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 世間で言う所の小学校6年、私の母校で言う所の初等部6年の新学期始まってすぐに、道徳の授業で、ある映像を見せられた。

 それはある夫婦の出産映像だった。

 ボランティアで協力を申し出たというあの夫婦は、今で言うロハス夫婦のようなものだったと思う。テレビ画面に映し出された彼らの風貌は、社会の教科書に出てくるヒッピーに、東南アジア辺りの途上国の子供達が古着の配給で着ているような、Tシャツと短パンをもし着せたらこうなるだろうな、という感じだった。

端的に言えば、山で自給自足をしているジョン・レノンとオノ・ヨーコのファンの落ちぶれた成れの果て。二人とも彫りが深く、それなりに整った顔だったが、全体的な雰囲気は、人というよりは野猿に近いものだった。男の方はぼさぼさ髪で髭が伸び放題。女の方はしめ縄のような三つ編みに、化粧っ気の無い顔。これ以上ないほど健康的な生活をしていて、テレビ用に清潔な服を着ているはずなのに、彼らの手足は日に晒しすぎた干物のように、からからに干からびて見えた。

よく言えば修行僧、悪く言えば乞食。全身が日焼けで黒ずんでいる中で、化粧はおろか何の手入れもしていないであろう年齢不詳の女の頬だけが、他の身体の部位に不釣り合いなほど脂ぎっていた。映される角度によってはそこだけが入念にパックした後のように艶めいて見えたのが、完全に捨てたはずの女の性の残滓のようで、子供ながらにもひどく残酷に思えた。

 よくある多様性についての映像らしかった。若干のインパクトはあるが、目新しいものでもないように思えた。テレビでも感動ドキュメンタリーの態で散々放映されている類のものだ。わざわざ教育映像にする意味あるんだろうか。そしてそれを、学校の道徳の授業で見る意味があるんだろうか。こんな必然的な問いが水泡のように次々と浮かんできた。

だが、これらの疑問をすぐに解消することは当然のことながら、出来なかった。無理、と判断した私の理性は自己防御の回路を早々に組んでしまった。先生が見ろと言うなら見る。抵抗するのも面倒だし、それをした所で失うものの方が多い。担任の教師は赴任してきたばかりの女教師で、まだ好き嫌いを判断出来るだけの接触も無かった。だから無難に、取りあえず従っておこう。それだけのことだった。

 実を言うと、画面越しの彼らの存在している空間にはこの段階で既に、若干の違和感があった。例えるならば、こちら側とは次元が違う、違う時間が流れている、という類の違和感だった。でもそれは、最初は掛け違えたボタンを見せられた時のような、おかしいけどよくあること、もっと言えば何でもないことに思えた。

 だから無視した。

ただの個性と多様性を拠り所にした、変な人達。全然怖くないと思っていた。ここまでは。

 彼らは独立した箱の中で、互いに笑顔を向け合いながら、人があるがままに生きる姿を見せたいという意味のことを滔々と語っていた。時折画面下に白抜きの字幕が流れた。愛、自由、自然、責任。この手の人々が好む、耳当たりの良い言葉。彼らの口から発せられたそれに相当する言語は、発音から推測するに英語では無かった。二人は元々大学の院生だったのだという。うちの大学と双璧を成す大学の修士卒だった。誰かの過激な思想に傾倒した結果こうなったのだろうか。もしそうならカルトの洗脳の犠牲者みたいで、少し哀れに感じた。   

社会科のビデオで見た大昔の地下鉄サリン事件のドキュメンタリーの灰色の映像が、彼らの動物的な笑顔に自然と重なった。元は物静かで優しい青年だったが、後に教団に完全に洗脳されたという理系のエリート幹部だった犯罪者の、卒業アルバムの顔はこの二人にどことなく似ていた。静かな怒りのような同情が、小さな器に湯が注がれていくように、自然と募った。つま先立ちの同情をすることで、優秀な大人でさえも落ちる社会の不条理を、子供なりに安全に感じていたのかも知れなかった。

だがそれも一瞬のことだった。確か、あの人は結局、一度も正気に戻らずに義憤に駆られたヤクザに刺殺されてしまった。そこまで思い出したら、満ちた矢先の同情の熱が、潮が引くように一気に引いてしまったのをよく覚えている。器は割れてしまった。子供の未熟な想像力を象徴するかのような脆すぎる器だった。見えない所に継ぎがされていた器だったのかもしれない。でも、少なくともあの時に私は私の中に蟲を見なかった。理性の風になびく、何かの象徴のような糸影だけが眼前にあった。私は得体の知れないその糸を、理性の一部を転移させた右手で払ったのだと思う。払うと同時に、画面越しの彼らと私を繋ぐはずだった蜘蛛の糸は、現れた矢先に何も結ばずに消えてしまったのだった。

