第2話 またのお越しをお待ちしてます
ふらりと立ち寄った喫茶店で再開したのは、名前も知らない冬の妖精だった。
「お好きな席にどうぞ。」
先程公園で出会った美女は柔らかな笑みと共に俺を店内に促した。
そんな彼女の姿は先程会ったコート姿ではなく、白いシャツの上に黒のベストを身につけ、下も黒いパンツスーツに腰掛けのエプロン。なんだかバーテンダーみたいな雰囲気だ。胸元で翡翠色のポーラータイの金具がキラキラ光ってた。
髪もあの時は下ろしてたけど今は右側でサイドテールにして纏めてる。
シックな雰囲気で固めた彼女の姿は店の落ち着いた雰囲気によく溶け込んでた。立ってるだけで絵になった。
店主に促されてカウンターの席に座った。
店内の内装はカウンター席と後ろにいくつかの丸テーブルと椅子が置かれてるだけ。全て木製のもので統一されてる。店内BGMとかはなくてすごく静かだ。外から見た外観ほど広くはなかった。
「また会いましたね。あれからご飯食べました?」
「いや…」
「じゃあなにか作りましょうね。おすすめはミートスパゲティです。」
流れるような動作でカウンターの向こうからメニュー表をこちらに差し出す。ドリンクはコーヒーがほとんどで聞いたことも無いような種類もいっぱいあった。
「じゃあ…そのスパゲティと、ブルーマウンテン……」
「はい。」
すぐにカウンターの奥に引っ込んだ店主はすぐに戻ってきて目の前でコーヒーミルで豆を引いてくれた。強いコーヒーの香りが店内に漂う。
ゆっくりとお湯を注ぐ店主の前で店内を見回す。他に客は居なくて店員も彼女以外見当たらない。
「……ブルーマウンテンは、ブルーマウンテン山脈の標高800~1200メートルの限られたエリアでしか栽培されない貴重な豆なんですよ。」
「…え?」
「本来そのブルーマウンテンエリアっていう場所以外で栽培されたものはブルーマウンテンとは呼べないんですけど、そういう偽ブランドも多く出回ってます。正規のブルーマウンテンはとても高価で、味もよく、コーヒーの王様なんて呼ばれるんですよ。」
「…へぇ。」
「ちなみにうちで出してるのは正規のものですから。」
いたずらっぽく笑う店主が出来上がったコーヒーをテーブルに置いた。白い湯気と一緒にコーヒーの香りが鼻を通り抜ける。
「香りの良いコーヒーですので楽しんでみてください。スパゲティ、すぐにお持ちしますね。」
「どうも。」
軽いうんちくを頭の隅に留めながらコーヒーを啜る。酸味と甘みが混ざりあった繊細な味が舌を濡らした。外が寒かった分温かいコーヒーが体にしみる。
……ブルーマウンテンって高いんだ。
馴染みのある名前だったから何となく頼んだけど、大丈夫だろうか。今の俺の財布はコーヒー一杯にすら打撃を受けかねない。
ただ、メニュー表を見る限り他の種類とそんなに値段は変わらないみたいだ。
「あの公園からここまで来たんですか?歩いたら随分かかったでしょう?」
「ん?……まぁ…なんで歩いてきたって分かるんです?」
「あなたここら辺の人じゃないでしょう?そのジャケット着た人、たまに見かけます。港中央区辺りで。施設に入られてる人ですよね?」
ビクッとした。そんなことで素性がバレるとは思わなかったから…
それで公園で声をかけてきたのかもしれない。彼女から見れば俺は金のない無職の放浪者にでも見えたんだろうか。小洒落た店の中で俺は急に居心地が悪くなった。
「お待ちどうさま。」
コーヒーを出してから4〜5分でミートスパゲティが出てきた。大きな皿に盛られた麺は山のようにこんもり盛り上がってる。
……気を遣わせただろうか。
またしても居心地が悪い。テーブルのフォークを手に取って温かい麺をくるくる巻きとる。
「お代はいいですよ。」
「は?」
「サービスです。その代わり残さないでくださいね?」
カウンターに頬杖をついて俺を見つめる店主は大きな瞳を細めて笑った。可憐な微笑みはまるで手料理を食べる我が子を見守る母親のようで…正直食べにくい。
「……美味しい?」
腹が減ってたのもあって黙々と食べ続ける俺に店主は囁くように尋ねた。優しげな表情と綿毛のように柔らかいその声音に思わずドキリとしてしまった。
……こんな状況だってのに、どうかしてる。
「……はい。」
「お水、いります?」
「いや……」
「ゆっくり食べてくださいね。」
