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暗闇の中を割くように進む地下鉄の揺れに立ったまま身を任せていた。身体を揺らしながら、窓に映ったモノクロのような自分と向かい合っていた。全然大したことじゃなかった。現に涙など出ていない、と自分を鼓舞する。鼓舞しながら大昔の大学生の頃を思い出していた。
あの頃は、もしなれるものなら、一粒の砂に世界を見られる人間になりたいとずっと思っていた。過去の嫌な思い出も吹っ切って、文字通り何にでもなれると思っていたあの頃が一番楽しかった。でも無知の知の権化だったあの頃でも、自分が絶対になれないものは、何となく察しがついていた。
私はその言葉を言った芸術家に無意識的に憧れていたのだと思う。
でも本当にそれが出来れば、どんな場所でも自由に泳ぐように、希望を見失わずに進んでいけると思っていた。それは余りに甘美な妄想に近い幻想だった。たとえ狭い暗闇の中に閉じ込められたとしても、自分だけに見える光があれば怖くない。幻想の光を友にすれば怖くない。与えられた世界がどんなに狭くても、その世界を自分の意志で拡大していくことが出来たなら、世界に落ちる光もまたそれに比例するように増えていくだろう。そしたら、やがて世界は光で満ちる。光で満ちた広大な世界は私が獲得したと言う意味で、全て私のものだ。この世界は私にいくらでも居場所を提供し続けてくれる。いつまでも私の味方でいてくれる。
そんな夢物語。でも捨てることは出来なかった。私はあの頃から、合理主義に魂を売っている自覚があるから余計にだった。人は本質的に弱いということを踏まえるなら、私のような心の底から神を信じない人間は何らかの思想に縋らなければ生きていけない。もし縋るなら出来るだけ日常生活の妨げにならないものにしたいと思っていたのだろう。だから未だに拠り所に出来るのだ。
私は今でもこれを密かに信じている。そして、こういうことは自分の心の中で思っていたいと切に願っている。こんな夢物語は、私の心の中で思うだけでいい。この言葉を考えた芸術家本人の口からであっても、こんな言葉は聞きたくない。この言葉はもう私の中で熟成されて私だけの意味を得ているし、何よりも現世の生を共有していない他人が言うと白々しく聞こえる。
結末までは話さないにしても、この芸術家の言葉のくだりだけは、会社の人間で、プライベートでも付き合うに値する人間の試金石に使えると思ったから、相手と二人きりの時に、何気ない雑談の体でよく話題に出していた。夫にも、仕事帰りのデートで行った深夜のレイトショーの待ち時間にしたことがある。そういうのは芸術家が言うからいいんだよ、と夫は笑って言った。俺らは芸術家にはなれないよ。夫は座席にだらしなく身を沈めたまま、スクリーンに遠い目を向けて自虐的にそう続けた。
謙遜と自虐は、するのもされるのも苦手だった。エゴが透けて見える様に、恣意的な露出を連想するからだ。特に自虐をする人間はそれが許されるキャラ、すなわちムードメーカーという名の道化を除いては、公衆の面前で下着を見せているのと同じだと思っていた。
夫は会社では辛うじてそういうキャラだったから、彼の返答は正解だった。でも私は道化の仮面の下の彼の本性にしか興味が無かったから、上手くかわされたと思った。
私は出来ないことを出来ないと正直に言える人が好きだった。隠し事をされるのは、一番嫌いだった。
私は反射的に、「なんで? 嘘でしょ」と言いたくなった。あなた飄々としてるから、ほとんど芸術家みたいなもんじゃない、と。
夫は同じ会社の企画職で、私達は職場結婚だった。でも性格に企画職らしからぬ奥ゆかしい所があったから、今思えばあの時仕事で煮詰まっていたのかもしれなかった。だが、落ち着いているのに子供っぽい所があって、好きな映画なんか見に行ったら年甲斐もなくはしゃぐこともあると言われた矢先にあんなことを言われたから戸惑った。あの時は珍しく弱気だったように思う。そんなことない、何にでもなれそうよ、とあの後続けた方が良かったのか。
