殺戮オランウータンの存在証明

高梨蒼

解決編:殺戮オランウータンは誰だ

「――故に、殺戮オランウータンなど、存在しないのです」


 大学教授のハルザはそう締めくくった。食堂に集められた五人は呆然として、ぱくぱくと、食事ではなく空気を求めるように何度か口を開閉するのが精いっぱいだった。

 

 信じがたい結論だった。殺戮オランウータンがいない。それはこの悪夢のような十日間を総括するには、あまりにも有り得ない発想である。

 第一の殺人、破壊的なまでに力尽くの密室破り。文明や知性を欠片も感じさせないほどに、王宮外壁は砕け散っていた。

 第二の殺人の現場である西時計塔の側面についた禍々しい手形。屹立する塔は、天地の見張り塔を兼ねていることから特に厳重に警備され、本来内部の長い階段を用いねば最上部へ侵入できない。が、文字通り超人的な、石と鋼に歪みを残すほどの握力で外壁を登ることができれば、監視の目を掻い潜り、精鋭騎士三名の同時殺戮が可能である。

 第三、第四の殺人と同時に発生した王宮への野生動物乱入。連続殺人を以て厳重に警備された王宮の警備網を乱すそれは偶然ではない、何らかの意図が垣間見えた。まるで全てを統率する上位の獣がいるかのごとき動きによって警備は攪乱され、結果、同時刻に二つの事件が発生する不可解な状況となった。

 第五の殺人被害者、遺体及び現場の損壊。サジマ大臣とウバラ大臣であると証明することさえ困難なほどの惨状は、第二の殺人と同じ剛腕によるもの、と推定されていた。状況こそ第二、第三と第四に比べて単純だが、だからこそその暴力性が際立っていた。

 そして、その全ての現場に鋼線より硬く絹よりしなやかな動物の毛が散っていた。


 これらの事件は無論、王宮の外に知らせずに捜査を行っていた。偶然、この地の神獣伝承の研究旅行に来て、成り行きで王宮に招かれた、いわば部外者のハルザも協力し、真相を突き止めようとしたが、それも空しく、王家、来賓の誰ともわからないままに五つの殺人、十名の被害者が発生していた。


 九日を数えて、ついに昨晩、彼らは結論を出した。すべてはこの王国が秘匿していた神獣『殺戮オランウータン』が現れねば有り得ない。

 あとは、この事実を発表するシナリオさえ出来上がればお終い。王室・民間メディアへの発表、国内外への政治的な動き、既存の宗教や魔術界隈との調整など、考慮すべきことは多いが、あと一晩あれば完結するはずだった。


 だというのに、ハルザは彼らを食堂に今回の主要な関係者を集めて告げたのだった。「すべては人為的なトリックで解決が可能である」と。

 そこから、彼はつらつらと、滔々と、あるいは堂々と暴いていった。破壊的、野生的、神秘的なまでの惨状を、皮肉にも単純な梃子、基礎的な魔術に始まり最新・王国肝入りの化学加工技術に終わる人類の知性さえあればこの場の誰にでも可能である、と暴いていったのだった。


「……それでよう、先生」

「なんでしょう?」

「どうやった、はわかったよ。誰でも可能だったこともわかる。いや……正直、科学的な、なんとかトロン反応だかはわからんがな?」


 一番に沈黙を破ったのはフォリス警部だった。どうにか絞り出した声で、ばつが悪そうに、けれど譲らず発言を重ねていく。

 ハルザは動揺せず、給された水を飲む。この食堂で出される水は厳選された天然水なのですよ、と説明してくれた王妃は、第三の殺人の際に侍女とともに亡くなっている。


「それで?」

「誰が、やった。それさえ言ってくれれば、俺ァこの手錠を掛けるよ。たとえ、殺戮オランウータンでも、国王陛下でも」

「……あぁ、それでいいとも。私がやったと立証できるのならね」


 当代国家元首は、静かに頷いた。王妃も近衛兵の幾人かも殺された事件の容疑者として候補になっていようとも、あくまで冷静に――それは王としての理想的とすら言える居住まいであった。


「誰。誰、ですか……」


 ハルザは、そんな感動的なシーンを伏し目がちに一瞥した。それは寂しさとひとかけらの、軽蔑だった。グラスの氷がからりと崩れて、その音に意識を吸われた五人は気付かなかったのだが。


