第68話 門出を

「先輩。書き終わりましたよ」


 遠く藍色の空の方から、茜藏さんが大声を出しながら駆けてくる。張った声であるのに、それは周りの空気にさらりと馴染み、曖昧な空と溶け合う。彼女の声は良く通るものだが、表面はさらさらとしている。

 あっという間に此方に到着すると、折り畳まれた白い和紙に、桔梗のような紫色の花を添えて、楽號に手渡した。


「書きたいこと溢れちゃって、遅くなりました」

「もう少し時間掛けても良かったのに」

「流石の茜藏さんも、先輩待たせるのは出来ないなあ」

「敬語は全く使わないのに、そういう所だけはきっちりしてるんだよな」


 手紙に目を落としていた楽號が、私へと視線を動かす。恐らく、もう帰っても良いのかという窺いだろう。

 正直に言うと、まだまだ此処にいたい。けど、それを許したら、ずるずると延々と居座ってしまいそうだ。

 私は頷きを返した。


「帰るのですね」


 吐息のような声が耳の奥へと落ちて行く。それに対して、楽號はくっきりとした声で返した。


「帰るよ」

「きっとこれは喜ばしい門出なのです。だから、私は笑顔で貴方がたを送り出したく思います」


 いつの間にか、周りには千雨さん達も別れ空気を感じたのか集まっていた。


「始めましょう」


 母がそう言って、見えない何かを引っ張る動作をする。すると、私の胸から何かが引き摺り出される。それは光の塊のように見えた。器用に指を動かして、彼女は弧を作っていく。ピザ作りの職人のように手際が良い。

 その弧の向こう側には、先程まで寝ていた部屋が見えた。

 次第に大きくなっていく円を等身大程のサイズにして、母は手を離した。


「会えて良かった。返せて良かった。千佳、嗚呼、私の宝物。どうか健やかに」

「母様もどうかお元気で」

「千佳ちゃん、先輩のこと宜しくね。ちょっと煩いかもしれないけれど」

「余計なことを言うな」

「ええ、末長く宜しくしてやります」

「貴方のことを守ろうと思っていたのに、結局、俺の方が世話になってしまっていたな」

「そんなことはありません。千歳さんには色々助けて頂きました。ありがとうございました」

「遠い子孫、こうして会えたのがとても不思議です。どうか息災で」

「はい。私も会えて嬉しかったです。会って直ぐに千歳さんの奥様なんだなと分かりました。とても雰囲気が似ていらしたから。千雨さんもお元気で」

「一人ずつお別れの言葉を言う感じですかな」

「お前は一緒にこっち来るから要らないよな」


 既に二人に分かれた聶斎房の内一人の腕を、楽號が乱暴に掴む。


「では、新たな地獄に向かう際に申し上げましょう」


 輪を潜ろうとした楽號が一瞬、迷うように視線を泳がせる。逡巡は刹那で、あの緑の散らばる灰色の目を母へと向ける。


「また会えるから、別れの言葉はいらないだろ」

「ええ、そうですね」

「じゃあ、また今度」

「はい、また今度お会いしましょう」


 先に二人が輪を潜り、向こう側へと抜ける。

 次は私だ。足を踏み出そうとして、一瞬、躊躇われる。楽號もこれに袖を引かれたのだ。後ろ髪を引かれる思いで振り向くと、母が笑いながら、手を振ってくれた。

 それを見ると、途端に足が軽くなり、私は光の中へと飛び込んで行く。


 足が地に着く刹那、遠く薄い膜の向こう側から母の声が聞こえた。


「さあ、目覚めなさい」



 ──────────────────────



「あっ……」


 新しい光が障子に僅かに透けて降り注ぐ。澄んだ朝の空気を流し込んで、布団の中で熱された肺に篭る息を押し出す。


 朝だ。この感覚は朝だ。

 少し頭がぼんやりとしている。

 名残惜しく思いながら、布団を捲り、体を起こす。冷えた空気が途端に身を包み、私は身震いをする。しかし、この冷たさのお陰でふわふわとした脳内がしゃっきりとし始めた。


 此処は靎蒔の家だ。

 私は穴に落ちる前と同じように布団で眠っていたようだ。目覚めてしまうと、あの出来事達は夢ではないかと不安になるが、起き出す時に目に入った右手の火傷が、それが現実だったのだと証明してくれる。