夫は天使を信じているようだ。目に見えないものを直感で信じられるタイプの人は羨ましい。自分が絶対にそうなれない、という意味で羨ましい。軽やかな想像力で天使みたいに羽ばたいてどこへでも飛んで行けそうな気がするから。私は直感では天使を信じられない人間。でも天使を眼前で見せられたら、信じるだろう。自分の理性を疑うほど愚かではない。私は自分の弱さを知っている。何が好きで何が嫌いかも含めて。だから仕事で人と協力出来た。あそこまで上り詰められた。どんな人間でも、立ち位置が違っていても利害が同じなら説得出来る。道筋が違っても、ゴールが同じなら結果オーライ。逆に違っていることがチームの個性であり、強みになると、そう思っていた。
事実、働いていた頃の私達は、部署は違えどもステージの上の手品師と助手のようだった。企画職のムードメーカーの夫が花形の手品師で、マーケのリーダーの私が手品の種を管理する助手。夫は参謀もこなせる人だったから、時にこの役割は入れ替わった。互いの弱い所を知っており、かつ良い仕事をするためにはそれを補わなければならないことを私達は知っていて、それゆえに対等だった。だからしかるべき時には抵抗なく入れ替われていたのだと思う。
夫を、あの人を初めて見たのは、マーケの会議室のドア脇だった。ドア脇で、当時のマーケの部長と、人事と三人で、何か立ち話をしていた。ちょうど新人研修を終えたばかりの私は、彼の姿を横目でチラ見して、知らない人がいる、と初見で警戒した。彼が去った後で、中途で企画部に入社してきた人だと周囲の噂話で知った。第一印象は、良くは無かった。背は高いけれども髪は寝ぐせなんだか天パなんだかよく分からないぼさぼさ頭で、スーツがあまり似合っていなかった。本人もそれに気づいているようで、時々、バレたか、という感じで笑っていた。笑った時に大きな目がくしゃっと細くなって、目じりに皺が出来る。ちょっと頼りなさそうな年上の人、もっと悪く言えばトロそうな人、それが第一印象だった。
だが夫は私に親切だった。それは彼が中途のルーキーとしての注目期間を過ぎてからも、私が新卒の「お客さん」の恩恵を受ける期間を過ぎてからも変わらなかった。裏方の手柄を自分の手柄として報告する人間ばかりの中で、新人の私ですら簡単すぎて退屈に感じるルーチン仕事の成果を、さも貴重なものであったかのように当時の上司達の前で臆面なく報告する夫は異質そのもので、否が応にも興味を惹かれた。誰にでも親切なのかと思っていたら、案外そうでもない所もまた‥‥‥。
風の噂で聞いた彼の仕事ぶりが私の興味を決定的なものにした。アロマ効果のあるヘアケアシリーズ。フランスに本社を持つ老舗アロマブランドとのコラボは、彼の日参の努力で実現したものだった。ベースは、風にそよげば微かに香ってくる程度の柑橘系の香りが3種類。個々の香りごとにシャンプーからヘアスタイリング剤までの類商品があり、それらをライン使いすることで香りの層が重なっていく。オーソドックスな使い方をすれば、最終的には上質な香水のような、多層的な物語性のある香りを、TPOに応じて強弱も自由自在にまとうことが出来る。個性を出したい時は、無香料のヘアミストに別売りの単香リキッドを加えれば良い。統計的には数千通りのカスタマイズアレンジが可能となる。マーケの新人の間では、ある原宿系のJKインフルエンサーの紹介動画でバズって、若者の間で爆発的に売れた自社商品として認知されていたそれらは、元々は彼のアイデアによるもので、社内で散々弄られる前のターゲット層は高齢者だった。