私達がまだ知らず、これから知る機会があるのかどうかすら怪しい単語を交えつつ、饒舌をふるう、この未開の異国の人々に、私はいつか見た、内側を虫に食われて空洞になった有機トマトの姿を重ね始めていた。ここで観察者としての疑問が浮かんだ。なぜ同じ赤い血が流れているはずなのに、こんなに気持ち悪く思えてしまうのか。それは私が彼らに偏見を持っているからに違いない。だが、そう思わせてしまう彼らに責任は無いものか。……十中八九ないのだろう。なぜなら彼らは彼らなりに正しい生き方をしているから、他人にどう思われるかは気にしていないし、そんなことは頭の隅にも上がらないはずだ。それに、もしそこを指摘すると、彼らの生き方に対する批判であり差別と取られて、逆に理詰めでやり返されるだけだろう。

 私の若い理性は、そこに逃げ道を見出したらしかった。

だったら同じ土俵に立たなければいいだけだ。究極的に言えば、これは好みの問題に過ぎないのだから。好みの問題だとすれば、必ず理解しなければならないというものでもない。むしろ大事なのは、彼らと同類の人間に万が一対峙した時に、偏見を持っていることを相手に悟られないようにすることの方。そう割り切って考えた方が利口に違いない。


 事実、私の推測通り、彼らは、このような批判を一度も受けたことが無いような振る舞い様だった。

 ―私達は同様の取材を何度も受けていますが―

 女の方が嬉々として語り出した。よくぞ聞いてくれましたという態で、目をむき出すようにして喋る。脂ぎった頬が紅潮してきた。俗世を捨てたのにテレビカメラに興奮している様子なのが痛々しかった。こんな風に浮かれている大人を見るのは苦痛だった。理由は一つ、目のやり場に困るから。

 ―この活動は社会的に意義のあるものだと心から信じています―

 私は彼女に聞きたかった。あなたは自分の方が間違っているのではないかと思ったことはありますか、と。物理的にも倫理的にも絶対に聞けない問いだった。仮に聞いたとしても答えは分かり切っていたが、自分が空気を読むことを強要されすぎているとも感じていた。露骨な疑問をぶつけられない不満が私の心を覆った。

二の句を継がないうちに本質的な問いが、私の心の底からもがくように湧き出た。本能に根差した批判を無視することがここまで人の行動に悪影響を及ぼすのだとしたら、その事実の方がよほど道徳的に価値があり、教材としても適切なのではないですか。この二人を責められないならこの作品を作った人間を責めたいと、私の心は言っていた。だがいずれにしても相手不在の問いであるがゆえに、所詮は、行き場の無い独り言に過ぎなかった。

 こちらの心配通り、彼らは坂を転がるようにグロテスクの色を強めていった。赤紫色のヒルが二匹合わさったような唇を動かして、テレビカメラで映されていること自体を意識していないように、彼らは白々しく、それでいて生々しく語っていた。人もどきという差別用語に等しい言葉が私の脳内に浮かんだ。現実では絶対に使ってはいけない言葉。でも眼前にいるのは、二人の間で完結している幸せと、それが持つ価値について、全人類がより良く生きる自由という、気が遠くなるほど壮大な題目を掲げながら、声高に語っていく、人もどき。

彼らは自信満々だった。自分達のことを一番人間らしい人間だと思っていて、それゆえに人類の幸福について語る唯一の権利を神から授けられている、というほどの振舞いようだった。

 本当に、なぜそんなに自信があるのだろうか。

 彼らが言う通り、現代人が人間らしさに飢えていると考えるなら、現代人である私はこの二人に憧れを抱くはずだ。だが少なくとも私は、現代人としてこの二人のようになりたいとは絶対に思わない。なぜならこの二人は根本的に私達と違うように思うから。

 難しい言葉を使って隠そうとしているようだけれど、単に退化しているだけではないのか。率直に言うと、私にはそう見えた。

 確かに彼らは元々は現代人だった。だが今、ここまで現代人とかけ離れてしまった彼らが語る幸せに、果たして意味はあるのだろうか。

 こんな残酷な問いが、また湧き出た。


 彼らはアダムとイブなの?

 百歩譲ってそうだとしても、そもそも現代社会にアダムとイブがいてもいいの?