 痛みはない。熱もない。痕にはなるだろうけれど、それがあの世界とあの人々が存在する証拠になるのなら、構わないと思う。


 私は布団から抜け出して、近くの布団に眠る蓑虫を揺らしてみるものの、反応はいまいちだ。


 隣の部屋の戸を開くと、もぬけの殻の布団が一つ敷かれていた。千歳さんが使っていたものだ。


「朝の人間はとろとろとしていて、見ていると、蛞蝓の観察でもしているかのようです」


 縁側から声が聞こえて来る。

 障子を開けると、縁側に座った聶斎房が山並みを眺めていた。なんとなく、私はその横に座って、同じように眺める。


 天には薄く白い光が朧に満ちている。息を吐き出せばそれもまた白く、山稜を霞ませては霧散し、冷たく湿る空気へと溶けて行く。

 私達のいる場所はまだ昏い。薄闇に翳る彼の顔に、私は何かの面影を見付けた気がした。

 また、視線を空へと戻せば、うっすらと赤みのある雲が、千切れて流されていた。微かに残る宵闇の色が、徐々に掠れて消えて行く。

 山々は影法師を追いやって、全身で光を浴びようとしているかのようだ。そこには神聖さはあれど、息吹は感じない。冷たく鎮座するだけだ。だが、それも遠くから見ているからこそ思うことで、木々に分け入れば、その生命の豊富さに息を呑むのだろう。

 夜が明ける。陽が昇る。棚引く東雲に、未だ沈まぬ三日月に、想いを傾けて、見入っていた。


「貴方はこの景色を綺麗だと感じられますか」


 聶斎房が抑揚のない声で問い掛ける。

 私は美しいと思えたから、うんと頷いた。


「そうですか。そうですか。……やはり、わたくしの心には響かないようです。人間が美しいと思う物の判別は付くのですか、見ても何も感じません」

「もしかしたら、貴方と同じ感覚を持つ人が、何処かにいるかもしれません。一般的なものでは収まりきらないというか。だから、もし、まだ探すのなら」

「世界を見よ、ということなのでしょうね。でも、私は世界よりも星を見ていたい」


 此方も見ずに、やけにすっきりした顔を晒して、唯静かに遠くを見ている。その時間が、酷くゆったりと落ち着いていた。

 人を殺めることを躊躇わない男が直ぐ傍にいるというのに、まるで気心の知れた相手と駄弁っているような空気感だ。思っていることを言っても良いし、適当なことを言っても良い。どちらも深くは考えず、表面の手触りだけを確かめて、棚に返すような。


「貴方は、人ではありません。少なくとも、今現在の状態は人の範疇を超えています。門を返したなら、神掛かった要素は抜けて行くでしょうが、境界という属性、人でもあり死神でもあるという現実は、貴方の前に残るでしょう」

「例え、私のルーツが一般的でなくても、私は私でしかないんです。それに、決めたんですよ。掴めるだけ掴んで歩いて行くと」

「霊の記憶等、それ程価値はないでしょう」

「それでも、それには必死に生きて来た人間の意志が込められています」

「前から思っていたのですが」


 聶斎房が軽く咳払いをする。


「共通項ばかり目敏く、差異には知らんぷりで御座います。貴方と私が違うものであるように、その記憶達も貴方とは違うもの。貴方は都合の良い部分だけを、己が如く想っているだけなのではありませんか」

「……そうかもしれません。でも、取捨選択する程、私は偉くはないんですよ」

「それは甘えであり、驕りでしょう。全ての人間には価値があり、だから、どれも大切に扱わなければならないという幻想です。ご覧あれ、この醜悪な世界を。憎しみで子が親を切り、金のために親が子を捨てる。命には優先順位がつけられ、貧乏人の番は一生やって来ない。この世界の何処にそんな価値が? 尊重せねばならない尊さとは何処ぞに? そんなものまで切り捨てられず、引き摺り続けて、貴方は何処に行こうと思っているのですか。世界はこんなにもピラミッドに囲まれているのですよ」

「違いますよ。ピラミッドではなく、サークルなのです、この世は。でも、貴方の言う通りです。この世界はとても美しい、そして、同時にとても醜い。……私が取捨選択をしないのは、そこに残った遺志に私の意図を紛れ込ませたくないからです。他人をどうこうしようなどと、結局、人は己の人生しか歩めません」


