第1章 エクリス エウリカ島にて
第一話 リンとヒカゲ
夕暮れ時の家の中、窓際のダイニングテーブルに、二人の男女の姿があった。
一人はエンピツを持ったままうたた寝をし、カクンカクンと揺れている。そんな姿を見て、もう一人の男はため息を吐いた。
「俺が見てやっている中で居眠りするとは、良い度胸じゃないか。」
ヒカゲは肩を揺さぶられ、反射的に目を開けた。
笑顔を作っているが、目元がぴくぴくと動いているリンが目に入る。
やばい、しまった。急いで口元を拭うと、ミミズの這った跡の様なノートに目をやった。ミミズを避け、計算を続けようとするが、霧がかったように頭が動かず、また睡魔が襲ってくる。再び体が前に傾いたところで、急に自分を支えていたはずの腕がバッと宙に浮き、支えを失った体がガクンと揺れた。
一瞬で睡魔が吹き飛び、まるまるとした目で前を見ると、自分が使っていたノートをリンがひったくったという事が分かった。
「三角比で躓いているな・・」
「…」
「そこはこの間教えたばかりなんだが、覚えが悪いなぁ・・・こんなんで編入試験に受かるのか?」
ヒカゲは保護者役のリンから勉強を教わっていたが、リンは自分と狭い世界で過ごすよりも、学校へ行き大勢の中で学ぶべきだと考えた。
ヒカゲ達の住んでいる場所、エウリカはアライカ侯爵の治める小さな島だった。アライカ侯は既に亡くなっていて、後継者はいたがまだ在学中の身であった為、卒業までの間エウリカは侯爵夫人が代理統治を行なっていた。アライカ侯はあまり裕福な貴族だったとは言えず、エウリカもまた同様に、裕福な島ではなかった。島には学校は一つしかなく、ここを落とされたらどうしようかと、リンは頭を悩ませていた。太陽を浴びた稲穂の様な金髪をガシガシと掻くと、とんとんと額を指でつつき、眉を寄せた。
ヒカゲは顔を俯かせ、困ったなぁと思う。
「良いか?ここはー・・・」
そう言ってリンが丁寧な説明を始めると、まってましたと言わんばかりに、要らん睡魔が襲ってきた。
ウトウト、ウトウト、ばれない様にとわざとらしく「うんうんなるほど」等と頷いて見せるが、閉じようとする瞼が言うことを利かない。
-バシィッ-
「ッ!」
頭に衝撃が走り、見上げると、背後に獅子が見えるような笑顔でリンがノートをかざしていた。
あぁ、叩かれたんだな。思うも束の間、リンの怒声が入り、肩を縮める。
「お前は!いったい誰の為に教えていると思っているんだ!」
リンは目を三角形にして怒っていた。
反論の仕様がない為、言われるがままにした。リンの声がやんやんとヒートアップしていくが、仕方がない。大人しく聞いていよう。そう思いしゅんとしていると、ノートが当たった音とは比較にならないくらいの大きな音が響き渡り、目を挙げるとリンが机に突っ伏していた。
「いつまでやってるの!家庭教師もいい加減にして!もう夕飯よ!!!机を片付けて!ご飯に出来ないでしょ!!」
腰に手を当て怒るレッティの片手には鉄製のおたまが握られている。成る程、これで叩いたのか。
「起きて!」
レッティは机に突っ伏したままのリンの髪を掴み、上半身を無理矢理起こすと、右に左にと体を揺する。
日陰がぎょっとしていると、意識を取り戻したリンが、頬を膨らませて怒るレッティに向かい手を合わせ、ぺこぺこと必死に謝り出した。そこには威厳もへったくれも無かった。その様子を茫然と見つめていると一瞬だけレッティと目があった。朗らかに笑顔を向けてくれた彼女を見て、助けてくれたのかなとヒカゲは思った。ほっとしたヒカゲは、その傍らで静に食卓を作るディンを見て、自分もセッティングを手伝うことにした。
机に、人数分の食器が並べられていく。メインはいつも通り、変わり映えの無いエクリス豆のスープだ。味付けは特に無い。少ししょっぱみがあれば上々だろう。
けれどもヒカゲは、これが好きだった。みんなで温かい食事を囲む。これ以上の幸せがあるだろうか。
「「「いただきます!」」」
口の中にエクリス豆の風味がいっぱいに広がる。正直に言うと、美味しくもまずくもない味だ。
横を見ると、リンだけが両手を組み何かを呟いていた。何を呟いているのか、敢えて聞いた事はなかったが、リンにはいただきます以外の言葉があるようだった。
(いつも何を言っているんだろう・・)
そう思いながら咀嚼を続けていると、一つの単語だけ鮮明に聞き取る事が出来た。
「・・・・・・・・・・・・・アン・・」
その言葉を聞くと、急に宇宙に放り出されたかの様な感覚に陥った。
椅子に座り、地に足をつけているというのにだ。
しかしそれは一瞬で、飛ばしたブーメランが戻ってくるように、ハッと意識が戻ってきた。
スープの中の自分の顔だけが、焦る事なくゆらゆらと揺れていた。
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