第45話 伸びる影法師
「おお、おおお、あ、ここ、ここ、いる」
戸の向こうでは、澱みが幾つか到着して、何かを喋っている。恐らく、先程外に出た時に寄せ付けてしまったのだろう。
ぞわりとする悪寒には慣れないが、私も春樹さんも無視していた。声は絶え間なく聞こえ、時折戸を叩くが、中に無理矢理入ろうとはしない。
先程、目の前に現れた澱みを見て、芒聲さんがあまり見ない方が良いと言った意味が分かった。
この世から不要とされた廃棄物。その行動原理は嵩を増やすためだけ。だが、私達と左程変わらない部分もあるだろう。
サイクルの果てに排出される廃棄物とて、この世に存在するものだ。今、此処にいる私達と変わらない。
違いがあるとすれば、世界から容認されているか否か。
世界から必要とされているかされていないかではない。何故なら、私だって望まれて此処にいる訳ではないのだから。
必要性よりも前提にある、其処に在ることを許されているかどうか。
きっと差異はたったそれだけだ。
そして、とても簡単な掛け違いがあるだけで、きっと私もこの場所を容易く追い出され、其処に行き着くのだ。
世界から爪弾きにされて、何もかもから不要だと、邪魔者扱いされた時、私達はどうするだろう。一人で拗ねるか。自暴自棄に他人を害すか。だが、もっと切実に望むものがある筈だ。
それは自分を認めてくれる他者。或いは、自分と同じ境遇の仲間。心の隙間を埋めてくれる安心感。
だから、嵩を増そうとする彼等の行動が理解出来た。出来てしまった。自分の思考との共通点を見つけてしまった。自分とそう違わない存在だと認めてしまった。そして、私はそれと自分は違うものだと思いたがっている。見ているだけで怖気がして、逃げようとする。その考え方、行動こそ、彼等を排斥する概念そのものであると言うのに。
同じものになりたくないという嫌悪感と恐怖。それは同時に、それと似ている私にも向けられる。それになってしまったらと想像させる。回り回って、排斥に辿り着く。そして、その排斥は私にも当て嵌められるのだ。
何処までも悪循環だ。見るべきではない。自分の在り方を不安定にさせる。どうしようもないことだから、防ぎようもない。
目を瞑って、息を吐き出す。
いつかと同じように、他人事として、自分の思考の中心から追い出す。それすらも己を苛む行為だと知りながら、何処までも自分の傷にならないように、努めて忘れようとした。
慣れたものだ。他人の人生等、悲痛な情景等、諦念で包んでしまえば、取り敢えずは問題ない。置いておけば、時が解決するだろう。
息を吸う。冷たい空気。外気との気温差で、自らの保つ熱を自覚する。
内側に意識を向けると、胃が動いた気がして、私はどうにか腹の虫を抑えようとした。しかし、内臓の動きなど、意思で制御出来る筈もなく、無遠慮に鳴き声をあげていた。
「お腹空いたな」
私はもういちいち恥ずかしがるのも面倒になって、開き直っていた。
「お饅頭だけでなく、そこらのきのみや水も口に付けてはいけませんよ」
「俺、家からお茶淹れて来たよ。少し飲む?」
春樹さんが肩から下げていた水筒を私に差し出す。しかし、子供から分けて貰うのは体裁が悪い。この後のことも分からぬのだから、この子の分を減らす訳にもいかない。丁重に謝辞する。
芒聲さんが私を見て、あからさまな溜息を吐いた。
「饅頭のこともそうですが、まるで、幼子を世話しているようです。人は容易く死ぬというのに、予測不能な行動ばかりして、自らの命を危険に晒している」
「すみません」
「楽號も大変でしょう。まあ、私としては、彼の監督不行届きっぷりも酷いとは思っているのですが。大切ならもっと手元に置いておくべきです。なのに、彼はあなたに制限を掛けない」
確かに、彼に何かするなとか行くなとか、行動を制限されることを言われたことは少ない気がする。明らかに危険なものについては駄目と言われ、叱られたり注意されたりすることもないでもないが、今回のように、遠くにあまり行くなと言うこと自体珍しい。聶斎房に狙われている状況を考えれば当然の行動規制なのだが、そのような状況であっても、基本的に私の意思が尊重されていると感じている。
何故だかそれが、放置ではなく、信頼でもなく、慈しみのような柔らかい感情で包まれているような気がする。