 時折カメラ目線になることで、彼らは地球上に密かに築いた二人だけの楽園を視線で補強しているように思えた。その行為は、元々インテリ学生だった彼らの自意識の発露と最期の知能の足掻きのように思えた。読書が好きな私も彼らと同じ気質を持っている、と思うと、無性に自分の心の中を掻きむしりたくなった。酷い顔になると分かっていても唇を歪めずにはいられなかった。本当に、一寸先は闇というのはこういうことを言うのだ。これは悪趣味な警句なのか。私も、ここにいるクラスメイトもどれだけ勉強が出来ても、一歩間違えれば、彼らのようなアウトサイダーになる危険性を孕んでいる。

だが、最もこの二人は自分達の世界からお互い以外を排除してしまったという意味で、もう完全に文明人としては、終わってしまっているように思えた。終わっていることに気づかずに終われるのは幸せなのだろうか。そんなことを考えた所で、ある考えが閃いた。それは啓示のような閃きだった。その「神のお告げ」は、私の全てを理解しているかのように、私のささくれ立った心を優しく包むと、その先の結論をゆっくりと促した。つまり、それは私達が考えて良いことじゃない。そもそもこれは私達人間が考えられる範疇のことじゃない、と。

 頭ごなしに決めつけたのではないという自信が、攻撃出来る対象を見出せたという事実を、鮮やかに確証づけた。


 そもそも論として、私達が考えられないものをこんな道徳の授業で見せることが、おかしくない?


 この疑問には攻撃出来る人間がいるという確かな手ごたえがあった。図らずも確信を与えられた最初の違和感が、私の思考のもやをみるみるうちに晴らしていった。やっぱり自分で苦しんで考えることが重要なのだった。だってその違和感を煮詰めて生まれた疑問は、こんな風に前提として横たわっていた理不尽を、理詰めで炙り出すのだから。

思考に存在を保障された疑問から生まれた、この理不尽に対する怒りが、沸々と湧き上がってきた。つい数分前に抱いていた感情の発露のような疑問が、一気に幼稚に思えてきた。もしあれらを口に出していたら、ただの子供の生意気だと思われただろう。よしよしただの映像だから落ち着いて観ようね、と丸め込まれて終わり。


でも、その大人のせいで、なぜこんな思いをしなければならないの?


 私は生意気な子供ながらにも、この苦労して入学した名門小学校が持つ社会的権威に知らず知らずのうちに身を預けて、守られようとしていたのだと思う。幼くして偏差値競争を勝ち抜いた対価として、ここにいる間は、学外のありとあらゆる脅威のことは忘れて良いという一時的な猶予を与えられているように感じていたのだと思う。

事実、その特権意識はある程度は叶えられていた。

 学内にはそれ相応の苦労はあるものの、学外の比ではなかった。受験組は内部進学のクラスメイトよりも猛勉強してきた分勉強では優位。クラストップレベルの成績を保ちさえすれば、クラスメイトからも、クラスの平均点で査定される教師からも一目置かれて放っておいてもらえるという、ある意味ぬるい環境だった。

 自身の成績に裏打ちされた、その安心感を盾にすることで、私は幼稚舎からの内部生が仕切るクラスの檻の中で、半分透明人間の、攻撃対象外の存在として生きていた。これは私が習得した最初の処世術でもあった。一年経てば、何もかもがゼロの状態にリセットされる。その上で次々に振ってくる新しいことをそつなくこなすことが義務付けられている環境で、不登校の闇に落ちることなく通えていたのは、一重にその処世術を自力で実践レベルまで高められたという自負があったからだと、今でも確信している。

あからさまないじめはないにせよそれなりに理不尽な空間の中で、我ながら上手く立ち回っていたと思う。

 教師は礼儀正しくさえしていれば便宜を図ってくれる存在だった。一部の教師は読書好きで表向き従順な私をかわいがって、図書館には無い私物の本を貸してくれたりもしていたから、それに対する借りもあった。また接触が少ない教師に対しても、こちらが知りたいことを知っていてかつそれを分かりやすく教えてくれる大人の理知に対する、尊敬はあった。

だがそれ以外の点では何も期待していなかった。大人も一人の人間であることを私は私以上にドライで理知的な両親を通して、既に知っていたからだ。学校にいる時間は長いから、聖職者だって四六時中聖人でいられる訳じゃない。この学校の教師達も多かれ少なかれ皆ぼろを出していたから、親同様に、同じ人間として失望することは何度もあった。


