好きな人①
「他に分からないとこはあるか?」自身の机に着く
星野先生は、私の通う塾の先生だ。ツーブロックと短めのマッシュを合わせた髪型がよく似合っている。
「えーと」ただ話したいから〈質問がある〉と嘘をついたのだ。分からないところは中学生の範囲では1つもない──あらかじめ用意していた質問は瞬く間に回答されてしまった。でも、もうちょっと仕事の邪魔をしたいので、なんとか知恵を絞る。「……最近、織田信長女性説が一部の界隈で通説的見解となりつつありますが、先生はどう思いますか?」
「……」星野先生は沈黙してしまった。
訊いておいてなんだが、私もこの質問は意味不明だと思う。なんだよ、信長女性説って。どんな界隈だよ。怖いよ。
だから、星野先生、そんな目で私を見ないで。いや、でも、これはこれで……。
私が妙な世界への扉を開きかけた時、星野先生は口を開いた。「噂は聞いてるけど、それってホントなのか? どこの
星野先生の腕が彼のスマートフォンと鍵束にぶつかり、それらを床に落としてしまった。ちょうど私の足下に来たので、拾う。
これは……。
赤い熊のキーホルダーがかわいいのはいいとして、スマートフォンの待ち受け画面に表示された、明るい茶髪をグラデーションボブにした女の人が問題だ。ぞわっと嫉妬心が湧いてくる。
「この写真って」彼女さんですか、と続けようとして、しかし、星野先生に、「個人的なことには答えられません」と阻止された──星野先生の顔に一瞬だけ影が差す。
しかし、私は
「はいはい」星野先生があしらう。「もう質問がないなら帰りな。遅いから気をつけて帰れよ」
「はーい」と素直に従い、先生たちの部屋を出る。
あの表情を見て、私は確信した。星野先生は振られた、則ち、今が絶好のチャンスだと。
年齢的な(法的な)障害はあるが、淋しさ(性欲)を紛らわすのに丁度いい子が、都合のいいことを言ってすり寄ってくれば──お姉ちゃんほどじゃないけど私もなかなかのものだし──魔が差して一線を越えてしまうこともあるはず。
そこまでいってしまえば勝ったも同然。星野先生の性格ならば、すぐに私に情が移り、無下にはできなくなるに決まっている──最悪、法律をチラつかせるのもありだろう。そして、ゆっくりと私に溺れさせ、なし崩し的に本命彼女の地位を手に入れるのだ。
「ひひ」おっと危ない危ない。誰かに見られたらいけない顔にな──。
「またキモいこと考えてるだろ」見られてた。同じ高校を志望する
「なんのこと?」私は取り澄ました。「童貞君の妄想じゃない?」ついでに毒も吐いておく。深い意味はない。
「そっちこそ妄想はほどほどにしといたほうがいいと思うぞ」橘君は、一切動じずに毒を返してきた。「星野先生のことだろ、どうせ」
「……そうだけど、別にいいじゃん」好きなんだもん。
「……まぁ俺が口出しするのも違うか」
私はピンときた。「もしかして私のこと──」
「それはない」断言された。
そこまではっきり言われるとプライドが……。
「またまたー、正直に──」
「それはない」
「ぅぅ……」私は気合いで涙を出す。「私ってそんなに魅力ないかな……」
「可愛いけど、絶対に手は出したくない」橘君は、本当に何の迷いもなく即答した。「明らかな地雷を好き好んで踏む馬鹿はいないんだよ」
「いくら何でもひどすぎない?」心外甚だしい。まっこと遺憾である。「私、尽くすタイプだよ?」知らんけど。
「……ふ」鼻で笑いやがった。「地雷女の
「腹立つわー、同じ学校だったら女子どもを使って虐めてたわー」
突然、橘君が、はっ、とする。
