人生を巡るエレベーター

リウクス

17歳男子高校生

「うっ……!!」


 突然吐き気を催すような浮遊感と、頭が割れるような痛みを感じて俺は目を覚ました。

 ……はずだったのだが……?


「あれ……ここは……」


 恐る恐る辺りを見回してみると、そこは密室だった。

 床面積は畳二畳分ほどで、天井はあまり高くない。恐らく2mあるかないか。

 背後には直径1.5mほどの鏡があって、目の前には重厚そうな金属のドア。

 その右側には1~17までの数字が羅列されたボタンが縦2列に並んでいる。


 パッと見は間違いなくエレベーターだ。

 電気は通っているみたいだが、動く気配はない。


(なんでこんなところに?)


 おまけにさっきまで残っていた不快な感覚も、いつの間にか消えていた。


 おかしいな……確か俺は頭をどこかに強く打ち付けて、それで気を失ったはずなんだけど……。

 それで——


(……)


 なんだか思い出そうとすると、嫌に胸の内がもやもやする。


 これはもしかして恋——と一瞬思ったが、まあそうではないだろう。

 ドキドキというよりも、どこか冷や汗をかくような緊張感と恐怖、動悸が乱れるような焦燥感と苛立ちを纏っているような……。


 なんだか胃が気持ち悪くなってきた。


 俺はいったん落ち着くために大きく深呼吸をすると、もう一度自分の置かれている状況を冷静に分析してみた。


 まず、俺は今エレベーターに一人閉じ込められている。

 目を覚ます前は風通しのいい屋外にいた気がするのだが、なぜこんな息の詰まるような空間に移動しているのだろうか。


 そして、気になるのは恐らく今俺がいるこの建物の階数を表している数字。1~17。

 なんだかこの並びには見覚えがある……なんだったっけな……。

 思い出せそうで、なかなか思い出せない。

 17階というと、少なくともうちのアパートではないな。あそこは5階建てだ。


 次に目についたのは俺の全身を映す鏡。

 どこを見ても特におかしな点は見当たらないが——覗き込むとなぜか不安になる。


 俺の服装はいつも通り学校の制服。

 ブレザーのボタンを外している点を除けば、着こなしに問題はなし。善良な高校生だ。

 ただ相変わらず顔だけは冴えないというか、見ていて気分がよくなるものではないな。


 あと気になるのは、俺の荷物がどこにもないというところか。

 別に何か大切なものを入れていたから失くすと困るというわけではないけど、制服を着ている以上外出しているなら鞄の一つや二つ持っているはずでは?

 もしかしてここに連れて来られる際に盗まれたのだろうか。

 だとすると犯人は強盗?

 いや、それならわざわざ俺を狙ってこんなところに閉じ込めたりなんてしないだろう。


「うーむ……」


 考えてみても何もわからない。


 第一、閉じ込められる直前の記憶も曖昧だ。

 どこか外で……風が冷たくて……俺は頭を打って——


 ん。ていうか、そもそも俺はなんで頭を打ったんだっけ?


 ……うーん、だめだ。思い出そうとすればするほど混乱する。

 記憶障害の持病があるわけでもないし、頭をぶつけたのが原因なのだろうか。


 兎にも角にも、何もわからないのならば、何でもいいから行動を起こすしかない。

 とりあえず、今は静止しているこのエレベーターが動くかどうかを確かめないとな。


 俺はまず開閉ボタンを押してみた。

 しかし、思った通りドアが開くことはなかったし、階床表示も真っ暗なまま。

 降りられず、どこにも停まっていないなら、どこかの階とどこかの階の間で宙ぶらりんの状態だったりするのだろうか。


(落ちたりしないだろうな……)