でも、ここまでひどいのは無かったが。


 教師に対して初めて抱いた怒りは、本能的な恐怖を伴っていた。

 これから見せられるもの、そもそもこれはこの学内にあっても良いものなのか。

そんな疑問を含んだ恐怖が心の奥底から浮き上がるように浮上した。どす黒く色づいた恐怖が、私の心の鏡面に波紋のように広がっていった。

 不安を覚えて周りを見渡すと、教室の空気は真っ黒な海のように暗く淀んで、波打っていた。意外と言うべきか当然と言うべきか、同じように感じたのは私だけではないようで、声にならない不吉な空気のさざめきが、既に教室内には広がっていた。

海難事故があって、船体から油の流出が始まった直後の海のようだった。

新学期の猫を被っていた教室の中に、汚染が始まった空気の淀んだうねりがあるのが、肌感覚でも分かった。透明な毒を混入されたような、一種の痺れを伴うような不穏な空気が毒ガスのように広がっていた。教室全体の空気が、いびつに歪んで膨張し始めたかのようだった。

暗い海に閉じ込められた私達はさながら、自由を奪われた魚のようだった。ある意味悲惨なのは、魚と違って私達はエラ呼吸が出来ないから、どんな空気でも、生きるために取りあえず吸うしかないということだった。

 見回して観察するに、大多数のクラスメイトは、画面の中の二人を、ただの原始的な男女だと思っているようだった。

 私の視界の範囲内の男子達は初めて見る異物の女に、周囲の目を気にしてただ視線を合わせているふりを決め込むか、机に突っ伏して寝たふりをするか、興味なさげにそっぽを向くかしていた。この男子達はもう大人の女の裸を知っているのだろうか、とふと思ったが、今は確かめようがないことを考えている場合ではなかった。

あの時に視界に入った男子のうちの一部は、中等部に上がった後で、いじめの加害者になったと風の噂で聞いた。マスコミにスキャンダルとして取り上げられて騒がれるほどのひどいいじめで、全校集会が開かれたからよく覚えている。主犯格の生徒は前列から二番目の机に突っ伏して寝ている幼稚舎からの内部生。弁護士の息子だが、YouTubeにアップされたいじめ動画で身元を特定されて退学。裁判は親の力で法を捻じ曲げて勝訴したはずなのに、匿名の「善良な」衆愚のリンチの前ではその法自体が無力だったようだ。生きる上で最低限の危機管理能力すら持って生まれてこなかった出来損ないの子供、親は邪魔ではないのだろうか、と他人事ながらずっと思っていた。彼の取り巻き達も停学になって、何人かは転校したと聞いている。ほとんど話さなかったので彼らがどんな顔をしていたかはもう良く覚えていない。集合体としての顔だけが私の記憶の中には今でもあり、それは自分を不老不死の神か何かだと勘違いした斜視の子供の顔だった。根拠不明の自信を補強するために神らしからぬ陰険な顔で今でもたまに出てきて笑う。上品な笑い方を知らないのなら、せめてその笑顔が公害であることを自覚して、笑わないでね、と思う。

 それにしても、あの頃の彼らは、ただの日和見の羊の群れと言う感じだったのに、あれが誰もが持つ人の性で、あるいは生まれつきのもので、あの頃から誰かをいじめたいと思っていたのだとすると…自分以外の他人は例外なく警戒するに越したことはないと考えた、あの頃の先見の明を褒めたいものだ。

 まあ彼らのことを考えても仕方ない。どちらかと言うと、同性の女子の目の方が鋭く、大人顔負けに残酷だった。女子達のほとんどは目を逸らすことすらせずに画面上の事象を観察していた。特に私の前の席にいた後のクラスの一軍の女子などは同類の仲間候補の女子達と目配せをしては、この文化的生活をしていることに心底誇りを持っているが、本当は文化的にも社会保障的にも無所属なただの世捨て人に過ぎない大人の女の浅はかさを、声を殺して嘲笑していた。大人は皆賢いと思っていたのに、世間にはこんなバカな大人もいる、という面白い事実を知れたことがうれしかったのだろう。確かにそれは、頭が良く回る「クソガキ」の彼女達にとっては格好の笑いのネタになるに違いなかった。

 教室にいた担任の若い女教師は、動きを喪ったロボットのように教卓の脇に突っ立っていた。ろくに話もしないまま産休で去ってしまったあの教師の顔も、実を言うとほとんど覚えていない。目を合わせて話したこともほとんどないからだ。でも顔を知らないということはどんな顔にもなれるということだから、ある条件下においては極めて危険なのだった。