「キーン国王陛下。……あなたは第二の殺人の際、西の時計塔と随分離れた北の礼拝堂にいましたね」

「あぁ。クロウド神父が証人じゃな……」


 王は静かに頷いた。ハルザはその答えに一応満足して、隣に控えるナイラ騎士長へ視線を遣る。


「その神父殿の第四の事件では、騎士長殿はサジマ、ウバラ大臣と一緒にいた」

「えぇ。僭越ながら、もう王宮内に留めておける事態ではないのではないか、と相談を……」

「けれど、その大臣二人はもう亡くなった。ご愁傷様です」


 騎士長は重々しく、苦々しく頷く。そんな彼に、口だけでお悔やみを言ってハルザは続ける。それはごく平然としたもので、自国で教壇に立つ姿に似ていた。


「ギルカさんも同じく、一連の犯行時刻にはアリバイがある」

「……あぁ。だけど」

「察していただけて何よりです。第一の事件では神父殿、第二の事件では、イキス料理長と一緒にいた。二人はともに、第四の事件で亡くなっている。つまり」

「つまり、我々には『今生きていない証人しかいない時間』があるわけだ。そういうことを言いたいんだろう、教授さん」

「……どういう、ことですの?」


 国を代表する魔術師は、諦めたように肩を落とした。彼の肩を落とすのは、叙勲式がとんだ災難だ、という苦労と悲嘆だけの重みではない。もっと、もっと重い諦念がそこにあった。同じく、国王も、騎士長も、警部も、全員が押し黙る。間の抜けた問い返しをしたのはプリンシア王女ただひとりであった。


「つまりは……彼らは、共謀していた。本当はアリバイがない時間を『アリバイがあった』と言い張って、それが偽証だと指摘される前に次の事件を起こした、ということだ」

「……は?」

「第一の事件。ギルカさんは王宮内礼拝堂の蔵書を見る、と言っていたが、クロウド神父は本当にそれを見たのだろうか?」

「え、いや……それは、そうって言ってたじゃないですか」

「では、『退』は言っていたかな?」

「……それは」


 プリンシア王女は言葉に詰まる。確かに、そういう詰めの部分を聞きそびれた、かもしれない。確認しようにも時間は巻き戻せないし、死人は生き返らない。


「続いて、第二の事件のキーン陛下のアリバイについては……そもそも『一緒にいた』と証言を伺う前に、第四の事件が起きている」

「第二の事件が起きて、それからすぐに警備の手配を行いましたからね」

「あのときは随分手際がいいな、と感心しましたよナイラ殿。今となっては、聞き込みも出来ないうちに来賓室に軟禁とは、やってくれたな……とも思いますが」

「……しかし、おかげで獣に襲われずに済んだわけです」

「それは助かった。が……おかげで、第三の事件、第四の事件はろくにアリバイが証明できない」


 じっとりとハルザは騎士長を睨む。騎士長は穏やかながら油断ならない目で悠々と返す。

 その膠着に割って入ったのは、ようやくこれが告発だと気づいたプリンシア王女である。困惑を隠さない大声で、なりふり構わずブレーキを掛けた。


「待ってください!」

「なんですか、もう」

「だって……それは、おかしいですよ。そうだとしたら……全員が」

「そう。この四人どころか、他の王宮関係者も全員が共犯、ということだね。組織的な連続殺人、計画的な偽証、国家中枢の陰謀というやつだ。目的は……土着文化の復興と他国への牽制とか?」


 プリンシアが言いきれなかった結論を、ハルザは平然と語った。それから、またグラスを手に取って、水がないことに気付いて小さくため息を吐く。


「ただねぇ。できれば、これが偶然だといいんだ」

「当然ですッ! お父様も皆さんも、そんな恐ろしいことをしていたなんて……」

「いや、そうじゃなくてだな。第五の事件では、王女様は国王陛下、騎士長、ギルカさんと一緒だっただろう?」

「……はい」


 勢い込んだ言葉も宥められて、プリンシアはただきょとんと返す。一昨日のことだ、今更確認するまでもない。けれど、ハルザにとってはそれが何より重要だった。


「僕はね。フォリス警部と

「……え?」

「いや、概ね一緒だったんだけどね。……僕がお手洗いに行っている間に部下に指示を出せたかもな、と思うと……自信がない」


 ハルザは、いよいよ力なく天を仰いだ。まったく、どうしてこうなってしまったのか。思えば単なる観光だったはずなのに、誘拐されかけていた王女様を助けて、そのまま招待されて、その夜に第一の事件が起きて……。不用意に首を突っ込んだせいで、その首にギロチンが落ちてこようとしている。本国、大学でもこういうことはあったが、しかし国家ぐるみの案件に巻き込まれたことはなかったはずだな、と走馬灯めいて思い返した。