 ほんの少し肝が冷えた。


 それから緊急の呼び出しボタンを探してみたのだが、どうやらどこにも備わっていない様子。

 今時令和のエレベーターで緊急用に何も備わっていないなんてありえない気がするのだが。


 しかし内装は綺麗だし、特別古いモデルというわけでもなさそうだ。


 となると、残るは1~17の行先階ボタンか。

 これで動いてくれると助かるのだが、もし何かの拍子に落っこちたりでもしたら——


 そう考えると、俺は思わず生唾を飲み込んだ。

 今はそっとしておくべきだろうか。


 だけど、こうも外部との連絡を絶たれ、閉鎖空間に取り残されると精神的な負荷もあって落ち着かない。

 俺一人だけ孤独に取り残されて、みんな去って行ってしまうような……。


 ——いやいや、落ち着け。大丈夫。

 しばらくすれば助けが来るかもしれないし、あと1時間くらいは辛抱して待ってみよう。


 いやでも待てよ。そもそも時間も何も確認できないじゃないか。


「……」


 額から汗が流れ落ちる。


 俺はしばらく葛藤すると、やはりボタンを押してみることにした。


 正直耐えられなかった。

以前にもこういう窮屈な思いをしたことがあるのだが、やはり慣れないものは慣れない。


 さて、それじゃあどの階から押してみるか。

 いきなり17階まで上ってしまうのはなんだか怖いから、無難に1階から順番に押していけばいいかな。


「よし」


 俺は両手を握って決心すると、1階のボタンに手を伸ばした。

 そして、指先が触れると——


 ガタン。


(うわっ)


 エレベーターは突然音を立てて動き出した。

 機械的なアナウンスも何も流れてはいない。


「びっくりしたあ……」


 心臓がバクバクいっている。

 死ぬかと思った……。


 しかし、不思議な感覚だ。

 上っている気もするし、下っている気もする。

 方向表示を見ると、やはり上も下も指していない。


(これ本当に目的地まで着くのか?)


 エレベーターが動いても、不安なものは不安なまま。


 俺が内心本気でビビりながら黙り込んでいると、突然上部の階床表示が点いた。


『1』


 エレベーターの動きもゆっくり止まった。

 どうやらちゃんと、1階に着いたようだ。


(よかった……)


 俺はほっと胸を撫でおろす。


 すると、チンッと音を立ててエレベーターのドアが開いた。

 どうやら故障はしていなかったみたいだ。


「よしよし」


 俺は安堵の表情で外に向って歩き出した。


 これでとりあえずは安心——


 だと思ったのだが、俺はドアの開いた先に違和感を覚えた。


 あれ。

 ここ、なんだか見たことがあるような……。

 それに、これはどう見ても室内だよな? 加えてとても生活感がある。

 誰かの家のリビング……?


 奥に見えるカレンダーの27日には赤い丸がふられている。


 エレベーターが直接人の部屋に繋がっているなんてことあるのだろうか。

 いや、普通はないだろう。


 俺は不信感を抱きつつも、恐る恐る中を覗き見ようとした。


 すると、突然目の前に赤ん坊を抱いた男の姿が現れた。


「うわっ。あ、すみませ——」


 俺は思わず後ずさる。

 しかし、彼は俺に気づいていないみたいだった。


(なんだ……?)


 まるで俺のことが見えていないような。むしろ俺がこの場にいないような。


 それからもう一人、部屋の奥から若い女性が現れた。


「……え」


 その姿には、確実に見覚えがあった。


 ——母さんだ。

 母さんがいる。

 一体、どうして。


 じゃあ、この男の人は。

 父さん——なのか?

 確かにその顔つきや体格は俺の記憶の中にあるものと類似していたが、表情とか滲み出る雰囲気みたいなものが、明らかに俺の知っている父さんではない。


 俺の知っている父さんはもっと暗い顔で、眉間にはいつもしわが寄っていて、少なくともこんなにも幸せそうにしている顔は一度だって見たことがない。


 それに、俺が8歳の頃に両親が離婚して以来、俺は父さんに一度も会っていない。

 それがなんで、今ここに……。


 いや、よく見ると母さんも父さんも、俺の中のイメージよりもずっと若い感じがする。


 だとしたら、これは——

 父さんが抱いている赤ん坊は——


 俺がひどく呆然として立ち尽くしていると、自動的にエレベーターのドアが閉まった。


 しばらくの間無音が続く。


 ……信じられない。

 あれは、多分若い頃の両親と、生まれてからまだせいぜい1年くらいの俺だ。

 それなら、俺がさっきみたあの光景は、俺の——過去、なのか?


 どうして、こんなことが。


 すると、ゴウンと音を立てて再びエレベーターが動き出した。


 もしも、あれが俺の過去だったとしたら、あれが1歳の頃の俺だったとしたら、この1~17という数字は……恐らく、俺の年齢だ。俺は今年で17歳になる。

 道理で見覚えがあったわけだ。


 じゃあ、今ここでボタンをどれか押せば、俺がそこに表示されている数字の年齢だった頃の過去を覗き見ることができるということ、なのか?