 あの時、あの教師は自分の周りで起こっていることを全て理解し、計算した上で傍観していたに違いないと思っている。私立の名門小の規則は「本当の」部外者には独特で、一見すると理解出来ない部分もある。排他的な集団では理解出来ない人間は置いていかれる。自分を助ければ得をするというメリットを中の相手に示さない限り。そして排他的な集団は、スケープゴートを作ることで結束を高める。

 あの教師は元々は、子供が嫌いでは無かったのだと思う。子供が嫌いな人間が子供に復讐するために教師になるというのは、気が遠くなるほど非効率なことだから。誰か対等な大人が、あの先生にあの学校での処世術を教えてあげれば良かったのか、と思ったこともある。でも子供からのそんな偽善は間接的であっても受ける方が耐えられないと思うし、それにもう全て無駄なんだと思ってからは、考えるのを止めた。

 あの時にただ無言で眼鏡を不気味に光らせていたことだけははっきりと覚えている。彼女は、彼女にしか分からない理由で疲れていた。あれは彼女なりの自爆テロだったのだと結論付けている。現に眼鏡の下の目は一足先に死んでいたようだった。

 

 無色透明の毒を孕んだ空気が教室内にひしめき合っていた。これから人もどき、もとい動物のメスの出産シーンを見せられる。私達はそれを、動物ではなく人間と読み替えて、空気を読んで感情を理性で制御することで、感動しなければならない。ちゃんと感動出来なければこっちが人でなしの烙印を押される。毒のせいか、はたまた高まっていく鼓動に連動するかのように呼吸が浅くなっていくせいなのか。私はもう確信していた。今日これから見るものは、私達の心を殺すまではいかないが、確実にトラウマを残すだろう。これは巧妙な罠だ。このトラウマを糾弾することは、私達が人間であることを否定するパラドックスに陥るということだ。私達はトラウマをトラウマと思うことすら許されない、そんな罠に嵌められる。

 この可燃性の空気はいつ爆発するのだろうか。確実に分かり切っていることは、テレビの映像を止めない限り、これはあと数秒で爆発するということだ。目を閉じるという選択肢は無かった。意図的に排除したのだ。当時の私にも最低限のプライドがあったから。ここまで分かっていながら見ないことは自分が臆病な子供だということを自ら暴露するようなものだし、それは完全降伏に等しい。もっと性悪な言い方をするなら、あの教師は映像を見ることを拒否した生徒を全員チェックして、後で嗤って楽しむに決まっている。

 私は心の中で、初めて教師に対して下手に出た。独白の形であっても、自分が主人である自分の心の中で、初めて感情に身を任せた。冷静な優等生の鎧を脱ぎ捨てて無様に振舞うのはこれ以上無いほど惨めだった。鎧は私の心の皮膚とひどく癒着していたがゆえに剥がす時には激痛を伴った。剥がした後は、自分の中の最も弱く醜い部分が全部剥き出しになった。赤黒い肉のイメージが脳内を覆った。理性が怯んでいるのだと思った。現にワンテンポ遅れて、目が潤むほどの痛みのイメージが私の脳内を覆った。でもそれでも背に腹は代えられなかった。

 すました優等生の仮面の下はただの礼儀正しい子供だった。どこまで行っても小心者な自分自身を自覚した。その事実にやるせなさと嫌悪感を抱くとともに、奇妙なことに私はこの先の人生でも絶対に悪党にはなれないのかもしれない、という啓示のようなものも感じた。ただそれは慰めにも何にもならず、むしろその、「ようなもの」に抱かれながら、幼い私はその負けるが勝ちの諦めに安心している自分のお人好し加減を切り刻みたいと思っていた。だがそれも叶わぬ夢だった。私は自分の自意識にただ坂を転がるように翻弄されていくだけなのだった。


 先生、先生お願いです。もう止めてくれませんか。

 止めてくれませんか。この言葉を、心の中で何度も繰り返していた。

 もはや懇願だった。

 

 だが、無情にも画面は切り替わった。

処刑は定刻に執行されるのだった。


 三つ編みの大人子供女が、腹を蛙のように膨らませた状態で、分娩台の上に仰向けに横たわっていた。上に白いTシャツだけを着て股を広げていた。それは出産というよりもそういう大人の趣味をふんだんに盛り込んだ快楽目的の処刑のようだった。この女もまた、映像の中で社会的に生贄として殺される。ある意味この女に相応しい最期なのかもしれないが、映像を巻き戻せば偽善の生温かさの中で何回も復活出来るだけ私達よりもましだった。Tシャツの下で、茶色のブラが生々しく透けていた。本当に、吐き気がするほどの女々しさだった。陰部にはお情け程度の薄いモザイクを掛けられていた。が、モザイクの下にあの、グロテスクな赤黒肉があることは容易に想像出来た。

