有形のコラプス

宇津喜 十一

死神と私

第 1 話 陽光絶えず、影は有りき

 回転木馬はかく語る。


 流転は摂理なり。諸行は常に定まらず、万物は架空の物なれば、形とはひと時の現し身に過ぎず。

 然れば花は枯れ、種は芽吹き、野は茂る。季節が過ぎ行けば、炎に晒されれば、人に耕されれば、忽ちに消ゆ。後に伸びゆく葉もまた然り。同一なる物も、単一なる物も有らねども、斯様に結び付きて一は在る。而して、大地は有りき。

 今一度、問わん。外周に在る者よ、万象の摂理は不変であるか否か。その眼に映る夢は、何を捉え、何を破るか。

 露は既に落ちた。地を濡らすまでのその刹那に、斜陽の影は如何程伸び行くか。


「さあ、目覚めなさい」



 ────────────────────



 夢を見ていた。

 全ての人が笑顔で、分け隔てなく手を差し伸べ、助け合う、そんな世界の夢。

 泡沫のひと時。有りもしない世界。

 手を伸ばした所で、それは触れられない幻だ。分かっている。分かっているとも。それでも、手を伸ばさずにいられなかったから、私は私であったのだろう。


 その日は涼しい夜だった。先日までの暑さはどこへやら。寝苦しい夜は過ぎ去り、虫の音を聞きながら快適に眠っていた。

 夢から覚めた時、時刻は午前二時だった。

 私はどきどきと煩く喚く胸を抑えていた。見た夢は、穏やかなものだった。だが、何故だろう。どうにも胸がざわめいて、脈が速い。

 朝までまだ時間がある。

 このままでは寝付くことも出来ないだろうと、私はのそりと寝床から抜け出した。心許ない薄さのタオルケットをくしゃくしゃとベットの傍に寄せて、真っ暗な部屋で立ち上がる。

 台所に行って、水を飲もう。特に喉は渇いてないが、胃に何か入れれば落ち着くかもしれない。


 私の家は1DKだ。玄関に入ると廊下があり、左右にトイレ、洗面所、風呂があり、その先にキッチンとダイニングがある。そこと襖のような間仕切り戸で遮られた奥の窓際の部屋が寝室となる。

 カーテンで閉められた窓を見ると、薄らと街の明るさが漏れていた。街灯だろう。


 私は閉じられた間仕切り戸の取手に指を掛ける。その瞬間、ぞわりと悪寒がした。

 開くのを躊躇う。

 私は度々このような嫌な感覚というのを経験していた。そして、そういったものを感じた時にものは大凡同じものであった。


 戸の向こうにあれがいる。

 しかし、ここでずっと躊躇っていても事態は進展しないし、何より自宅というどうしようもない程に生活圏で現れた以上、どうにかしなければ外にも出られない。いや、二階なので気合を入れれば、ベランダから外には出られるのだが、そんなご近所さんに誤解されそうな毎日は送りたくない。「ええい、ままよ!」と、間仕切りを開け放つと、キッチンの前にがいた。


 明かりのない室内でも視認出来る程に真っ暗で、かつ輪郭が曖昧な影のようなもの。それに顔はないけれど、およそ成人男性のような背格好の人影。

 それはシンクを覗き込んでいるような姿勢でいたが、私が戸を開けると、それに反応してこちらを見た。

 目鼻はないが、刺さるような視線を感じる。


 それはゆっくりと揺れながらこちらに近付いてくる。私は戸を開けた体勢のまま動けなかった。金縛りではない。気圧されただけだ。

 とても長く、けれど一瞬のような時間で、それは私の前に立つと、腕を伸ばした。靄のようなその腕は、私のお腹を擦り抜けると、私の中に吸い込まれていく。異物が体内に侵入していく感覚がある。酷い吐き気に襲われる。だが、それは感覚だけで、実体はない。


 五秒程で、影は全て私の中に収まって、文字通り影も形もなくなった。

 すると、喉が勝手に締まっていく。私は自然と理解した。この人は首を吊って死んだのだと。

 脳内に走馬灯のように、私のものではない記憶が駆け巡る。


 過酷な労働環境。冷たい食事。激しい罵倒。足りない睡眠。回らない思考。鈍る感情。孤独な暮らし。暗い希望を夢見て、ネクタイをドアノブに結びつける。白い錠剤。呷る酒類。シンクを覗き込み、歪んだ自分の顔を眺めている。


