第7話 死は身構えていない時にこそやってくる

 倉庫を脱出して廊下に出た鴨井は、八島に殴られて腫れた頬に手を当てながら、左右に視線を振った。通路のどちらかに行けば、階段があるはずだ。そう思ったが、どちらにも階段は見えない。両方の通路の突き当たりには曲がり角があるから、どっちかには上に通じる階段があるはずである。

 どちらに走るべきか、悩んでる余裕はない。意を決した鴨井は右側に走り出した。もたもたしていると、あの殺人カボチャと、その傍らにいるイカレた男――八島に追いつかれてしまう。逆に言えば、外に出てさえしまえば、こちらの勝ちだ。外には会場警備に当たっている市警察がいるはずだから、助けを求めればいい。

 通路を右側に走り、突き当たりを曲がった鴨井。その先にあったものを見た鴨井は、自身の決断を後悔した。


「ちくしょう! マジかよ!」


 鴨井の走った先は行き止まりになっており、上に続く階段はそこになかった。通路に出た時、左側に行っていれば、今頃階段を上がれたのだ。

 冷や汗をかきながら、鴨井は来た道を戻った。戻れば、に出くわす危険が高い。けれども戻らなければ、ここを脱出できない。脱出できなければ、死あるのみだ。

 そして……角を曲がった先には、案の定、あのカボチャ頭――蓮江が立ちはだかっていた。左手のチェーンソーはなくなり、金属でできているであろう銀色の左手が露出している。徒手空拳とはいえ、あれで殴られればただではすまない。

 ……でも、こちらは自由の身で、相手は武器を持っていない。さっきとはまるで状況が違うのだ。正面から戦えば、勝機はある――鴨井は拳をぎりりと固く握った。

 ヒーローの衣装に身を包んだ鴨井と、殺人鬼の蓮江。もし観衆がいたならば、正義と悪の戦いに見えたことだろう。


「蓮江なんかに負けるかよ!」


 このカボチャ頭があの蓮江なのだとすれば、暴力で負けるはずがない。鴨井は迷いなく、拳を振るって殴りかかった。


「……え?」


 ……鴨井の拳は、銀色の左手によってたやすく受け止められてしまった。そして反対に、今度は蓮江の右の拳が鴨井の腹を打った。さらに、鴨井に苦しむ暇さえ与えず、蓮江は鴨井の腕をひねって床に倒した。

 かつて一方的にいじめていた相手に、手も足も出ない。このことが鴨井という男にどれほどの屈辱を与えたかは察するに余りある。

 だが、心が折れかけても、鴨井はあくまで生への執着を捨てなかった。何でもいい、生き延びるためのとっかかりを見つけなければ。諦めなければ、万に一つでも生存の目はある。

 そして、鴨井は生きるための勝負手を打った。


「死ねっ!」


 起き上がろうとせず、倒れた状態のまま、鴨井は地面に右手をついた。その右手を軸にして、蓮江の脚に思い切り回し蹴りを叩き込んだのだ。

 この一撃が不意打ちのように効いたのだろう、蓮江は転倒し、そのはずみで頭の被りものがころりと床に転げ落ちた。


「……っ!」


 被りものの下に隠されていた素顔――それは、全く人のものとは思えなかった。顔の上半分は、銀色の仮面のようになっている。目の部分には赤いランプのようなものがついていて、鼻のある辺りには鼻の代わりに空気穴のような細かい穴がぼつぼつと開いている。口元と顎は生身であったが、口は不自然に右側が吊り上がっており、顎は溶けたロウソクを再び冷やして固めたかのようにぐずぐずな形をしていた。

 

「ばっ、化け物!」


 鴨井は、かつて自分がいじめていた少年の成れの果てが目の前のこれだとは、全く信じられなかった。これは断じてあのひ弱な蓮江未来ではない。どう見ても、人間社会とは相容れないモンスターだ!

 

「くそっ!」


 鴨井はレスリングのタックル技のように、腰を低く屈めて突進して蓮江の腰に掴みかかった。蓮江にとって、この攻撃は予想外だったのだろう。腰を両腕で掴まれ、そのまま背後の壁に背中をぶつけてしまった。

 この殺人怪物は確かに力強い。が、戦い慣れはしていないようだ。鴨井の心の中に、みるみる希望が湧いてきた。鴨井は追撃のチャンスとばかりに、蓮江の腹めがけてパンチを打ち込んだ。かつて小学生時代、ひ弱な蓮江にしていたように……

 だが、パンチを打ち込んだ鴨井は、自分の考えが甘かったことを知る。


「いってぇ!」


 蓮江の腹は、異様に硬かった。黒タイツに隠されていて見えないが、きっと腕と同じように、腹も金属の装甲に覆われているのだ。殴った鴨井の方が、拳を痛めることとなってしまった。

 目の前の怪物は、もうあの日の蓮江ではない。殴られて泣いていたあの蓮江は、冷徹な殺人モンスターとなって蘇ったのだ。

 蓮江の拳が、鴨井の顔面に叩き込まれる。鉄球で殴られたかのような衝撃をうけて、鴨井は大きく後ろに吹き飛んだ。鴨井の特徴的な団子鼻は見るも無残に潰れ、鼻孔からは血が流れ出して顎に至るまでに赤い絨毯を敷いている。

 

 ――だめだ。このままじゃ殺される。


 死を覚悟した鴨井は、愛する妻と、その腹の中で誕生の時を待つわが子のことを思い出した。そうだ、こんな所では死ねない。必ず生きて、温かな家庭を築かねばならない使命がある。過去に囚われる亡霊なんぞに、負けるわけにはいかないのだ。


「うおおおお!」


 殴ってもだめなら、他の方法で戦うだけだ。鴨井は不用心に近づいてきた蓮江の左腕を掴んだ。そしてそのまま、内股の要領で足をかけて倒したのだ。中学と高校を柔道部員として過ごした鴨井の、昔取った杵柄であった。


「はぁ、はぁ……」


 すっかり息があがった鴨井は、蓮江のすぐ横を通り抜けて角を曲がった。その先には、上に通じる階段があった。先ほどの格闘で四肢は疲労しきっていたが、ここで足を止めるわけにはいかない。蓮江が再び襲ってくる前に、何としてでも外に出なければならなかった。

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