 まだ頭が混乱している。

 これは夢なのではないだろうかと思った。


 しかし、今俺が感じている感触は生そのもので、頬をつねってみてもちゃんと痛い。


 こんなことがあり得るなんて。

 正直全く信じられないが、さっき見たものが現実であった以上この現状を受け入れるほかないのかもしれない。


 でも、本当になんで今こんな現象に出くわしてしまったのだろう。

 この現象には何か意味があるのだろうか。

 俺が俺の過去を見て何になるというのだろうか。


 過去に失ったものは、もう二度と取り戻すことなんてできないというのに。


 とりあえず、過去を遡るにあたって、自分の記憶を整理しなければ。


 まず、俺が物心つき始めたのは恐らく3歳か4歳の時で、8歳の頃に父さんの暴力がきっかけで両親は離婚した。

 それから母さんは女手一つで俺を育ててくれて、それで——


「……」


 あとは9歳の頃、引っ越し先で幼馴染の親友が二人できた。祐樹と愛だ。

 彼らとは高校生になった今でも親交が続いていて、何なら俺と愛は恋愛関係にある。平たく言えば付き合っているということだ。


 母さんと二人暮らしになってからしばらくは辛い日々を送っていたが、立ち直れたのはきっと彼らのおかげだろう。俺が落ち込んでいるときはいつも励ましてくれて、母さんが困っているときは、いつだって家のことを手伝ってくれた。


 でも、彼らのことをもっと思い出そうとすると、なぜだか俺の心の中に何か虚しいものが生まれているのを感じた。

 ぽっかりと大きな穴が開いてしまったような感覚。


 祐樹と愛がいたから、今の俺がいるというのに、どうしてこんなにも鬱屈とした気持ちになるのだろう。

 この感情はむしろ絶望に近い。


 彼らに対する印象と俺の気持ちが噛み合わない。


 俺が忘れているだけで、過去に何かあったのだろうか。


(……)


 今俺がこのエレベーターを使って、過去を辿ることで、それを思い出すことができるかもしれない。

 だけど、それを知ってしまったら、俺はもう何もかも終わりなのだという気がしてくる。

 そしてそれと同時に、なぜだかそれを知らない限りはここから抜け出すことも叶わないのだと直感した。


 真実を知って外に出たい自分と、このまま殻にこもって都合のいい記憶だけを抱えていきたいという自分が相反している。


 ——怖い。


 しかし、こんな密室に閉じこもって何になるというんだ。

 例え俺を待つ結末が悲劇だったとしても、彼らに二度と会えないことの方がよっぽど辛いんじゃないか。


 それに、何よりも俺は彼らを信じている。

 どんなことがあったって、俺は祐樹にも愛にも失望したりしないし、俺から見捨てることだって絶対にありえない。

 彼らだって俺を大切に思ってくれているはずだ。

 俺が失意のどん底に落ちていた時、そこから引き上げてくれたのは彼らなのだから。


「うん。そうだ」


 俺は何を疑心暗鬼になっていたんだ。

 密室に閉じ込められてちょっとナーバスになっていただけじゃないか。

 それを彼らに押し付けるなんて、最低だ。


 それなら話は早い。

 あとは最後まで過去を辿って、ここから出てしまえばいいだけだ。


 それとは別に、確かに悲しいことはあったけれど、それもきっと乗り越えなければならない壁なんだ。


「よし!」


 俺は早速次の階のボタンへと手を伸ばした。





 思い出を客観的に眺めるというのは少し奇妙な感じがするけれど、あれから俺は順調に自分の過去を辿ってきた。

 2歳から14歳まで。荒れていく家庭環境と、仕事が忙しく生活を維持するのに必死な母さんの姿を見返すのはやっぱり少し心苦しいものがあって、様々な後悔にも苛まれたが、それでも俺は今を生きている。


 母さん、そして祐樹と愛と、支えあいながら、共に精一杯生きてきたのだ。

 少なくとも、俺はそれを無駄だったとは思わないし、その過去を変えたいとも思わない。

 どんなに辛く悲しくたって、俺にとっては大切な思い出だ。


 ……だけど、次の15階だけは、躊躇いがないと言えば嘘になる。

 この年に、俺は自分にとって最も大切なものを一つ、失ってしまうのだから。

 人生初めてともいえる挫折を味わってしまったのだから。


(…………)