もしやようやく自分の愚かさに気づいたのだろうか。しかし、今更謝っても許さぬ。私を──。
「お前ら、イチャついてないでさっさと帰れ」振り返ると、謝っても許さんぞ、と言わんばかりに眉を吊り上げた星野先生がいた。
「本当にここまででいいのか?」家まで送らなくてもいいのか、と橘君が訊いてくれた。
「大丈夫」心配してもらえると嬉しくなる。「ありがと」
私たちは学区を分ける川の近くにいる。ここまでは同じ道なので、塾を出た後、一緒に帰っていたのだ。
「そうか」橘君にしつこくするつもりはないみたいだ。「分かった」
「うん。また明日」これでも受験生。明日も塾には行かないといけない。
「ん」とだけ応え、橘君は自転車に跨がり、橋を渡っていった。
橘君の背中が小さくなり、やがて見えなくなった。
「……」
多分、星野先生がいなければ好きになってたと思う。
「……なんてね」ないない、と呟いた時、川沿いの道の草が繁っている場所に光る物を見つけた。
なんだろ。
近づいてみると、熊のキーホルダーが落ちていた。鍵はついてない。
拾って、月明かりに照らす。星野先生のと同じデザインだ。古くさいし、傷もたくさんついている。
変なの。元の場所に戻そ。
そう思ったけど、やっぱりちゃんとしたとこに捨てることにした。
テキトーに鞄に入れて、家に向かって歩き出す。
「ただいまー」と小さな声で言いつつ、玄関に入る。返事はないけど、珍しいことではない。
まずは何か飲みたい。キッチンに向かう。
食卓には、ラップをされた、私の分の料理が並んでいた。今日はお母さんはいないからお姉ちゃんが作ったものだろう。この雑な切り方からも、お姉ちゃんの犯行であることが窺える。
冷蔵庫を開ける。お気に入りの炭酸飲料を取り出そうとして、それに気づいた。
「カフェオレ……?」
朝にはなかった。しかも、お母さんやお姉ちゃんがいつも買うやつじゃない。
「……」
ふと気になって、流しを確認する。食器はない、いつもは最後に食べた人が洗うルールなのに。
もう一度、冷蔵庫の中を見る。
「……減ってる」
朝の時点では、アイスコーヒーのペットボトルは未開封だった。しかし、今は開封済みだ。お姉ちゃんが飲むことはないし、お母さんも基本的には飲まない。お父さんは今日から4日は他県にいる。
私はピンときた。
お姉ちゃんに彼氏ができたんだ!
最近、どうもお姉ちゃんの様子が変だと思っていた。いつもよりスマホに意識が行くようになっていたし、色々なお手入れも以前より気持ち丁寧にやっていた。
口元が
「ひひ」おっといけない。また人に見せられな──。
「邪魔なんだけど」ムカつくくらい透明な声。お姉ちゃんだ。
お姉ちゃんの辞書には、愛想という言葉はない。非常にむすっとした表情でこちらを見ていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんだよ」お姉ちゃんは平均より少し背が高い。一方、私は平均より低い。つまり、機嫌の悪そうな顔で見下ろされているということだ。無駄に威圧感がある。
「このカフェオレどうしたの?」時代劇に出てくる悪代官のような笑みを浮かべたくて仕方がないけど、気合いで堪える。
「……買ってきた」お姉ちゃんはぶっきらぼうに答えた。
「ふーん。いつものじゃないのはどうして?」
「……理由なんてねぇよ」表情や声に違和感はない。
お姉ちゃんは基本的に表情を取り繕うのが上手い。けれど、感情の大きさが一定レベルを超えると──。
「もしかして彼氏?」
お姉ちゃんは、顔をもにゅもにゅさせる。