どんな形でも売れれば官軍。彼はその事実を少し恥じているようにも思えた。事実、彼は元々はユニセックスだった頃の、最初期の試作品の香水サンプルを、在庫が無くなるまでカスタマイズして愛用していた。いつの間にか香水に合わせたのか、服まで変わっていた。初めて会った頃の新卒ライクなスーツではなく、広告業界のおとなしめの内勤社員が好んで着ていそうな、程良く力の抜けたシルエットのセットアップスーツ姿になっていた。イメチェンとも言えるほどの変わり様だったが、それが彼のあの独特な髪型に良く似合っていて、廊下ですれ違った時はこれが本当の姿だったのかと、二度見してしまった。自分が似合うものを客観的に理解して、それを自然体で着こなすということの難しさは、実体験で分かっている。異性で、ましてや保守的なうちの職場で、転職組の立場でそれをやるのならなおさらだ。それを毎日、呼吸するように出来て、かつこれが自分のスタイルだと周囲に認めさせてしまえる彼が、何者でもない訳がないと、あの時思った。華やかな広告業界にいた人間の、審美眼の鋭さと俯瞰力を暗に示されたようにも感じた。彼が爪を隠した能ある鷹なのなら、あの感傷など錯覚で、ただからかわれているだけかもしれない。そこまで考えたら、怯えなのか武者震いなのか良く分からないものに襲われた。職場では常に強気でいたのに、こんなことは初めてだった。仕事で余裕がない時も彼のことが頭から離れず、彼への興味が煮詰まった結果、もういっそのこと敵になるのなら、なる前に潰れて欲しいというどす黒い感情を抱くまでにもなった。
朱が交わって赤くなる瞬間を見たいものだと思いながら、意気地の無い眼差しで、彼を観察していた。本当に彼が憎いわけではないということは分かっていたが、彼が何かへまをする姿を見て、自分のストレスまみれの不安定な心を安定させたかったのだと思う。謙虚な新人の仮面の下の私は、依然として虚勢を張る子供そのもの。どこまでも勝ち気で生意気だった。そのくせ心の底では夢見がちで、彼と一緒に仕事が出来る日を、密かにずっと待っていた。
やがて本格的にマーケの仕事に入り込んだ頃に、彼が、彼の中の良心と前職の広告代理店で培ったクリエイティブの発想を掛け合わせる形で企画を出しているらしいことを知った。私は引き続き部内で自分の仕事の成果を粛々と発表しながら彼の仕事を観察した。彼は程なくして私にじっと観察されていることと、私の能力に気づいた。それはただ戦友候補の人間を見つけたという実務的な気づきで、そこに恋などは無かったと思う。だが、この瞬間に私達は、本当の意味で互いを見つけ、名実ともに他人同士では無くなった。
消費者に自社のシャンプーやボディーソープを売る仕事。
これらの消費財は生活必需品に相当することから、競合も多い。それに加えて、意識内外のバイアスに左右される、個の集合体としての消費者、もとい世間様が購買判断を左右するものであるがゆえに、市場の動きが他の業界に比べて読みづらい。だが社会情勢がいくら不安定でも、清潔な身体で暮らしたいという欲求は人間の本能に根差したものなのだ。そこに娯楽品よりも、より身近で切実という意味でのアドバンテージがある。それは一見すると最低限の、取るに足らないものかもしれないが、そう考えられていることが既に、その消費財達が日常に深く浸透しているということの裏付けにもなっていて、同時にそれは捉え方次第では無限の可能性を秘めたバネのようにも思える。とりわけマーケと販促の可能性と言う観点では、学びと実践がシームレスにリンクした、極めて面白い市場だと言えるだろう。だから私はそのバネを(貴社と自分の)未来のために活用したい、そう学生時代の私は考えていた。面接の志望動機でもそう語り、事実その読みは当たっていた。
間接部門の引け目を感じながら仕事をしなければならないという不遇な同業他社もある中で、この会社のマーケ部門の地位は高かった。ヒット商品を永続的に生まなければ、会社の未来はない。そのためには、ヒットに至った仕組みを解明し、的確にフロー化し、市場の変化に応じてそれをフレキシブルに変化させていくことが不可欠なのだった。業界内外の過去の流行を解剖して分析した上で、人為的にヒットを再現するためのフローを構築する。日進月歩のテクノロジーの発展と連動する形で、多角的視座の下で刻々と更新される分析指標を使いこなし、正解になる前の正解を求めて膨大なデータの海を暗躍する。これがこの会社のマーケ部門の仕事だった。
