あしたときつね
夏芽
第1話 あの日
「…どしたの」
手を置いた肩が震えている。どうしたらいいのか分からないまま、平静を装って声をかける。
会社帰りや学校帰りの人々でごった返す月曜日の午後6時。おまけに雨。何色か分からない空の下、人々の鬱々とした感情が入り混じるこの場所で、溺れている人間に声をける者はいない。
そんなもんなんだ、この世の中は。
こんな世界で、今この子を助けられるのは世界で自分だけだという、味わったことの無い不思議な感覚が体を巡り、気が付くと彼女に傘を差しかけていた。
「立てる?」
名前だけを知っている同級生が、駅の改札で蹲っているのを見つけたとき、ただの知人Aは一体どうするのが正解なのだろうか。分からないけれど、見捨てることができなかった。正義感、というと聞こえはいいが、ただ怖かったのだ。
彼女を囲む世界がやけに薄く、冷たく見えた。今手を伸ばさないと、もう届かないところに行ってしまう気がした。引き止めないといけない。
無言を貫く彼女に言った。どんな奴だと思われたって構わない。
「俺の家、近いんだよ。このままだと風邪ひくから、連れてくよ。」
流石に何か反応があると思ったが、彼女は人形のように固まり、言葉を発さない。仕方がないから連行することにした。後ろから複数の視線を感じる。自分は見て見ぬふりをするくせに、興味深そうにこちらを傍観している奴らがいるこの場所から、彼女は遠ざかるべきだ。
立ち上がろうとしない彼女をだき抱えると両手が塞がって、傘をさせない。かえって風邪をひかせてしまうかもしれないが、もう引き返せない。
傘を閉じて抱き上げたとき、初めて彼女の顔を正面から見た。黒目の大きい、幼さも残るぱっちりした目は、知人Aである自分の記憶にも残っていた。その目は真っ赤に充血していて、小さい鼻も赤かった。おまけに雨の中蹲っていたせいで、体温が下がり、目と鼻以外は体調の悪そうな青白い色をしている。髪も服もしっかり雨で濡れていて、間違いなく、彼女は溺れていた。
「寒いよね。ほんとにすぐ着くから、濡れちゃうけど我慢して。」
そう語りかけ、家へ急ぎながら、捨てられた子猫を拾ったような気分だ、と思った時、腕の中で彼女が消え入りそうな声を出した。
「ゆうくんが」
突然の発言に驚き、え?と聞き返した。ゆうくん?
彼女は今度は真っ赤な目をこちらに向けて、目を合わせながらもう一度言った。
「ゆうくん。私の彼氏なの。」
その目があまりにも、あまりにも悲しそうで、続きを聞きたくないと、反射的に思ってしまった。でも、受け止めないといけない。この時、俺は、もう何らかの覚悟を決めていたのだと思う。
「うん」
歩みは止めず、できる限り何も考えていないような声を出した。それしかできなかった。
「その人がね、死んじゃったの」
震える声で、精一杯の冷静を保ちながら言った彼女のその言葉は、大雨の中でも、なぜか、はっきりと聞こえた。
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