芒聲さんは私を幼子と言ったが、本当に小さな子供が遊んでいるのを見守っているような感じだ。基本自由にさせているが、危ない時は注意するし、困った時には手を貸す。彼の場合、手を貸してくれるタイミングがギリギリではあるのだが、それでも助けてくれることに変わりはない。
お饅頭を片手に芒聲さんが問い掛ける。
「上からは不明だと言われましたが、あなたと楽號はどういう関係なのですか? 他人を寄せ付けない彼は、何故、あなただけを大切にしているのですか?」
「え?」
「何処にあなたがいるのかも分からない異界に、飛び込んで探し回るだなんて普通はしませんよ」
「そうなんですか」
「異界は其処の主の趣向が色濃く表れる場所なので、何が起こるか分からないのです。だから、準備もせずに、薄着で飛び込んだりしません。何も知らないあなたは兎も角、彼はそのことを知っている筈ですから、それでも中に入るなら、それ程にあなたを探す理由があるということでしょう」
「いや、でも、楽號って、結構、誰に対しても手を差し出してくれるでしょう」
「まさか」
芒聲さんが肩を竦め、鼻で笑う。
「師が命の危機に瀕していても、眉一つ動かさない男ですよ、彼は。穏健ではありますが、優しいなんて噂、聞いたことがありません。だから、あなたに対する態度が、私達にはとても不思議に思えるのですよ」
初対面の頃を思い出す。本当の初対面は子供の頃だが、今の私の記憶で言うと、数ヶ月前の夜だ。首を吊った男性の霊が私の中に入った直後、彼が現れた。
ナイフを向けられたり、脅されたりはしたが、基本的に柔和な態度であった記憶がある。ナイフを向けている時点で何もかも台無しな気もするが、私の健康状態を心配したりと、慳貪な態度ではなかったと思う。少なくとも、芒聲さんの語るような印象は受けなかった。
今なら尚更だ。楽號は優しいし、世話焼きだし、ちょっと雑だけど、最後には助けに来てくれる。そんな存在だ。良いことをしたら褒めてくれるし、言葉はいつも丸く柔らかくしてくれる。偶に圧が強い時もあるが、恐らく心配さ故だろう。
だが、それと私との関わり方が何かは、一言では言い表されない。予感めいたものはあるが、根拠は今のところないのだ。
「それで、どういうご関係ですか」
「それは……」
「ふむ。あなた自身もお分かりでない。ということは、楽號に訊く他ありませんね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何ですか?」
「えーと、その質問は止めて貰えますか」
「何故ですか」
反射的に止めたは良いものの、次の言葉が継げない。其処を突かれるのは、なんだか恐ろしいと感じてしまったのだ。不用意に触れたら、今の関係が壊れてしまいそうな予感がした。
呆れ半分不可解半分な様子の芒聲さんはそれ以上、追及することなく、視線を私から外した。
「しかし、神も何故あなたにこれを渡したのか。帰す気がないからと言えば、それまでですが、どうにもちぐはぐな印象を受けます」
芒聲さんが、お饅頭に目を落とし、呟く。
確かに、山から出さないという行動と、食べたら帰れなくなるお饅頭を渡すという行動は一貫している。しかし、返答は一つしか許さないが、あくまで意思決定を私に託すという姿勢とは少し食い違う気もする。それ程に包囲を固めておきながら、力押しをして来ない理由があるのだろうか。
「やっと、着いた」
そう考えていると、何てことないように閉じられた戸を自分で開けながら、少し息を切らせた楽號が山小屋に入って来た。いつの間にか、戸の向こうにいた筈の澱みの影はなくなっている。
「移動したなら言ってよ。探しただろ」
「伝えようがなかったんです。澱みも寄って来てましたし」
「じゃあ、仕方ないな」
楽號は「寒い寒い」と言いながら、乱雑に靴を脱いで、火に手を翳す。上着も着ていないから、冷えるだろう。
つまりそれは、上着を着るのも忘れる程に、慌てて私を探し回ってくれていたということなのだろう。芒聲さんの推測ではあるが、もしかしたら、本当にそうなのかもしれない、というより、そうだったら申し訳ないなと思う。そして、少しだけ嬉しく思うのだ。
「それで、君、怪我は?」
「ありません」
「気持ち悪いとか吐き気がするとかは?」
「健康体です」
「そっか。ならよかった」