 ボタンに向う人差し指が震える。

 あの時のことだけは、振り返って耐えられる保証はない。

 今だって完全に吹っ切ることなんてできていない。


 もしかしたら、今度は再起不能になるくらい心を砕かれてしまうかもしれない。

 もうここから出たいなんて思わなくなるかもしれない。


 しかし、俺は祐樹と愛を信じて前に進むと決めた。

 今まで彼らから受けた恩を仇で返すようなことはしない。


 大丈夫。

 立ち直れなくなっても、きっと彼らが助けてくれる。


「すぅ……」


 俺は深く息を吸って吐くと、揺るぎない決心と共にボタンを押した。


 ガタン。


 エレベーターが動き出す。


 先の階よりも到着が少し遅れている気がした。

 それが俺の不安をさらに煽って、心を圧迫する。


「はぁ……はぁ……」


 上下の感覚は分からないが、不思議と15階に近づいている気がした。


 そして、エレベーターはゆっくりと、不気味に静止して階床表示が光った。


『15』


 ……来てしまった。

 俺が15歳の時。俺の元から大切な人が一人去って行ってしまった年。


 もうこの事実を変えることはできないけれど、これだけは未だに心残りを消し切れていない。

 まだ何かやれることがあったのではないかと自問自答し続けている。


 しかし、俺の躊躇いをよそに、エレベーターのドアは無慈悲にも開き始める。

 そして、ドアの隙間から少しずつ光が漏れて、その先の景色がじんわりと浮かび上がる。


 そこに現れて見えたのは——


(あぁ)


 あぁ、やっぱりこの時だった。俺が過去を遡るとしたら、15歳は必ずこの時なんだと確信していた。


 俺の人生で一番大切な人、俺の、母さんが天国へ旅立って行ってしまった日の光景だ。

 簡素な一人部屋の病室に、母さんが真っ白なベッドの上に横たわっていて、そのそばで、俺は母さんの冷たくなった右手をいつまでも握りしめていた。


 ずっと、ずっと、どれだけ時間が過ぎても涙は止まらなくて、頬を伝って滴り落ちる雫がシーツに染みて水浸しになっていた。


 悲痛に泣き叫ぶ声が、それをエレベーターの内側から傍観する俺の鼓膜を突き刺して、離れない。


 俺は——どうすればよかったのだろう。

 父さんと離婚して、母さんは夜遅くまで仕事で家には帰れなくて、お互いの誕生日をまともに祝うこともできなくて、次第に体の方が限界を迎えて、母さんは倒れてしまったんだ。


 俺が大学に通えるように、貯金もしていたらしい。

 俺は自分のことで一杯一杯で、当時はそんなことにも気づくことができなかったけれど、母さんが亡くなった後、俺に渡された遺書にはそう書かれていた。


 俺たちは毎日忙しい日々を送っていた。だけど、母さんと、俺と、祐樹と愛で、助け合いながら生きていくのは嫌いじゃなくて。むしろ大切で、大好きな時間だったから、それがこんな結果に繋がってしまったのは、残念で仕方がなかった。


 もっと母さんに楽させてやれたら、忙しいことが幸せだなんて幻想に逃げていないで、現実を見ていたら、母さんが倒れてしまうこともなかったかもしれないのに。


 もう動かない母さんの手を握り締めながら、俺はそうやって自分を責め続けていた。


 だけど、そんな俺に希望を見せてくれたのが祐樹と愛だったんだ。


 母さんがいなくなった後も、祐樹と愛は、俺がもう一度笑顔を取り戻すまで、いつまでも一緒にいてくれて、俺を決して独りにはしなかった。

 だから、悲しいけれど、寂しくはなくて、俺の心は壊れずに済んだんだ。


 もし、彼らがいなかったら、俺は後悔の重さに耐えられなくなって、自ら命を絶っていたかもしれない。


 それほどまでに、彼らの存在は大きかった。


(……)


 俺はもう一度母さんがいないという事実に直面したら、今度こそ立ち直れなくなると思っていた。

 だけど、やっぱり祐樹と愛が俺を絶望から救い出してくれたんだと思うと、胸が軽くなる。

 彼らのおかげで俺は生きているんだ。


 そして、それから半年くらい経って、俺がまた彼らと笑いあえるようになる日が来て、その直後に、俺は愛に告白される。

 「その笑顔が大好き」だって。


 失ったものの大きさは計り知れないが、得たものだって同じくかけがえのないものだったんだ。


(ああやっぱり、最初にエレベーターを動かして正解だった)


