だったのか?

 ということはこの状況も、あの自称・神が──柴崎が計らったという、彼女との『接点』なのか?



「……刈磨くん?」



 再度名前を呼ばれ、汰一は我に返り、



「……あ、あぁ。実はほとんど治りかけなんだ。ごめんな、驚かせて。もう大丈夫だから」



 混乱する胸中を悟られぬよう、そう微笑んだ。






 * * * *






 最後にもう一度礼を伝え、汰一は蝶梨と保健室の前で別れた。

 彼女は生徒会の仕事を済ませてから帰るらしい。



 その後ろ姿を見送り、汰一は……ため息をつく。



 嗚呼、夢のような時間だった。

 彼女と二人っきりで、あんなに会話してしまった。

 しかも、一緒に花壇の手入れをする約束までして。



 未だ信じられない気持ちを抱えたまま校舎を出、バス停を目指し歩き出す。

 事故で腕が折れただけでなく自転車も駄目になったため、今日からしばらくはバス通学なのだ。


 ちょうど到着したバスに乗り込み、窓の外に目を向けながら、彼女とのやり取りを思い出す。

 それから……

 もうすっかり痛みの消えた左腕を掲げ、手のひらを眺める。



 ……あれは、夢じゃなかった。

 つまり、あの自称・神から、彼女を護る役目を任されたということ。


 認識は出来ないが、あの時首に巻きついていたカマイタチは、今も近くにいるのだろうか。

 "厄"を自動的に喰うと言っていたが……もう発動しているのだろうか。

 本当に、彼女の側にいるだけでいいのだろうか。

 何かあった時、柴崎に会うすべはあるのだろうか。

 そもそも、あの男……信用できる相手なのだろうか。

 


 ……と、様々に思いを巡らせていたら、あっという間に目的のバス停へ到着していた。

 汰一は慌てて降り、自宅へと向かう。



 程なくして辿り着いた家の庭には、汰一の母親が植えた花々が綺麗に咲いていた。


 彩岐も育てていると言っていたが……こんな風に自宅の庭に植えているのだろうか。


 そんなことを考えながら、取り出した鍵で玄関のドアを開ける。

 その音で気付いたのか、居間から母親の「おかえりー」という声が聞こえてきた。



「ただいま」

「学校、大丈夫だったー?」



 その声に、汰一は自分の左腕に視線を落とす。


 もうすっかり治っているが、家族に悟られると説明が面倒だ。家にいる時はギプスをしたままにしておこう。


 そう決め、汰一は靴を脱ぎながら「まぁまぁ」と適当に答えておく。

 そのまま二階の自室へ向かおうとすると、



「あんたさぁ、部屋にかけてる鍵、なんとかならないの? あんな厳重にかけて……着替えも取りに入れなくて、入院中ぜーんぶ新しいのを買って来たんだからね。本当にもったいない。そういう年頃なのはわかるけどさぁ……」



 と、グチグチ文句が続きそうだったので、汰一は駆け足で階段を上る。


 自室のドアにかけた南京錠を開け、中に入り、内鍵を閉めれば、もう母親の声は聞こえなかった。



 ベッドに倒れ込み、寝返りを打って……

 天井を、ぼうっと見上げる。



「…………」



 今日だけで、いろいろなことがありすぎた。

 野球ボールで気絶して、チャラい神に「協力しろ」と脅されて……彼女と、たくさん会話した。


 ひっそりと生きてきた自分にとっては、胃もたれがする程に濃密な一日だ。

 横になった途端、身体が泥のように重く感じる。



 そのまま汰一は、静かに目を閉じる。



 考えるべきことはたくさんあるが……とりあえず今は、少し休もう。


 そのまま横向きに寝そべり、身体の力を抜いて、寝ようとする。

 しかし……



 ふと、瞼の裏に見えたものに、息を止める。

 




「……あの照れ顔…………可愛かったな」




 目を開けながら、そう呟いて。

 やっぱり眠れそうにないなと、ため息をつきながら……もう一度、天井を仰いだ。




 

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