野獣の咆哮に等しい絶叫が教室中に響いた。

あからさまに顔を背けたり、耳を塞いだりするクラスメイトが相次いだせいで、床を擦る椅子の音が映像の絶叫に重なり、綱渡り状態で平静を保っていた私の心をいたずら半分に突き飛ばすかのように煽った。私の隣に座っていた学年トップの気弱な男子が、絞め殺される寸前のひよこのようなか細い悲鳴を上げた。パニック寸前だった私の心が、動揺するクラスメイト達を背景に、膨張した空気の黒い渦の幻覚を見せた。私は私の感情を見失った。私の統制下にあったはずの感情は、単体で絶望の象徴になった後で、眼前に現出した、あのブラックホールのような黒い渦の中に溶けてしまった。

 女の絶叫がビブラートの不協和音になって響く中で、テレビ画面の中では陰部のモザイクのすぐ下で、生理の血を思わせる血が勢い良く注ぎ出ていた。ピンクの荒いモザイクの正方形が不吉な増殖を続けた。モザイクの処理漏れの血が、あの赤い色そのままで、白いシーツにこびりついていた。そこだけ見ると刺殺の殺人現場のようだった。糸を引いた血が混じった粘液になる寸前のような水が、モザイクの下からは聖水のように生々しく注ぎ出ていた。あのお情けのモザイクが無ければほとんどスプラッター映画かそういう趣味の大人が見るAVじゃん、と血の気の引いた空っぽの頭で毒づいてみたが、無駄だった。当たり前だった。だって私は言葉は知っていてもそのAVを実際に見たことがない。それらがどんなに卑俗なものとしても、見たことが無いものを本当の意味で見下すことなど出来ないし、それらが属する俗悪な世界に、眼前の得体の知れない醜いものを当てはめることなど出来るはずがない。だから私に出来ることは、私達に出来ることは、大人しく蝕まれることだけだった。

 悪夢が支配する超現実、もとい精神の地獄の中に私達はいた。私達はあの時、間違いなく地獄の永遠の時間を、がらんどうの身体で体感していた。虚無の風が吹きすさぶ心の底で、怒りとやるせなさが煮詰まった恨みの感情がふつふつと湧いてきた頃、あの下から出てる水が羊水よ、という声が背後でした。事務的、を通り越した、機械的で冷酷な声だった。悪役ならせめてうれしそうに言って欲しいものだと思った。まだ抵抗出来る元気があったのか、抗議をするように振り返ったクラスメイトもいたが、皆気圧された様子ですぐに正面を向いていた。彼らの丸まった背中には、見てはいけないものを見てしまったような怖気が走っていた。  

この期に及んで一体何を見たのか。物静かな羊だと思っていた先生が絶対にするはずの無い顔、例えば般若になる寸前の女のような顔を見たのか。

 臓物の生臭い匂いがするに違いない羊水がどくどくと溢れた。その後で、赤黒い人型エイリアンと小猿が融合して溶けかけたような胎児が出てきた。肉塊と呼ぶに等しい代物だった。ただただ醜悪な物体。私は顔を引きつらせて固まった。なにこれ。なんだこれ‥‥‥。こんなものに知性が宿ると、信じること自体が罪悪だと思った。

物理的な時間にすると出産シーンが始まってからは3分程度のように思うが、毒ガスが充満した密室状態の教室では、時空が歪んでしまったようで、永遠の拷問を受けているような感覚を味わっていた。教室全体の時間が、あの教師が意図的に招き入れた悪意を持った強大な力で乱暴に捻じ曲げられ、引き延ばされたかのようだった。私は恐怖で疲弊し切っていた、激しい感情の波が心の中を荒れ狂ったせいで、憔悴とも言える状態で、怒る気力すらなくしていた。我に返った時には視線はテレビ画面の端にあった。

 ちゃんと見なきゃだめよ、と言う声が耳元でしたような気がした。

 再び画面に焦点を合わせると人外生物のような胎児をまたまともに見てしまい、血の気が一気に引いた。また地獄の再開だった。胎児の赤黒い頭部の皮膚に、髪の毛がびっしりと濡れて張り付いているのを見て、昼に食べたばかりの給食が喉元にこみ上げてきた。目の奥から同時に涙もこみ上げてきた。このまま、画面の中の女と同レベルになって、本能の赴くままに吐いてしまいたいと、呆けた知性で思った。私が人であるがゆえに自分自身を救えないのなら、動物になりたかった。自爆でもいいから攻撃したかった。私に本当のプライドがあるのなら、そうすべきだ。自己の尊厳を脅かす鬼に対する怒りの炎が私の中に灯った。それは瞬く間に火力を増して、周囲の目を気にする、臆病な羞恥心を瞬く間に包んだ。