 このエレベーターに乗って、初めは彼らのことを思い出すと、なぜだか虚しさが込み上げてきたけれど、あれはやっぱり一時的なものだったんだ。

 単純に独り閉じ込められてしまったことに戸惑っていただけだ。


 俺が再び決意を新たにすると、エレベーターのドアがガチャンと音を立てて閉じた。


「んっ」


 俺は大きく背伸びをした。


 なんだか清々しい気分だ。

 晴れやかだとも言えるくらい気持ちが楽だ。


 この勢いのまま、次の16階と17階だって簡単に乗り越えられると、俺はそう感じた。


(よし、さっさと次に行ってしまおうか)


 早く祐樹と愛に会いたくて仕方がない。


 そういえば、今思い出したけど、俺は愛とデートの約束もしていたんだ。

 こんなところで立ち止まってなんていられない。


 次は16歳。俺たちの絆が一層強くなって、俺がもうほとんど何の支障もなく日常生活を送れるようになった時期だ。


 何も恐れることなんてない。


 このエレベーターは希望に満ち溢れた未来へ上昇している。

 きっとこれは、それを再確認するための現象だったんだ。


 俺は何の迷いもなく、勢いよく16階のボタンを押した。

 そして、エレベーターは動き出し、15階の時よりもうんと早く目的地に到着した。


 今なら冗談だって言えるくらいの余裕がある。


「開けゴマ!」


 俺は恥ずかしげもなく堂々と口に出してそういった。


 すると、それに呼応するかのようにドアが開いて、外の景色が見えてきた。


 さて、この年はどんな記憶を覗くことができるのだろうか。楽しみだ。

 俺は期待を胸に、入口の前に立った。


 そして、俺の視界に映ったのは、とある秋の日の夕暮れだった。


(ここは……)


 辺りを見回すと、街頭ビジョンが目について『10月26日(火)17時20分』と表示されているのが見えた。


 駅前の交差点か。

 時間が作れたときは、祐樹と愛と遊びに来ていたからよく覚えている。

 この日は何かあったっけな。


 舗道にはいつも通り会社帰りのサラリーマンや学校帰りに寄り道する生徒たちの姿があって、涼しい秋の風を感じながら「寒くなってきたねー」「そうだねー」と歓談している。


 それにしても、祐樹と愛はおろか、俺の姿も見えないな。

 遊びに来ているんじゃないのか。


 いや、そういえば俺はこの日、進路相談と先生の手伝いがあって、いつもより遅れて帰ったような気がする。

 それで、彼らを待たせるのも悪かったから、二人で先に帰ってもらったんだったけな。


 でも、こんな時も大抵彼らは最後まで俺のことを待っていてくれて、何事もなかったように「一緒に帰ろう」と手を差し伸べてくれるのだ。


 ——だけど、この日はなぜだか一緒に帰った記憶がない。


 いつも期待していたわけではないが、それが当たり前になっていて、むしろ待っていてくれないことの方が珍しかったから、俺の中で何か嫌な予感があった。


 そして、俺が微かな違和感を抱きながらエレベーターの外を眺めていると、駅の改札口の方から祐樹と愛が出てくるのが見えた。


 ——そこに俺はいない。


 おかしいな。二人とも外に用事でもあったのだろうか。

 遊びに来ているなら、二人で行くにしても俺に連絡くらいしてくれればよかったのに。


 3人で行動しない日なんて滅多になかったから、どこか物足りなく思えてしまう。


 一体二人は何をしに来たのだろう。


 俺が首を傾げながら頭に疑問符を浮かべ、眉をひそめていると、彼らは色んな建物を吟味して、それから最終的に少し高級そうなアクセサリーショップへと足を運んだ。

 看板には装身具店と書かれている。


 装身具って、ネックレスとか指輪とかそういう類だよな……?

 あの二人がこんなところに何の用だ? 恋人同士ならまだしも、ただの仲がいいだけの幼馴染がこんな気取った店で買い物なんてするものだろうか。

 それに、あんなに高そうなものを買う余裕が高校生にあるとは思えないし……。


 二人は店内を一通り回ると、窓際の展示の前で足を止めた。

 そして、愛が一つ控えめなネックレスを手に取ると——


 それを祐樹の首にかけて優しく微笑んだ。


「——え」


 すると、祐樹は頭をかきながら決まり悪そうにはにかんで、首元をきらきらと光らせた。

 そこに従業員が歩み寄って、何かを話すと、愛は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、あたふたしていた。