「この方、さっき異界の饅頭食べようとしてましたよ」
「なっ」
さらりと芒聲さんに暴露される。
楽號の目が見開き、顔が強張る。私の肩を強く掴む。
「食べたのか?」
「食べてないです」
「本当に?」
「食べようとしたのは事実ですが、芒聲さんが止めてくださいました」
「ええ、止めました。仕事なので」
楽號が私の肩から手を離す。
そして、芒聲さんに寄って行って、軽くパンチをした。怪訝な表情で、芒聲さんは片手でそれを受け止める。
「何ですか」
「助かったよ。ありがとう」
「行動と台詞が合ってませんよ。本当に故障したんですか。あなたがお礼を言うなんて」
「さて」
芒聲さんの言葉を遮りながら、楽號は立ち上がり、堂々とした所作で私達三人を見渡す。
「それで、何があったのかな?」
────────────────────
「山神様ねえ。山神……」
楽號が腕を組みながら、呻くように繰り返す。
「いーちゃんはね、いい奴なんだよ。澱み? に近付かないだとか、自分の持って来た食べ物以外を食べてはいけないとか、守らなきゃいけない約束も多かったりしたけど、すっごく物知りで、いつだって俺と話してくれたんだ」
一部始終を話していた途中、いーちゃんさんの立場が怪しいと感じたのか、春樹さんがフォローに回っている。必死そうな様子に、楽號もうんうんと頷きながら聞いている。
「だから、だから、悪いことなんかしてないよ。あんた達を閉じ込めてるのだって、きっと何か凄い理由があるんだよ」
「そうだね。閉じ込めておくなら理由がある。いーちゃんのその理由と僕達の希望とが折り合いつけられるのかが問題だ」
「俺がいーちゃんに言うよ。何でこんなことするのって。困ってるからやめてあげてって。だから、いーちゃんを悪く思わないで」
「悪くは思わないよ。神様だからね。何をされても仕方ないで流すしかないんだ」
「しかし、現状をそれで流す訳にはいきません。私は帰りたいですから」
「そうだね。それだけは絶対に譲れないポイントだ。ところで、君はこの辺りの近所の子なの?」
「そこの雑木の宿が俺の家だよ」
「嗚呼、あの宿か。あー、覚えてたらでいいんだけど、君がいーちゃんに身体を貸す時、他に誰かいなかった?」
楽號の質問に春樹さんは目線を斜めに流す。
「俺といーちゃんの二人だけの時が多いけど、そういえば、お客さんが来るから貸して欲しいと言われて、この日に来てとお願いされたことがあったよ」
「お客さん、ですか。神が態々歓待の準備をするとは、その方も神に連なる方なのですか」
「えーと、会ったことないから俺は知らない。というか、そういうの含めて全部いーちゃんに訊きに行けばいいじゃん」
春樹さんの言う通り、楽號との合流も果たせた今、この山小屋に篭っている理由はない。分からないことは訊けば良い、話し合う必要があるなら会いに行けば良い。真っ正直に向かって敵うかは分からないが、神を前にして人が出来ることなど知れたものであろうから、思いのまま、願いに従い、懐疑を解きに行こう。
争う必要性はないのだ。
血は流されない。必要なのは、対話だけだ。
「私も賛成です。いーちゃんさんに会いに行きましょう」
「答えはもう出たの?」
楽號が心配そうな顔で私に問う。
ほんの数十分前に、どうしたらいいか分からないとあたふたする姿を見せてしまったからだろう。
いーちゃんに穴を返すか否か。
「はい。もう答えは決めました」
「よく考えた?」
「ええ。きっとこうするのが一番良い筈です」
「本当に? やっぱり止めたは通用しないよ」
「はい。分かっています」
私の返答に、彼は何とも言えない顔をした。眉は僅かに寄っているのに、口元は微笑んでいる。
その優しい眼差しを私は知っている気がする。何の情景も思い浮かばないが、かつて私はその目で見られたような、そんな気がしてならない。
子供の頃、眠っていた所を見たことがある。
本当にそれだけなのか。私と貴方の接点はそこだけだったのか。蓋から剥離する記憶を集めれば、いつか貴方に辿り着けるのか。
それは私に致命傷を負わせはしないか。
「じゃあ、その社のある所に行こう」
楽號の言葉に、私達は出立の準備を始めた。
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