 全てを見終わると、喉を締める力が消える。

「うえっ」

 思わずえづく。すんでの所で飲み込むと蹲る。目から涙が溢れる。これは、私の感情じゃない。私の経験でもない。だが、まるで己がことのように鮮明に体感する。


 四、五分程蹲っていた。波が過ぎていくのを感じて、のろのろと立ち上がり、洗ったまま置いておいたグラスに水を注ぐ。一気に喉へと流し込んで、息を吐き出した。

 この感情は憐れみだろうか。それとも、悲しみだろうか。一息つくと、自分の心から何かが染み出し始める。手で掬おうとしても、指の間から溢れて、それが何か定かではない。

 それでいい。あまり輪郭を露わにすると、いらぬ傷を負ってしまいそうだ。忘れてしまうのが一番だ。


 こういったことは、月に一度あるかないかの頻度で訪れる。あれが現れ、私の中に収まり、私は彼らの走馬灯を体感する。それだけと言えば、それだけだけど、感じたくもない、その必要もない苦しみを味わうのは避けたいものだ。

 今回は避けられない所に出現したので、どうしようもなかった。

 あれは何だろう。幽霊のようなものなのだろうか。その割には、こちらを驚かせようという気概がない。ただ、佇んでいて、私がいると近付いて来る。


 私はいつも「あれ」とか「影」と呼んでいた。それ以外に特徴がないからだ。

 体内にあれが入った後、吐き気や怠さに襲われるが、それは一時のもので、暫くするとまたいつもの通りの調子へ戻る。一度、病院で診て貰ったことがあるが、体調面での異変はなかった。精神的にも、走馬灯に心が折れそうになる時はあるが、所詮他人の人生という諦念があるからか、深刻なダメージにまでは至らない。

 だから、私の中に入ったあれがどうなっているのかは分からない。


「あれ、いなくなってる」


 ベランダから声がした。若い男性の声だ。振り返ると、誰かが窓を開けて、寝室に侵入している所だった。鍵は閉めた筈なのだが。


「誰ですか?」


 キッチンにじりじりと近付き、相手にバレないように包丁を抜き取る。後になって考えれば、さっさと逃げて警察に電話した方が良かったのかもしれない。


「え……」


 その人はとても意外そうな顔をしながら、土足で部屋に上がってくる。そして、周りをきょろきょろと見渡した後、私を真っ直ぐに見た。少し不満げな様子だ。


「誰というか、僕的には寧ろ君が誰? みたいな感じなんだけど。と言うより、僕が見えてるの? この反応は見えてるよな」

「ここは私の家で、貴方は侵入者なんですけど」

「嗚呼、そうなのか。それもそうか。家だもんな。人が住んでるよな。うんうん、それは僕が悪かった。よし、名乗るとしよう」


 その男性はとてもラフな服装をしていた。恐らくTシャツにジーンズ。と言うのは、その上から黒いローブを羽織っていてあまり見えないからだ。涼しくなってきたとは言え、些か暑くはないのだろうか。いや、最近は朝と夜は羽織が欲しくなるし、丁度良いのだろうか。


 そして、その手には短刀があったが、月光は此処まで届かず、街灯に照らされて、それは鈍く光る。


「僕は死神! 番号は12で、名前は楽號らくごう

「死……神……?」

「そう。命尽きた者の魂を借り取り、あの世へ送り届けるのが役目だ。今回は、地縛霊を土地から切り離して、回収する任務だったんだけどね。……それは兎も角、包丁しまってくれる?」


 どきりとする。


「何もしないったら。僕が用があるのは死人だけ。生きてる君には何もしないよ」

「それはそうかもしれませんけど、こちらはまだ貴方の自己紹介を信用した訳ではないので離せません」


 素っ頓狂なことを言って、はぐらかそうとしている不審者の線が濃厚だ。いや、言い訳にしたって、ファンタジーが過ぎるのでは。


 私は汗が滲む手をぎゅっと握る。

 楽號と名乗った男は、頬を少し掻きながら、こちらの様子を窺っている。もう一度、周りを見渡してから、口を開いた。


「君は何をしたの?」

「何って何ですか」

「さっきまであった地縛霊の気配がさっぱり無くなってる。現場に残っていたのは君だけ。じゃあ、君が何かしたに決まってるだろ。最低ラインでも何が起きたかは目撃していて欲しいな」