 それを祐樹は微笑ましそうに見つめている。


「な、なんで」


 それから今度は祐樹がその対になるようなネックレスを掬い上げて、愛の後頭部まで手を回し、彼女の白く細い首に垂らした。

 二人とも頬を赤らめて幸せそうな顔をしている。


「どうして」


 これではまるで恋人同士みたいじゃないか。

 愛は俺の彼女で、祐樹にだって自分の彼女がいるはずなのに。

 あいつら、一体何を——


 次に彼らは二人でお金を出し合いそれらを購入すると、店の外へ出てきた。

 お互いにこやかな表情を浮かべて、今にも駆け出してしまいそうなくらいそわそわしている。


 そして、その様子を一人孤独に遠くから見つめる俺がいた。

 先生と進路を決めた俺は、少々時期早々ながら受験対策用の参考書を買いに行く途中だった。


 しばらくすると、俺は彼らのもとに駆け寄って、声を震わせながら問い詰めた。


「なあ」


「……へ!?」


「な、お前なんでここに!? 進路相談と手伝い終わって帰ったんじゃ」


「それはこっちのセリフだよ。お前たちこそこんなところで、こそこそと何やってんだ」


「え、いや、べ、別に? こそこそなんてしてないけど」


「そうだよ。僕たちはただ買い物に来てただけで——」


「何の買い物だよ」


「え」


「何の買い物なんだって聞いてるんだよ」


「いや、それは、えっと……」


「……」


 祐樹と愛が目配して、徐に答えた。


「その……ごめん、それはちょっと言えない……」


 その瞬間、俺の心は粉々に砕け散った。


 俺はあいつらに騙されていたのだ。


 今までどんな時もお互いを想いあって生きてきたと思っていたのに。

 二人とは一生親友でいられると思っていたのに。


 俺の知らないところで、二人は恋人関係にあった。

 それも、不倫同然の関係。


「あぁ……あぁぁぁ……」


 俺はいたたまれなくて走り出した。


「ちょ、ちょっと!」


 彼らの呼びかけにも応じず、ただひたすら、夕空の下を疾走した。

 肌を突き刺すように冷たい夜風が頬を掠める。


「はぁ……! はぁ……!」


 肺が破裂しそうなくらい苦しい。

 胸が痛い。

 どうにかなってしまいそうだった。


 ずっと、ずっと、ずっと信じていたのに。

 その信頼を、考えうる限り最も最低な形で壊されてしまった。


「そん、な」


 エレベーターで立ち尽くす俺は、その光景を目の当たりにして、膝から崩れ落ちた。


 そして、重々しくドアが閉まる。


「あ……あ……」


 そうだ。

 そうだった。

 全て思い出した。


 両親が離婚して、母さんが死んで、あいつらに裏切られて、俺は全部失ったんだった。

 あいつらに関しては、そもそも信じた俺が馬鹿だったんだ。

 ただ長い間友達やってただけで特別視して、何でもかんでも都合のいいように解釈して、俺はなんて愚かだったんだ。


 あいつらは可哀想な俺にかまってあげる自分が可愛いくて、悦に浸っているだけだった。

 最初から本気で俺を救ってやろうなんて考えていなかったんだ。


 きっと、愛からの告白を受けて浮かれている俺を見て、内心嘲笑っていたに違いない。

 あいつらは恵まれているから、俺の気持ちなんてわかるはずがない。


 ——なんでこんなにも失うばかりの人生なんだ。


 もうこれ以上、何を失えばいいっていうんだよ。


 俺は空っぽで、何にもない。


 家族も、友達も、恋人も、みんな俺を独りにして、置き去りにしていった。

 孤独という窮屈な檻に閉じ込めて、抜け出せないように。


 視界が真っ暗だ。

 これから先の未来が何も想像できない。


 こんな惨めな人生を送って、何が楽しいんだよ。


 振り返ってみれば、俺が真に幸せを感じている瞬間なんて一度だってなかった。

 楽観主義なんて思考放棄でごまかしていただけだ。

 俺はもうそれに気づいているのだ。


 だから、これからまた何かを失う必要があるのならば、いっそこんな人生ごと——


 ガタン。


 俺は無気力に17階のボタンを押した。

 ほとんど意識はない。


 ただ吐き気とめまいがして、胃の不快感が消えてくれない。

 頭が痛い。


 そして、無機質な音を鳴らして静止したエレベーターが、俺に人生最後の景色を見せる。


 同時に突風がなだれ込んできた。


「うん……だよな。知ってたよ」


 そこに現れたのはアパートの屋上で、その柵の向こうには虚ろな瞳で空を見つめる俺の姿があった。


 ボタンの外れたブレザーが風に流されて靡いている。

 祐樹と愛との絆を失ったその日の深夜のことだった。


 どうやら覚悟は決まっているらしい。


 ……本当に、こんな終わり方だなんて、俺の人生には何の意味があったんだろうな。

 17年間ただ環境に振り回されているだけだった。


 思えば夢らしい夢だって持っていなかった。

 例え持っていても、俺の経済状況で叶られるわけがない。

 俺を待っているのは破滅だけだ。


 命を投げ出すには十分すぎるほどの口実じゃないだろうか。


 さあ早く、飛び降りてくれよ、17歳の俺。

 何をぐずぐずしている、

 もう楽になりたいんだ。

 ひと思いにやってくれ。


(……)


