第42話 聖女がいなくなってから調子がでない Side:ラディス

「ラディス様……聞いてますか?」


 執務室で各地から上がってきた報告を聞いていたラディスの顔を、シルファが心配そうにのぞきこんで言った。


「……聞いていた。南地区の再整備計画だろう」


「北です。それと書類、逆さまです」


「……」


 シルファから指摘され、ラディスは無言で書類の上下を入れ替えた。


「……担当者を集めてくれ」


 そういって立ち上がり、チェストの机の脚にスネをぶつけてしまう。


「……っつ」


「重傷ですね」


「……痛くない」


 本当にスネをぶつけたくらいでは痛くない。


 ただこんなことは今までなかったから驚いただけだ。


「痛くないでしょうけど……自覚ナシはさすがにまずいですよ。最近、書類のサインをよく間違えていますし、朝もぼうっとして扉にぶつかってましたよね。私と間違えて柱に話しかけたりもしてましたし」


「いつもと変わらないと思うが?」


「変わってます! ……レイラさんを迎えに行ってはどうですか? ロ・メディ聖教会の神官に言えば、不可能ではありませんよね」


「なぜレイラが出てくる?」


 シルファはあきれた顔をして大きなため息をつくが、ラディスもわかってはいるのだ。


 最近、以前にも増してレイラの事を考えている。


 たかが人間が一人いなくなっただけだ。

 

 ペットがいなくなったと思えばいいと何度も自分に言い聞かせてはいたのだが。


 今、何をしているのだろうとか、無事に帰れたのだろうかとか……レイラと話したことや、ベッドの上でのことも……。


 シルファの言う通り、レイラを迎えに行くのは不可能ではない。


 ラディスの魔力を利用すれば、周辺のマナを消費せずとも、異世界にわたることが可能だろう。恩を売ったので神官が快諾するとも思えないが、承諾はさせられるだろう。


「レイラが望んでいたから返す約束を果たしたまでだ。魔族の中で彼女が過ごすのは大変だっただろう……いつまでもとどめておくわけにはいかなかった」


 珍しく、ラディスは歯切れ悪く、言い訳じみた言葉を口にした。


 シルファが言うからには、自分は相当調子が悪く見えるのだろう。


 指摘された通り、レイラがいなくなってから彼女のことばかり考えて、調子が出ない気がする。


 一緒にいたのは短い期間だったが、レイラがいないことが、こんなにも影響するなど、思ってもみなかった。


「城の奥で囲って、厳重に結界をはって誰にも傷つけられないようにすればいいのでは?」


 シルファはにこりと艶めいた笑みを浮かべた。


 この男がこういういい笑顔をするときは、悪だくみをしているときが圧倒的に多い。


「……それはできない」


 レイラはそういうことを嫌うだろうし、きっと閉じ込めれば、彼女の快活さや優しさを損ねるかもしれない。


「まあ、彼女の性格を考えると嫌われるでしょうけど」


「当然だ。彼女のことは忘れたほうがいい」


 シルファはため息をつく。


「そうですねぇ。仕事が忙しくてラディス様のことなど、すでに忘れているかもしれませんし」


 ……そうだ。彼女もこちらの思い出など、すぐに忘れてしまうだろう。


 ラディスはぐっと眉間にしわを寄せて、納得する。


「今やラディス様の魔力で若返っておりますし、若いのに中身は大人の女性ですからね。包容力もありますし彼女の器量なら、周囲の男たちが放っておきません。よろしくやってますよ」


「ぐっ……」


 ……確かに、初めはおせっかいだと思ったのだが、彼女に心配されて、体に触れられるのは嫌ではなかった。……周りの男たちにも同じように接するかと思うと、胃の辺りがむかむかとする。


 段々とそわそわとし始めたラディスだが、何でもない顔を装う。


 シルファはラディスの様子に気づいていないのか、真面目な顔をして続ける。


「あの美味な手料理も、その見知らぬ男性にふるまうかと思うと……」


「手料理?」


「もう一度食べてみたいですね。シチューなんて特に優しい味がするんですよね。まるでレイラを食べているような」


 ぺろりとシルファが下唇をなめる。


「ちょっと待て」


 ラディスはシルファの腕をつかんだ。


「食べてない」


「え?」


 え? ではない。


「私は、食べていない」


 語気を強めると、シルファは目を見開いたままラディスを見て、あぁっと何かに気づいた。


「そうでした。魔族には人間のような食事は必要ないですし、毒物の可能性を指摘したら、ラディス様にはお持ちしないと言っていましたね」


「それでお前にふるまったと?」


 ラディスはぐしゃりと、書類をにぎりつぶした。


 さすがにまずいと思ったのか、シルファが慌てたように付け加える。


「も、もちろんラディス様のことを思って作った料理ですが、処分するにはもったいなかったので、私が代わりに」


「代わりに?」


 焦ったシルファはさらに言い募る。


「怒る理由がわかりませんよ。レイラさんはずっとラディス様のことばかり気にかけてたじゃないですか。そもそも好きでもない男性の寝室で寝ません。いつもラディス様の体のことを心配して、かいがいしくマッサージしてたじゃないですか」


 ……そうだろうか。


 彼女は誰でも同じように心配して心を尽くしそうな気がするのだ。


「異世界に帰りたいと頑なだったのも、急にいなくなって家族を心配させてしまうとか責任感が強いから、仕事を中途半端にしておけないなどという気持ちが強かったんじゃないですか?」


 シルファは珍しく、困ったような笑みを浮かべた。


「心配を埋めて、もう一度彼女の気持ちを確かめて、ついてきてくれるか一度聞いてみて、あきらめるのは、それからでも遅くないのでは?」


「……そう思うか?」


 ラディスは誰かを好きになったことも、気にしたこともない。


 シルファは淫魔の血を引く魔族だ。

 

 女性の気持ちはシルファの方がよくわかっているのだろう。


「そうです。そうです。それによく考えてください。ラディス様は約束を果たしましたけど、彼女は果たしてませんよ」


「約束?」


 何か約束をしていただろうか。


 ラディスが思い出せないことを察したのか、シルファは人の悪い笑みを、さらに深くした。


「マッサージをさらに気持ちよくする道具、使ってもらってませんよね」


「……そうだな、約束か……」


 シルファはいろいろと理由をつけてくれたが、ラディスはマッサージを気持ちよくする道具のところで気づいてしまった。

 

 おそらく、理由は何でもいいのだ。


 どんな言葉の先にも、ある感情はひとつだ。


 レイラに会いたい。


 あまりにもシンプルで、ささやかな想いに、自分でも驚いてしまう。


 もう一度会って、話をしよう。それから……。


 ラディスは執務室を出た。


 もちろん準備をするためである。彼女を迎えに行くための。


「あーあー、レイラさんには申し訳ないですが、これ以上、ひどくなっては国が傾きかねませんし」


 背後からシルファの声がかすかに聞こえた。

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