涙目の奥で画面を凝視し、胃の奥から食道に掛けて、酸性の何かが逆流してくる感覚に耐えながら、次に画面が切り替わったら吐こう、と私は心に決めていた。不思議なことに、そう決めた瞬間にチャイムが鳴ったのだった。決断するのがもう少し遅かったら、チャイムが鳴るのがもう少し遅かったら、私の運命は違うものになっていただろう。あの時、チャイムが鳴った時に、先生の舌打ちが聞こえたようだった。地獄は終わり、私は耐えることが出来た。あの時ばかりは、やはり神様はいたのだと、思わざるを得なかった。そして、神様よりももっと近くで、私達を守る学校の存在。どんな形であれ最後は私達を守ってくれるその巨大な手。その存在意義を、否が応にも感じざるを得なかった。


 あの映像が怖くなくなれば、そうすれば、あの悲劇も無かったものに出来る。

そう考えた私はガムを噛むように何度もあの映像を反芻した。ホラー映像を徹夜で編集する編集者はその映像を絶対に怖がらないに違いないという仮定に基づいて、何度も何でもないものだと言い聞かせながら反芻した。だが、それでも胎児に対する生理的な嫌悪感と恐怖感は消えなかった。あれを腹の中で寄生させる行為が妊娠であり、出産であるのなら、私は妊娠など絶対にするものか、と思った。理性で押さえつけようとしても、感情が言うことを聞かない。ごめんだ、絶対にごめんだと強迫観念のように感情は唱え続けていた。しまいには逆に理性も同調して、悪夢の残滓のような、妙に饒舌な妄想が、ミイラ取りがミイラになるよろしく始まったりもした。

例えば、あの映像のDVDが、もし目の前にあったとしたら。きっと、あの“母親”の胎内の延長のような、あの所々に薄い血が糸のように混じった粘液が、盤面全体にぶ厚い膜のようにのっぺりと掛かっていることだろう。それは母親の利己的な情念を象徴するかのような粘りを持つ生臭い粘液であるはずだ。DVDを手に取ったら最後、その粘液はメスのエゴとも言うべき臭気をまき散らしながら、盤面越しにどこまでも長い糸を引くだろう。そして自分の遠い子孫の指先に留まり、永遠の呪いを掛ける。

ありそうでない日常の延長の悪夢。バカらしいと言ったらそれまでだが、そんな悪夢の延長とも言うべき妄想に幾日も悩まされた。

 あの訳が分からない悲劇の数日後の給食の席で、同じ班のクラスメイトの一人は、「クラス役員をやってるママにあの映像のことを言いつけてやった」と得意げに言っていた。

 親に愛されている自分を自慢したいのか、親を言葉一つで操れる事象を自慢したいのか、どちらなのか分からなかったし興味も無かったが、いずれにせよ全てが無駄な行為だと思った。あの先生はとっくに捨て身なんだから無駄だよ、と言おうとしたが、この他人からどう見られているか、にしか興味の無い女子に言っても無駄に思えたから止めた。どうせ教師を続けるという選択は初めから無く、あの形で自爆すれば、自分の視界に入る人間全てに勝てる勝算があったからあんなことが出来たに違いないのだ。だから唯一彼女に合意出来たことは、今後は裏で先生を呼び捨てで呼ぼうという提案位だった。無敵の人になった先生に安全に抵抗するにはそれが一番だという打算もあった。

 程なくして先生は最期の日を迎えた。視線を落としたままで、先生は私達と視線を極力合わせずに、ポーカーフェイスのニュースキャスターがテンプレの原稿を読むような産休の別れの挨拶をした。教室は水を打ったように静かだった。死刑判決が言い渡された時の法廷の空気はきっとこんなものだろうと、思った。

先生は無言で教室を去った。教室のドアを閉めた後の廊下で、突然、勝ち誇ったように高笑いをした。視線で滅多刺しにされたことに対する最期の抵抗かも知れなかった。

後に、全校生徒と教職員の間で、伝統ある名門校になぜか紛れ込んだ、メンヘラの女教師として、伝説になった先生。もし別の場所で出会えていたら、運命は違っていただろうか。

 