なんて分かりやすい人なんだ。腕を伸ばし、よしよし、とお姉ちゃんの頭を撫でる。
「おい。やめろ」手を払われた。
「どんな人なの?」めちゃくちゃ気になる。
昔からお姉ちゃんはスポーツ馬鹿で恋愛に興味を持たなかった。このルックスでなんという勿体なさだろうか、とお母さんと2人で嘆いていたけど、ようやく春が来たようだ。
しかし、お姉ちゃんは犯行を否認するらしい。「はぁ? なんで彼氏がいることになってんだよ。そんなのいないっつーの」と冷蔵庫からカフェオレを取り出して口をつけた。
「もうキスはしたの?」
「っ」噴き出しはしなかったけど、ごほごほと
背中をさすってやりつつ、「じゃあエッチは?」と追撃。背中が熱い。
「だから、相手がいないんだって」今度は反応が若干小さい。
「ふーん。あくまで認めない、と」
「なんなんだよ、
「ふーん」
やむを得ないね。そちらがその気なら、こちらにも考えがある。
「ひひ」
ちょっと、そんなに引かないでよ。
翌日の夕食は、私、お姉ちゃん、そしてお母さんの3人が揃っていた。
早速、私は言った。「お姉ちゃん、彼氏ができたんだって」
「っ」相変わらず、お姉ちゃんは噴き出すのは我慢できる人のようだ──
「ほんとなの?!」お姉ちゃんの正面という危険地帯に座るお母さんが、噎せるお姉ちゃんに訊ねた。しかし、涙目でごほごほするだけで答えない。
やむを得ず私がナイスなフォローを入れる。「ホントだよ。昨日、家に来て色々してたみたい」ね! と如何にも仲良く出来事を共有したかのようにお姉ちゃんに嗤いかける。
「お前マジふざけんなよ」ようやく味噌汁との喧嘩を制したようだ。「いないっつってんだろ」
「またそんな口利いて」お母さんは、お姉ちゃんのヤンキーみたいな言葉使いを許せないそうだ。「そんなんじゃ振られるわよ」しかし、今は嗤っているのであんまり怒ってはいないと思われる。
「大丈夫だよ、お母さん」楽しくなっているので私の舌は制御不能に陥っている。「お姉ちゃん、ご飯作ってあげたり、色々努力してるみたいだし、案外上手くやってるみたいだよ」
食器が流しになかったということは、証拠隠滅したに違いない! かどうか定かではないけど、思いついたことを喋りたかったから仕方がない。
「うひゃん」と変な歓声を上げたのはお母さんだ。
この後もお姉ちゃんへの追及は続いた。ものすんごく食べづらそうにしてたけど、しっかり完食するあたり、本当は余裕があるのかもしれない。
時刻は21時過ぎ。リビングでスマホを弄りながらテレビを観ていると、お風呂場の方から気配。お姉ちゃんがお風呂に入るのだろう。
どうやら次のミッションの時間のようだ。「ひひ」私は立ち上がり、2階へ向かう。
しかし、「
なんだよ、40分しかないんだぞ。
渋々、お母さんとリビングに戻り、ソファの、今さっきまでいた場所に腰を下ろす。
「何? 私、忙しいんだけど」反抗期なのでつんつんしても許されるのだ。
「あなた、この前の模試、真面目にやらなかったでしょ」お母さんがチクチクした声色で言った。
「? 真面目にやったけど」私は惚けた。
前回の模試は、めんどくさそうな設問は問題をほとんど見ずに解答を記入していた。そういう気分のときもある。いったい何をぷんぷんしているのか。更年期障害だろうか。
「嘘ね」お母さんは、洋館のダイニングルームで推理を披露する探偵を彷彿とさせる勢いで断言した。「あなたがあのレベルの英語長文でミスするはずがないわ」
どうりで問題冊子まで要求してきたわけだ。この人、私が手を抜いたかを確かめるためにわざわざ問題文をチェックしたらしい。暇なのかな?