店主の可愛すぎる顔に目を合わせられずにこくりと頷く。まるで思春期の男子……あ、俺はその思春期で時間が止まってるんだった。
店の周りには田んぼくらいしかなくて、人通りも少ない。すぐ側の林道にこんな時間から入ってくる人もいないだろう。
しんと静まり返った店内と外は、この空間が外界から切り離された別世界みたいで、二人しか居ない杜の空間には俺の打ち鳴らす食器の音だけが静かに響いてた。
店主はそんな俺と唯一存在する音を楽しむようにカウンターにじっと座ってた。
誰との縁も切れて一人取り残された今の俺には、その空間が自分が存在していいただひとつの場所のように感じて、口に広がるコーヒーとスパゲティの味を楽しむ時間はつかの間、不安とか焦燥感とかを忘れさせてくれた。
味の薄い入院食と施設のまかない……
美味しい食事に没頭したのは久しぶり……いや、記憶のない俺には初めてと言ってもいい時間だった。
*******************
風が出てきた。
窓の外で強い風が空を走り、すれ違いざまに窓ガラスをバンバン叩いていく。傍の林道の木々もザァザァ揺れて、葉っぱ同士を擦り合わせて不規則なメロディを奏でてる。
静寂はどこへやら、俺がスパゲティを食べ終わる頃には外では人の営みから離れた自然の雑踏たちがやかましい。でも、そんな外の世界から忘れ去られたように店の中は変わらない静謐に満たされる。
「おかわりは?」
「いや、もう腹いっぱいです…あと、お金も払います…」
「いいって言ってるのに。サービスですよ。」
スパゲティの皿を下げながら店主は笑った。彼女の小さな笑い声は木の店内に吸い込まれるように溶けていく。
「……今日はお仕事を探しに?」
「いや…」
「お散歩でしたか?
「……実は、この町の生まれでして……」
「……へぇ。」
なんだか意外そうに店主はこちらを振り向いた。その視線も俺を一瞥してすぐに食器洗いに戻ったけど。
「……お店、一人でやられてるんですか?」
流れる水音と彼女の声は心地よくて、もうコーヒーも飲み終えたって言うのに俺は席を離れずにおしゃべりに興じてた。
なんだか、今外の風に吹かれたら寂しさがまたぶり返して来そうだったから……
「ええ。ただの趣味みたいなもので…客もほとんど来ないけど……あなたは久しぶりのお客さん。」
「……もっと駅の方にお店を出したらいいのに……」
「いいんです。向こうは騒がしいから……」
人の流れからあえて離れようとしてるような彼女の言動は浮世離れしてて、神秘的な雰囲気を際立たせて見せた。
「コーヒー、おかわりは?」
「……。」
サービスだと言いながら彼女は空になったカップを指し示して尋ねてきた。多分食べ終わったのにまだ居座ってるからだろう。俺はまだ店に居たくてこくりと頷いた。
「同じもので?」
「はい。」
店主は再びコーヒーミルで豆をひきはじめる。手動のコーヒーミルのハンドルがゆっくり回り、ゴリゴリと豆の砕かれる音が店の空気を伝って広がっていく。一定のリズムで刻まれるBGMは耳に心地よく俺はその動作を見つめたまま聞き入っていた。
「……おいくつなんですか?」
「え?自分…?」
「ええ。よろしければ教えてくれません?」
「……20歳…だと思います。」
「思う?」
円を描くようにお湯を注いでいく店主はクスリと笑った。
「自分の歳、分からないんですか?」
「……。」
「私も、20歳です。タメですね。」
ゆっくりした丁寧な動作とは裏腹に素早くコーヒーを完成させた店主がおかわりを俺の前に置いてくれた。
残ったコーヒーを自分の前に持ってきたカップに注いでいく。
「…コーヒーはドリップの時、お湯の温度を上げると苦味が、下げると甘みが引き出されるんです。紙のフィルターの他に布を使うと、豆の油分が抽出されてまろやかな味わいになるんですよ。これは、さっきのに比べてお湯の温度を下げてみました。どうでしょう?」
「……あ、美味しいです。」
「良かった。」
店主は柔和に笑って自分のコーヒーに口をつけた。正直味の違いは俺の舌ではさっきとはよく分からなかった。
「20歳ということでしたけど…お若いのにどうして生活保護を?」
「……え。」
「ああ…不躾でしたね。ごめんなさい。訊かない方がいいですよね。」
二人分のカップから漂う湯気と香りに空気が暖かくなっていく。
そんな店内の温度がそうさせるのか、俺は軽くなった口を開いていた。