 地縛霊とは、先程の首を吊った男の影のことだろうか。


「成仏でもさせた? でも、どうやって? 何か不思議な力でも持ってる?」

「そんなもの持ってません。貴方が仰ることも全然分かりません」

「うーん、でも、僕が見えてるんだよな。眼が異なるのかな。じゃあ、ここにいたそいつのことも見えてただろう。首を吊って死んだ男のことだよ」


 はっとする。

 楽號とやらの言う地縛霊とは、やはり先程の影のことだ。その影を追って、私の家にやって来たのだ。そして、彼が辿り着く前に私が吸収したから、戸惑っているのだ。

 何故、それを知っているのだろう。死神という自称は本当なのだろうか。


「顔色が変わった。やっぱり、君が何かしたんだな。嫌だな。仕事の邪魔をされるのは嫌いだ」


 声色が低くなる。

 ピリッとした緊張が走る。私は包丁を前に構えた。武器の使い方など知らない。出来るなら傷付けたくない。怖がって、逃げ出して欲しい。


 しかし、楽號は冷ややかな眼差しで私の動きを見ていた。そして、軽く払った短刀の一閃で私の持っていた包丁は弾かれ、壁へと突き刺さる。


 丸腰である。

 私は自然と両手を顔の位置まで挙げていた。

 楽號は私の前に立ち塞がり、その短刀を私の首元に当てた。冷たい鋒が首に僅かに触れただけで、皮が斬られたような気がする。体温が下がっていく心地がして、背筋が冷えていく。

 しかし、短刀は直ぐに下げられた。


「いや、うん。やめとこう」


 止まっていた息を吐き出す。


「どうして」

「何が起きたのかも分からないままは気持ちが悪い。後、予定がない人間を殺すと上から怒られるから」


 取り敢えず、首の皮は繋がったようだ。


「でも!」


 私の目の前に楽號が顔を突き出して、にこりと笑った。暗くてあまり見えないが、睫毛の影が長い。


「詳細は吐いてもらうとも」

「詳細と言われても、私もよく分かってないんです。唯、あれに近付くと、あれが私の中に消えていくんです」

「消えていく? 待て、地縛霊は君の中に入って行ったのか?」


 楽號が私の腹を触ろうとする。咄嗟にその手を叩く。短刀が私の首元に寄せられる。私は諸手を挙げる。


 ベタベタと触りながら、楽號は「ええ? どういう理屈?」とほぼ呻き声のような声をあげる。奇想天外な彼にも分からない現象なのか。

 いや、不審者の線はまだ消えてないのだが、刃物が突き付けられてしまったなら成す術がないし、それに彼が死神かは判断つかないが、私と同じく普通は見えないものが見えてるようだし、取り敢えず、今すぐ殺されることはなさそうだし、抵抗しない方が良いだろう。


「全くない。残滓すらない。どうなってるんだ? てか、君痩せ過ぎじゃない? 肋出てる。ご飯食べてる?」

「余計なお世話です」

「冷蔵庫の中も空っぽじゃないか」

「勝手に開けるな」


 楽號は冷蔵庫を閉め、顎に手を当てた。


「そうだな。要調査だな。よし、今日から君を観察するから、よろしくね」

「は?」

「何が起きたか明らかにしなきゃ報告書書けないだろ。僕も気持ち悪いし。取り敢えず、今夜はもう寝たら? もう三時だよ」


 楽號の指差した先の時計は、言った通り午前三時になろうとしていた。

 明日も朝から学校がある。これ以上、睡眠時間が削られるのは厳しい。だが、この不審者を放流して良いものだろうか。


「嗚呼、そうだ。僕のことを警察に突き出そうたって無駄だよ。彼らに僕は見えないからね」


 ベランダに出た楽號は手摺に飛び乗ると、ちょっとした段差から飛び降りるようにひょいと気軽に落ちて行った。私は思わず、ベランダに駆け寄り、面した通りを見下ろす。楽號は街灯の下に立っていた。こちらを見上げて手を挙げると、影に溶けていくように消えていった。


 目を擦る。しかし、そこには何も居ない。

 遠くでサイレンが聞こえる。

 頭が回らない。結局、彼は何だったんだ。

 思考停止した私はベッドに戻り、横になった。妙な疲労感のせいか、直ぐに寝入ることが出来た。






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