 中々飛び降りてくれないな。


 17歳の俺が呆然としている間、時間を持て余した俺は1~17まで並んだ行先階ボタンを順に目で追った。


 1歳から3歳までの記憶は朧気で、4歳から8歳までは父に暴力を振るわれ両親は離婚、9歳から14歳までは生きることだけで精一杯。

 15で母を失い、16で幼馴染であり親友、そして恋人に裏切られ、17歳で飛び降り自殺。


 ほんとろくでもない人生だったな……。


 俺は目を閉じて回想した。






 ——待て。


 なんだ。

 何かおかしい。

 何かを見落としているような気がする。


 なんだ。胸の内のざわめきを抑えきれない。

 この違和感の正体は一体——


 俺は再び番号順に羅列したボタンに目をやると、あることに気が付いた。


「なんで、最後が17歳なんだ……?」


 俺が駅前で祐樹と愛を目撃したのは16歳の時で、今俺が見ている光景はその日の深夜。

 だからこの階は17ではなく16が正しいはずでは。


 じゃあなんで。


 少し考えると、街頭ビジョンの日付が頭に浮かんだ。


『10月26日(火)17時20分』


 もちろん、これだけでは何の答えも出すことはできない。


 しかし1歳の過去を見ていた時、偶然目に入ったリビングのカレンダー上に赤丸で強調されていた日付を俺は覚えている。


『27』


 他人から見れば何の変哲もない数字かもしれない。だけどその日は俺の——



 ——誕生日だ。



 長年まともに祝うことができていなかったから、すっかり忘れていた。

 10月27日は俺の誕生日。すでに日を跨いでいた深夜には誕生日を迎えて、17歳になっていた。

 俺はそれに気がつかなかった。



 そして今、一つの可能性が生まれた。


 祐樹と愛の買い物は、もしかして——俺への誕生日プレゼントだったのではないか?

 俺に内緒で、サプライズの計画を立てていたのではないか?


 もちろん、また自分の都合がいいように考えてしまっていることは承知しているつもりだ。

 あの二人のやり取り、二つのネックレス、考えれば考えるほど疑わしいことは確かだ。

 だけど逆に、彼らの無実を証明できさえすれば、今まで共にした時間もすべて“本物”になる。

 俺と彼らの絆は絶対のものとなる。


 ならば、彼らに罪があると決めつけるには、まだ早すぎるのではないか。

 自分の人生が無価値かどうかを決めるのはそれを確かめてからでもよかったのではないか。


「あ……」


 それじゃあ、今まさに、夜の闇へと身を投げようとしているあいつは。

 そんな思考を働かせる余裕もなかったあいつは。


 だめだ。


 少なくともまだ、死んではいけない。


 命を捨てるべきではない。


 ちゃんと、確証が持てるまで、まだ分からないから。


 あの二人とだって、あれから話の一つも交えていない。


 絶望するにはあまりにも——



 身体中にじわりと汗をかいた。


 今目の前で柵から手を離した俺を、止めなければならない。

 絶対に。


「おい!!!!」


 俺は全力で叫んだ。


 こちらを伺う様子はない。


「何やってんだ!!!!!」


 喉が切れるくらい大きな声で呼びかけても返事はない。


「待ってくれ!! もう少しだけでいいから!! あと1日だけでいいから!!! 明日は俺の誕生日なんだ!!! それまでは——」


 こちらに気づく素振りは全く見せない。


 俺の片足が宙に浮く。


「やめろ……やめてくれ……だめだ……」


 そして、重心が傾く。


「まだ……」


 重力に沿って体が落ちる。

 そして——


「頼むから……」


 17歳の俺が、視界から消えた。


「…………死なないでくれ」


 ドン。


 鈍い音がした。




◆◆◆◆◆




「——くん」


 何だ。


「——!」


 誰だ。


「——」


 誰かの、声がする。

 2人……女の声と、男の声。


 一人は多分愛で、もう一人は祐樹。


 ……あれ、俺今、どうなっているんだっけ。


 頭が……重い……。


 身体が動かない……。


 ここ、どこだ……?