「……分かんないんですよ。自分のこと、なんもかも忘れちったみたいで。」
「……。」
「二年前?川で溺れてね……目が覚めたら、全部綺麗に忘れてまして……あの公園の前のアパート、前住んでた場所なんですけど…なんか思い出すかなって思ってふらっと立ち寄ったんです。俺の事知ってる人はいなそうだったけど……」
自分で話してて嘘くさい話だ。訊かれたものだからつい答えてしまったけど、飛び出した話がこんなだったら向こうも反応に困るだろう。
「……御家族は?」
「母だけ……俺が溺れた年に死んだって。親族はいないそうで…」
「そう……」
「ひとりぼっちになっちゃって。まぁ、自業自得…なんすけど。」
「どうしてです?全部仕方の無いことだったのでは?」
流石に言おうかと口が躊躇った。けど、先を促す彼女の質問に俺はつらつらと言葉を続けていた。
いいだろう……どうせもう来ることもない。
「……自殺未遂だったそうです。死のうとしたんだと思います。」
「……。」
「だから、自業自得です。」
話してて気が滅入ってきた。ガタガタと強く吹く風の音もそんな気持ちを盛り立てる。口に含んだコーヒーの酸味と苦味を喉に流し込んだら、コーヒーの熱が胸を少しだけ落ち着かせてくれた。
「たから、これからどうしよって、困ってて……」
わざと明るく俺は笑った。しんみりと湿っぽくなってしまった空気を変えるためもあるが、そうしないとまた公園の時みたいに頭が重くなるから。
「……良かったですね。」
そんな俺に、彼女はぽつりと呟いた。乾いた地面に一粒落ちた雨粒みたいにその一言は俺の中に染み込んでいった。
「……死にたくなるようなこと、全部忘れられて……」
「……っ。」
「これで、生きていけますね。」
表情の変わらない店主は相変わらず小さな微笑みを口元に滲ませてた。
でも、俺を見つめるその目だけは、先程とは違って見えた。ただ瞳の帯びる色に哀愁が漂って外の寒空みたいに寂しげに見えた。
「思い出す必要なんてないのでは?嫌な思い出なら……」
「……いや。」
「どうして?これからを生きていくのに過去が必要ですか?」
そんな訳にはいかない……
一人で勝手に死のうとしたんならそれもいい。でも、俺は巻き込んだ……
巻き込まれたのかもしれないけど、とにかく、俺と一緒に川に入ったまま戻ってこなかった人がいる……
藤城の言葉が何度も蘇る。俺をここまで連れてきたのは、彼の言葉だ。
でも……
許されたような気がした。彼女の言葉に、それですっと、胸が軽くなったような気がした。
「……そろそろ戻らないと。」
「……そうですか。」
甘い言葉に痺れる心臓に慌てて俺は席を立った。そんな俺を彼女はカウンターの向こうから見つめてる。
「……お金。本当にいいんですか?おかわりの分は……」
「いいですってば……」
薄い財布を取り出す俺に店主は笑った。くしゃっと笑ってカップを下げる彼女の顔に、さっきまでの寂しげな香りはなかった。
「……でも。」
「じゃあまた来てください。」
カウンターから踊るように出てくる店主は、そう言って扉の前に立った。ステップを踏むような軽やかな足取りで……
「……また。」
「ひとりぼっちは、お互い様なので。お客さん来ないから暇で……」
「お客さん……ですかね。お金払ってない……」
「いいんです。どうせ稼ぎなんてないんだし……」
笑いながら彼女は扉を開けてくれた。
体を包んでた暖かな空気が、外から吹き込む風に流されていく。やっぱり風が強くて、勢いよく流れ込む風は急流の川の流れみたいだ。
冷たい風が店主の髪をなびかせる。小さな雨の混じる風の中で彼女は尋ねた。
「お名前は?」
「え?」
「お名前、伺っても?」
一瞬『なんで?』とか思ったけど、それが『次また来ること』という約束の儀式みたいに感じた。
「……黒井憐です。」
「憐さん……」
「……次は、お金ちゃんと払います。今回の分も……」
しつこく支払いを主張する俺に何を思ったのか、彼女は今日1番の可笑しそうな笑いを顔から吹き出した。
落ち着いた雰囲気の彼女から溢れ出す無邪気な笑顔は、どうしてか俺を安心させた。
「--それでは黒井様、またのお越しをお待ちしてます。」
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