 でもそんなのは考えてもしょうがないから。

あなたが私の敵なのは、覆りようのない事実。

 さよなら。心の底からさようなら。


 何度そう唱えたか知れない。でも何もしないままでは本当にさよなら出来ないに違いなかった。だから本当に永遠にさよならをするために、私は彼女に復讐をすることにした。

 暴力を振るうつもりはさらさらなかった。少年法に頼るなんて子供が世間に甘えているようで心底バカげてるし、第一タイムイズマネーだという意識があった。憎い人間に捧げる自分の時間など、一秒たりともない。そんなことより、もっと安全に復讐出来る手段がある。私達が先生より年下であることを利用したあのやり方を、そっくりそのまま逆にやり返してやればいい。年功序列の言葉が示す通り、どうせ高確率で相手の方が先に死ぬのだから。同時に相手が感じることになる老いの孤独も活用しよう。‥‥‥これほど惨めなやられ方があるだろうか。相手が負けたと感じれば後は私達が手を下さなくても、食肉処理場のベルトコンベアのように、全自動で全てが流れていく。

 残酷だろうか。でもこれは正当防衛なのだから仕方ないだろう。

 私は理詰めでものを考える子供だった。そして、私の人生を私が守らなくてどうする、という意識を常に持っていた。目には目を歯には歯を。でもその危機意識は、それを悟らせる相手がいてこそ生まれるもので、一度生まれたら、それは強迫観念に等しいものになるのだ。


 最も合理的な復讐。この復讐の遂行のためには、二つのことをしなければならなかった。

 一つ目は、一人でも食べていける職に就けるように勉強をすることだ。

私の母も含めて、自分が生きるために結婚をする人は多いようだったから、そうなることは避けたいとまず思った。結婚をしなければ生きていけない状況で結婚することは、結婚相手に弱みを握られるのと同じことだ。もし相手に子供を求められたら、断ったとしてもいずれは作らなければならない状況に追い込まれるだろう。私の母も、人並みの愛情は注いでくれたが、時折、犠牲者の一人らしい素振りを見せたこともあった。悪気は無いのだろう。だが、自分の人生を金で諦めた結果があれなのだとすれば、私は母の二の舞は嫌だった。

私は既に自分が努力を出来る人間だということに気づいていた。その気づきには客観的な裏付けがあり、自衛とも言える自負に包まれていた。

私は、これまでの人生で、試験と名のつくものに落ちたことが無い。時折勉強をサボりはしても、最後は必ず合格圏内に仕上げて、合格を勝ち取ってきた。勉強は嫌いだ。だから嫌なことは先に済ませるやり方で、こなすべき勉強量を分析して計画を立てて、自分に合った手段で、こつこつとこなす形で乗り切ってきた。

この結果には満足している。だが、このしたたかで地道な努力を、今の今まで継続出来たのは、私だけの能力ではない。ただの怠け者の凡人の私がここまで必死になれたのは、それは一重に、あの時の映像のトラウマ効果によるもの。それだけは最高の皮肉だと、今でも思う。

 二つ目は、受け身ではなく自主的に行動することだ。受動的ではなく能動的に生きるということ。大人のあの先生が出来なかったことを子供の私がやることが結果的に復讐になるという理屈だ。自主的に行動するために私がしたことは、他人が書いた文章や発言で目に留まったものに対して、自分がどんな意見を持ったか、そしてそれを自分ならどう伝えるか、をその都度頭の中で考えるということだった。これまでのような、考えるのを止めた途端に霧散してしまう幼稚な思い付きではなく、人に雑談として語れるレベルまで形にするように努めた。私は活字中毒だったから、これは初めはとてもきつかった。  

だが習慣化出来ると、不意に意見を求められた時に、隣のまごつく同級生や上級生とは対照的に、何ともなしに整理された記憶のファイルを手繰る形でそれなりの返答が出来るようになった。周囲の大人達に褒められ、心に余裕が出来たことで、私は人の発言の真意をより深く探れるようになった。やがて大人達が怖がらない程度の精度に返答を調整出来るようになった私は、この地頭が良い優等生のポジションを盤石にすることに取り掛かった。

礼儀正しいが何を考えているか分からない。人並みのユーモアは解するが、無害かと言ったらそうでもなく、仲間内では時にブラックジョークも飛ばし合う。そんな人物像を自分に当てはめ、演じていることさえ忘れそうになるほど演じ切ることに努めた。利用されるだけの優等生は軽蔑していたから、舐めてきたバカな人間には誰に対しても目に物を見せていた。大人しい顔をしているのに腹黒い奴だと思われていたと思う。でもそれゆえに面倒なクラス委員を押し付けられることはもう無くなった。


 私の復讐は、成功したと思う。

 でもその後、何が起きたか。

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