膨大なデータの山から価値あるものを探し出すという意味で、私達マーケの仕事は、砂金術に似ていた。接触が少ない外勤の社員からは錬金術に見えることもあるようで、マーケのベテラン社員の中には、口の上手い営業のお世辞を真に受けて、見えないものが見えることを拠り所にしてある種の選民思想を振りかざしながら仕事をしているお局もいた。
一部の鼻つまみ者のせいで神経質なイメージを持たれてはいたものの、私達はその業務の性質から、他部署からは一目置かれる立場ではあった。他部署の人間は、マーケの収集・整理・分析した数字を自身の主張や行動を裏付ける証拠道具として、あからさまに欲しがり、冷静で仕事熱心な若手は優秀な順に新規企画の合同チームにアサインされていった。私も自然な流れで夫のチームにアサインされた。ピーク時には5チームの新商品の市場リサーチを掛け持ちしていたが、常に一番注力していたのは、最初にオファーをくれた彼のチームのものだった。
市場で新商品を売るためにはまずは社内で勝ち残らなければならない。勝ち残るためには、老舗の伝統が失われることを何よりも恐れるがゆえに、冷徹な理性でものを考える、臆病な上層部に実利を絡めた手品を見せる必要があった。でもあくまでもこれは予選だ。事実、彼らは頑迷な人間達ではあるが、前提として消費者側ではなく、こちら側の人間だった。だから、あくまでも既存の枠内での冒険であることを強調した上で、その冒険をしなかった場合のリスクを強調することが肝だった。そこさえ押さえれば後は見せ方の問題だ。
新商品の企画発表の時間は短かった。定例戦略会議の終わりのおまけ程度の時間を使って企画責任者がプレ企画の態で発表するから持ち時間はせいぜい10分程度。皆疲れているから追加で渡せるパワポ資料は1枚が限度だった。
実現不可能に思える突飛な企画は説明の途中で遮られ、上層部が興味を持った企画の追加説明に充てられた。遮られた企画責任者は、表向きは涼しげな顔で退席した後で、恨めし気な目つきで、自分の発表時間を奪った企画責任者の説明を聞く。空気が読めない社員は干されるから黙っているしかない。さながら、水面下で情念が渦巻くゼロサムゲームのようだった。
私は既製品から吸い上げた諸数値や、過去の予実を元に作成した売上予測値のグラフを作成し、さり気なく共有することで夫の企画を支援した。夫は渡した資料を元に、広告業界仕込みのパワポスキルを駆使して、キャッチコピー付きのシンプルな企画書を作成した。図は一つのみ、大きな文字で、ほどほどにユニークな画像付き。上層部を消費者に見立てたCM仕立ての説明があざとい、と思われないのは彼の朴訥なキャラゆえだったのか。皆さん今日もお疲れみたいですね、と頭を掻きながら登場するのがいつものパターンだった。ピエロ役を押し付けられた人間みたいに苦笑いをしながら登場。殺気立った雰囲気を相殺した後で、上層部がキレ出さない程度の緩さで、詰まり詰まり喋る。でも話している内容は極めてまともだった。どこまでが本気で、どこまでが演技なのか見抜きたいと思って付き合ったが、付き合ってみて分かった。あれは素が根底にあったがゆえのリアリティだった。
あからさまに協力するようになってからは、参考資料として過去の消費者アンケートの結果分析の展開を求められた際に、オリジナルと共に、グラフにして強調すべきデータを「出現させた」バージョンを特別にセットで渡すようになった。いくら企画に精通している夫でも、必要なデータの炙り出し方までは分からない。魚の捕り方は漁師が一番詳しい。彼もそれを理解しているがゆえに、漁師に自分からリスペクトを示す人間だった。だから勝算がある企画だという裏付けを先に示すことで、支えたいと思った。気さくな彼は激励の言葉を掛けられることには慣れ切っているだろうから、実利で存在感を示したかった。その意味で、夫が本当に企画を通したいのであれば、必ず頼まれる仕事を、先回りしてやっただけのことだった。