 何も、見えない。


「——!」


「——りくん!」


「——んり!」


 何を言っているんだ。


「絆利ばんり!!」


 ばん……り……。

 そうだ、それは俺の名前で………………。

 それで……えっと…………。


 あ、そういえば俺……。


「絆利くん!!!」


「絆利!!」


「先生!!絆利くんが目を——」


 祐樹……愛…………。


「おい、絆利! 聞こえるか!」


「絆利くん!」


 両手が…………暖かい。

 ずっと、ずっと、握りしめて、くれていたのか。


 ああ……そうか……それじゃあきっと……。


「友崎、友崎絆利さん。わかりますか」


「…………は……い」


「自分の名前は言えますか」


「えと………………友崎、絆利……です」


「絆利!」


「絆利くん!」


「わ」


 何だよ……急に抱き着いたりして……。


「ごめんね、ごめんね」


「もう…………いいよ……わかって……る…………から」


「僕もすまなかった。お前の信用を損なうような真似して……」


「うん……だいじょう……ぶ」


「あの時、お前と、愛の、二人の分のネックレスを選んでいて、それで」


「ああ」


「サイズとか、形とか、入念に調べて」


「……うん」


「そしたら店員さんに勘違いされて」


「……」


「俺たち恥ずかしくなって、多分、お前はそれを見ていて……」


「そう…………だな……その……とおり」


「本当に、すまなかった」


 ……やっぱり、二人を信じて、よかった。


「絆利?」


「いや…………なんでも……ない」


「…………そっか」


「あの、とりあえずお二人は一度外へ」


「あ、は、はい」


(…………)


「じゃあ、またね。絆利くん」


「ああ……また」


 俺は力の入らない手で、ゆらゆらと二人を見送った。



 ——それから診察を受けて、身体の状態を詳しく検査した。

 彼らに毎日会えるようになるのはまだまだ先のことだったけれど、ひとまず、命に別状はないらしい。

 5階建てのアパートがそれほど高くなかったこともあって、ほとんど骨折だけで済んだようだ。

 あとは諸々の機能に関する検査が残されているが、今はとりあえず、これでいい。


 俺はただ、何よりも早く、もう一度二人の顔が見たかった。


 俺が信じたあの二人を。





「よお、絆利!」


「おはよう、絆利くん!」


「ああ、おはよう。愛、祐樹」


 あれから1年近く経過した。

 俺は頭部への衝撃によって外傷性視神経症を負い、視力が低下したが、幸い四肢に異常はなかった。


 少し前が見にくくなってしまったけれど、それでも、彼らが俺の手を引いてくれる。


「絆利くん、行こうか」


「うん」


 俺は彼らの手のぬくもりを、決して忘れない。

 俺を絶望から救いあげてくれた、あの手を。


「絆利と愛は、今日デートだったか」


「えへへ、そうだよ」


「かーっ。青春だねえ」


「祐樹だって、今日は彼女さんのお家にお泊りでしょ? やらしー」


「はあ? 俺はお前らと違って、いたって健全なお付き合いだからな」


「え~ほんとに~? ていうか私だって、絆利とはその…………キスどまりなんだから」


「え、何。お前らもうキスとかしちゃってるの?」


「は、はあ!? そりゃ高校生だし、その、キスの一つや二つくらい……」


「やらしー」


「うるさいなあ! もう!」


 今日も二人は騒がしい。


 だけど、それはあの無音で窮屈な空間とは対照的で、身も心も解放された気分だった。


「おい、絆利。何ぼーっとしてんだよ。早く行くぞ」


「おう」


「ていうか私たち、受験生なのにこんな遊んでていいの?」


「思い出させないでくれよお~!」


「はは」


 俺の人生はまだ、何かを失っては得ることの繰り返しだけど、着実に一つずつ、上へ上へと昇っている。


 時には進むべき方向を見失うこともあるけれど、大切なものはいつだって変わらない。


 落ち込んだら、たまにそれを思い出して、また前を向く。


 この先で待ち受けている運命は、きっと幸せなことばかりじゃない。

 だけど——


「あ、そうだ。絆利」


「ん?」


「誕生日、おめでとう」


 それでも、俺はこうして生きているから。


 可能性を信じて、命を育んでいく。

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人生を巡るエレベーター リウクス @PoteRiukusu

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