「さて、みなさん? ……逃がして、は……くれませんよねぇ」


 駄目で元々、恥はかき捨てと命乞いをしようかと思ったものの、ハルザの発言は内容も語気もすぐに弱くなってしまった。彼自身、無理だとわかっているのだ。王女の前で暴露をし、彼らも半ば認めている――その状況で、なぜ生きて帰れるのか。

 いっそ、殺戮オランウータンが乱入でもしてくれれば。自分の手で否定した神秘を、ハルザが懇願してしまうほど重苦しい絶望的な盤面。

 プリンシアは何も言えない。尊敬する父親も、頼れる騎士長も、国民栄誉的魔術師も、誰もが敵なのだから、当然である。


 もうグラスには氷が残っていなかった。氷は崩れ、溶け切って、もうこれ以上の変化は望めなかった。


 □エピローグ:殺戮オランウータンは彼だ。


「――故に、殺戮オランウータンは、存在した」


 大学教授のハルザはそう締めくくった。講堂に集まった生徒たちは呆然として、ぱくぱくと、質問ではなく空気を求めるように何度か口を開閉するのが精いっぱいだった。


「今日の講義はここまで。次回まではレポートは特になし」


 歓声が上がるどころか、席を立つ音が響くだけの沈黙に包まれた講堂。余りの結論に学生たちは茶化すこともできず、ただ静かに退室した。

 ただ一人、教壇に向かう少女を除いて。


「おつかれさまでした、先生?」

「はい、どうもお疲れさん、王女様」

「もう。今はただの学生です。だいたい王宮にいたときもその辺の女の子扱いだったじゃないですか」

「まぁ、古いことを持ち出すなぁ」

「ついさっき講義した内容は随分鮮明でしたけど?」

「まぁ、古いことを持ち出すなぁ」

「ついさっきのことを古いとか言わないでくださいよ!」


 プリンシアは、殺戮オランウータン事件の後、ハルザの大学に留学した。身分を隠しての留学だが、常に数人、一般職員や学生に紛れての警備が潜んでいる。


「しかし、ついに、と言いますか……語りましたね、殺戮オランウータン」

「まぁ、土着文化と神獣研究なんで……それに、一応国家ぐるみの証人扱いだからね」


 あの日、結局、ハルザは告発を出来なかった。しかし口封じもされなかった。

 主犯たるキーンが出した結論は、ハルザ自身の立場を利用することだった。ハルザ自身、世界的に著名な神獣、霊獣の第一人者である。一見利害関係がなさそうな彼が「いる」と言えば、本来の目的である示威と土着信仰の裏付けはより確固たるものになる。

 ハルザ自身は、それ以上何も言えなかった。せめて自分につける監視は美人にしてくれないか、と必死に冗談を飛ばすのが限界だった。その交渉には、国王は大真面目に頷いたのだが、半年経った今、まだその美人は見つかっていない。流石にプロフェッショナルということか、とハルザは諦めつつある。


「……すみません。我が国のことで」

「え?」

「学者さんが偽証をするのは……お辛いでしょう」


 この話題になると、プリンシアはいつも悲痛な面持ちをした。彼女はまた、次代を担うために生かされたが、同時に父の世代の醜聞を一夜にして聞かされ、しばらく寝込んでいたそうだ。留学も相当な荒療治である。


 結局、キーン国王は二人を殺した。ハルザの学者の矜持を殺し、『何も知らぬ純粋な姫』を殺したのだ。


 けれど、ハルザはプリンシアと対照的に、へらへらと答えた。


「まぁ、完全にいないと証明できたわけでもないし、いいんですよ」

「へ?」

「学問はいつだって仮説。殺戮オランウータンも、本当はどこかにいるのかもしれない。そんなことよりも、僕は王家の弱みを握ったことの方が嬉しいね」


 にぃ、とハルザは笑う。眼を鋭くも賢しく輝かせる。それは、はたして学者としてか、探偵趣味としてか、切り札を持った男としてか――いずれにせよ、禍々しいものだった。

 背筋を震わせながら、プリンシアは思う。オランウータンは『賢者』だ。であれば、国家の弱みを握り、あるいは己が死ぬとしても推理を披歴した彼こそが『殺戮に躊躇いのない賢者』かもしれない、と。

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