上層部から詳しい資料が見たいと突っ込まれたら、さり気なく、実はもう過去の消費者インサイトに基づく予測グラフを用意しておりますと言い、追加のパワポ資料を差し出す。誰も傷つかない、笑いを交えた猿芝居だった。
私は自席で何も知らない振りをして笑っていた。
これは奉仕ではない。ただ仕事をしていただけだ。
そんな私達も、結婚後は立場が逆転した。
私は結婚後、専業主婦として家庭に入り、データで関わってきた人達と、生々しい交流を始めた。
予想通り、感情的な人達だった。噂好きで排他的。入れ子のような幾重もの柵に囲まれた空間の中で家族生活を営まなければならない、という責任の下では、そうならざるを得ないのか。商品ごとに設定していたペルソナでは年収や家族構成、本人や構成員の生活パターンや貯蓄性向等に基づいた思考の個性があったはずだが、現実の接触ではこちらの判断に影響するレベルでの違いはなく、一様に娯楽に飢えていることが顕著だった。
ありきたりの娯楽では効果が薄いように思われた。かと言って毒入りの娯楽を初対面で差し出したら警戒されるだけにも思えた。だから嘘ではなく、脚色。出来るだけ無害な脚色が求められていると思った。
お茶の間的な夫の笑いはここでも無敵だった。
この世界の人達は夫の飾らない人柄と軽妙洒脱なユーモアを初対面で気に入った。一度顔出しをしただけなのに、面白い旦那さんねえ、良い旦那さんをお持ちねえ、と何度も言われた。何ということもなかった。つまりここで生きて行くためには、夫の真似をするのが一番賢いやり方だ。まずそれをやること。話はそこから。マーケの頃の私の武器は、ここでは何の役にも立たない。
結論から言うと、頭でっかちを自認する私は夫のようになれないし、なりたいとも思わなかった。だから貝になることにした。無口な人間はこの世界ではいないのと同じ、と判断されるようだった。その点だけは職場と似ていたのでちょっと笑ってしまった。良く言えば透明人間、悪く言えば幽霊。でも幽霊は卑屈な人間には見えるらしい。
時々勘違いしてうだつの上がらない日々のサンドバッグにしようとしてくる輩もいた。でも、そんな人間はどこにでもいることを私は知っていた。だから、無口な人間ほど恐ろしいものはないと教えてあげた。
媚びは売らずに争いは避ける。でも避けられない時は、敵は一対一で潰す。私は自分の敵を言葉の刃で滅多刺しにすることを厭わない。そもそも本気でやらないと敵になった相手にも失礼だと思うのだ。
貝になって様子を伺いながら、いつか来る新しい時に備えるのだ。そう思っていた。こういう時に夫に相談する人も多いと聞いてはいたが、私の場合は、対等な立場の夫に守られるのは癪だ、という感情も多分にあった。
でもこの世界の毒抜きをしてくれる彼には感謝していた。だから私はどんなに狭い世界に押し込められても、そこに無限の可能性の世界を見出せていた。
ギリギリの線で平常心を保っていた。危うい均衡の上で平和の光を探していた。
子無しの専業主婦なら辛うじて我慢出来たと思う。夫の世界で生きるということを許容すれば良いだけだから。世界には檻があるけれども、その世界には私しかいない。孤独に耐えられさえすれば、世界は私の気の持ちようだけでいくらでも広く出来る。
もうはっきり言おう。私は計算を間違えた。あの時子供を作ったのは、最大の誤算。
心の中で、依然として爆睡している「これ」に呼びかけた。あの保健師も言っていた通り、子供には常に正直でいなければ。
‥‥‥随分長く、偉そうに語ったけど分かる?
ママたちね、要は性欲に勝てなかったのよ。
だから別にあんたが欲しかった訳じゃないの。
あんたはおまけよ、ただのおまけ。
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