暇をもて余したおばさんはとても厄介だ。だからというわけではないが、私は開き直った。「いいじゃん、別に」だってさ、と続ける。「お姉ちゃんの成績に比べたらマシじゃん」
お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんだからお姉ちゃんなのだ。
「はぁ」お母さんは溜め息をついた。「そういうことじゃないでしょ。お姉ちゃんは真剣にやってあれなの! でも、あなたは不真面目なだけでしょうが。私は、そういう態度が駄目だと言ってるの」
なんという理不尽な話だろうか。お母さんの主張が正しいのならば、馬鹿は大した結果を出さなくても許されて、頭のいい奴は常に相応の結果を出さないと許されないということになる。
非常に納得がいかない。頑張らなくてもそれなりにこなせる人間には、手を抜く権利があるはずだ。
「その理屈なら、全力を出しても0点しか取れないような、救いようのない馬鹿は、一切解答しなくてもいいってことになるよね? それって不平等じゃない?」
外形上の変化がないのなら、内心の推定にも変化をつけられない。馬鹿の、〈真面目にやりましたよ〉という抗弁を否定することはできないのだ。
「はぁーっ」お母さんは疲れているようだ。歳だろうか。「あなた、分かってて屁理屈こねてるでしょ。そういうとこよ、そういうとこ! もうちょっと真面目になりなさい!」
「えー」やだよ。私は、気分に任せて楽しく生きてゆきたいのだ。
「はぁ……。いったい誰に似たのか……」
おっぱいだけはお母さん似だよ、と言いかけたけど、私にはまだ希望がある、となんとか踏み止まった。
30分後、お母さんから解放された私は、お姉ちゃんの部屋にいた。
お姉ちゃんの入浴時間は、込み込みで凡そ40分。残り10分しかない──お母さんがくだらないことに
けれど、欲望を抑えることはできないし、できても抑えるつもりはあんまりない。
私の目的はお姉ちゃんのスマートフォン──そこにあるはずの彼氏とのやり取りを調査することだ。
さて、どこにあるかな、と部屋を見回す。コンセントの辺りにはない。机やベッドにもない。
じゃあ、鞄かな。
素早い動きで、学生鞄のファスナーをスライドさせる。鞄の中には、明日の授業で使うのであろう教科書やノート、
紙袋を取り出す。全国展開しているドラッグストアのものだ。
「……ひひ」
紙袋の中には、本当に大丈夫なのか、と心配になる薄さが売りのコンドームがあった。ここまで情況証拠が揃うともはや極刑は不可避だ。
他には何か面白いもの──大人の玩具とか──はないか、と漁ると、横の収納スペースからスマホが出てきた。スワイプする。
そして、顔認証とパスワードの2択からパスワードを選択。
『パスワードを入力してください』
お姉ちゃんは知能指数お姉ちゃんなことに加え、ものぐさな嫌いがある。ので、とりあえずは、イニシャルと生年月日を試してみる。
『パスワードが違います』
次の候補を入力していく。
お姉ちゃんなら、複雑だったり凝ったパスワードにはせず、また、パスワード用の文字列をゼロから作ったりもしないと思われる。つまり、何かに使われている数字やアルファベッドの組み合わせを流用している可能性が高い。
入力し終え、タップ。しかし、失敗。それなら、と少し順番を変えて──。
「……よし」クリアだ。
お姉ちゃんの好きな野球選手を、よく話題に
うきうきしながら通話アプリを立ち上げ、履歴をチェック。
昨日の履歴にある、家族以外の人間がそれだろう。
「見つけた」
家族を抜かすと、〈
あ、でも、レズのパターンもあるのか。お姉ちゃん、男勝りなとこがあるからな。最近では、自分のことを〈俺〉とか言い出したし──まさか一人称を変えたのは
しかし、いや待てよ、と冷静になる。コンドームがあるのだからレズとは考えにくい。
何はともあれ、中身を拝見してからだ。履歴を開く。そして──私は見た。見てしまった。
『今日はありがと』『
「……」正直、きついっす。誰だよこれ。ホントにあのお姉ちゃんなのか。「ぅぅ……」
言語化できない、羞恥心にも似た嘔吐感のような何かに悶えていると、私の耳は、恐怖という精神的概念を物理現象に昇華させた結果、誕生してしまった空気の振動をキャッチした。要するに、ドアを開ける音。
「な、にやって、んだ──?」お風呂上がりのお姉ちゃんが、震える声を発した。というか、声だけじゃなくて身体もぷるぷるしている。
突然、〈好奇心は猫をも殺す〉という言葉が脳裏に過った。
したがって、「にゃ、にゃー」と私は泣いた。何やってんだろ、私。
ガチャリ、とドアが閉められた。
「シュレーディンガーの猫にしてやろう」お姉ちゃんは笑った。
どういう意味だよ! こえぇよ!
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