 これから、何処へ行こう。

 大学は行かなければならないけれど、今日、明日はまだ行かなくても良い。


「聶斎房、星を見てどう思いましたか」

「……嗚呼、やはり、輝かしいものです。壊したくなる程に。彼女は壊しても、きっと輝きます」

「美しいとは思わないのですか」

「私はその感情を知りません」

「千雨さんに迷惑掛けちゃ駄目ですよ」

「する前に私が返り討ちにされましょう」


 どんどんと日が昇り、白けた空が広がって行く。始まる朝には音もなく、揺れるのは芒と心だけだ。


「千佳様」

「何ですか」


 聶斎房が姿勢を正して、此方に向き直る。

 私も釣られて正座になる。板間の冷たさが直に響く。

 彼の様子を窺っていると、とても丁寧に頭が下げられた。


「短い間でしたが、お世話になりました。地獄を作るという目的は達せられませんでしたが、あれこれと画策し縫い物をする時間は、それなりに充足感のある日々でした。私の中に入りながら、全てを暴かなかった貴方のことですから、きっと私のことも、対等な他人とでも思っておられているのでしょう。大間違いです。私は怪物です。人とは相容れないものです。そのことだけは、努々お忘れなきよう。私のような生き物に情けを掛ける必要はありません。どうぞ、今度は容赦なく討ち滅ぼしてくださいませ。傲慢なる者よ」


 そう言って、微笑んだ彼の顔をノイズが走る。


 結局の所、私はこの男を最後まで理解出来なかったのだろう。いや、諦めたと言うべきか。底の見えぬ奔流こそが本質であるならば、それは流れの中にしかなく、そして、流れているなら一時として同じ形のものはない。一言で言うならば、掴めない男なのだ。

 また、彼も私と同じく、心の内を完全に開く程、此方を信用していない。ノイズが何よりの拒絶の証拠であるし、出まかせばかりの口も軽く、本題を霞ませる。

 それでも、素顔のまま何となしに続けた会話が心地良かった。それは決して口に出すつもりはないのだけれど。


「許した覚えはありませんし、貴方に会うのは、もうこれっきりにしたいですね」

「いえいえ、またお会い出来ますとも。私は直ぐ向こう側にいるのですから」


 足を崩し、聶斎房が胡座をかく。膝が当たって痛かったのだろう。私も体勢を変えて、庭側へと足を下ろした。僅かに触れた土の感触に、懐かしい心地になる。


「これから伊吹山へ?」

「そうしようと思っています。貴方はきっと、楽號に連れて行かれるのでしょう」

「いいえ、連れて行くのは私達で、連行されるのはこの男と楽號の二人です」


 突如として影が庭に並ぶ。急に会話に挟み込まれた声に反応して見上げると、芒聲さんが苦々しい顔付きで此方を見ていた。

 庭の奥にも何人か、鎌を持った人物が立っている。死神だ。


「芒聲さん」

「肝が冷えました。一瞬、目を離した隙にあなたはいなくなってしまったんですから」


 私の護衛をしている彼は、靎蒔の家にも着いて来たのだろう。そして、聶斎房の手によって、穴に落とされた私の行方を今の今まで探していたのだろう。


「ご心配をお掛けしました」

「いいえ。生きているならそれで。死んでさえいなければ、状態は構わないそうですから。さて、早速ですが、そこな男を拘束します」


 背後に控える二人が進み出て、聶斎房の手に枷を嵌める。

 頑丈そうな鈍色の金属の枷だ。刑事ドラマに出て来るような華奢な手錠ではなく、自由を制限することを重さで表現したようなものだ。


 思っていたよりも大人しく、お縄についた聶斎房が、芒聲さんに話し掛ける。


「強引な方で御座いますね」

「会話はしません。……楽號の拘束も頼みます」

「ま、待ってください」


 背後の一人が家に乗り込もうとする。その進行方向を塞ごうとするも、芒聲さんに首根っこを掴まれ、私はじたばたともがく。


「何で楽號まで拘束するんですか」

「彼は重大な情報を意図的に隠し、聶斎房による被害を広げた疑惑があります」

「重大な情報……」

「あなたのことです。靎蒔千佳さん。今は梯千佳さんでしたね。十四年前のあの場所で生き残った子供。呪物を封じ込めるあの世の門を引き継いだあなた。その事実が分かるまで実に時間が掛かりましたが、何せあなたにずっと着いて回っているのです。千歳とか言う人物とのやり取りも聞かせて頂きましたよ」


 千歳さんが靎蒔の家の歴史を教えてくれた時も、私が記憶を思い出した時も、彼は傍で聞いていたのだろう。


「その中に含まれていない過去に何が起きたかは、これから彼に吐かせますが、本件に於いて中心に位置するあなたと楽號に血縁関係があったことは、重大な情報です。そして、靎蒔の当主と繋がったことは、楽號に任せられた諜報任務の放棄でもあります。なので、彼を連行せねばなりません」

「そんな、確かに親子でしたけど、それがなんだって言うんです」

「それも今から調べることです」


 部屋の奥から、どたばたと音がして、楽號の怒る声が響いた。そして、私の前に現れた時には、その手には聶斎房と同じ枷が嵌められていた。





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