37限目 白紙

「君、その子を車に連れて行ってもらえますか」


 レイラの近くにいた女性のフロント・クラークに貴文はお願いすると、彼女は静かに返事をした。


「よろしく頼みます」


 貴文はため息をついて、医務室の扉から出た。すると事件と時にレイラを支えたフロント・クラークの男性が立っていた。


「大道寺様、こちらです」


 そう言って、彼は貴文を医務室の隣にある従業員控室に招いた。

 部屋の扉を彼が叩き、中からの返事がすると扉を開け、貴文を案内すると、頭を下げて扉を閉めた。


 部屋には椅子に座りうなだれる幸弘と彼に寄り添う両親が座っていた。目の前にレイラの母カレンと兄リョウが座っていた。

 幸弘は貴文が近づくとゆっくりと顔を上げた。その顔は涙で濡れていた。


「そんな……つもりは、なかったです。キスしてみたいとせがまれて……」


 頭を下げる幸弘の背中を左右にいる両親がなぜた。


「仕方ないわ。ゆき君は男の子ですもんね」

「そうだな」


 カレンは眉を下げてその様子を見ていた。リョウも同じように何も言わずにその光景を眺めていた。


 幸弘の父、英明は貴文の方を見た。


「誰でも可愛い女の子に誘われたらノッてしまうのは仕方ないですよね」


 ヘラヘラと笑い息子には非がないと言わんばかりの英明の態度に、貴文は冷た目を見た。


「なぜ、娘が誘ったと決めて話を進めるのでしょうか」

「それは、もちろん息子が言ったからに決まっているじゃないですか。息子は生まれてから一度も嘘をついたことのない人間なのです。それに、こんなに泣いて謝っています。反省しているのですよ」


 英明は横で頭を下げ続けている息子の幸弘に「なぁ」と同意を求めた。幸弘は“ヒクヒク”しながら頷いた。


 次の瞬間。


「―ッ」


 カレンが突然、リョウの前に手を出した。リョウがきれいな顔を極限まで歪ませて幸弘を睨みつけている。それは今にも飛び掛かりそうでな顔であった。カレンは貴文の方を見て首を振った。


「いや、大道寺さんも男ならわかるでしょう」

「娘は中学生になったばかりですよ」

「今の若い子は大人ぽいですよね」


 英明はニヤニヤと下品浮かべると、ガタンと大きな音がした。


 その場にいた全員が音がした方を見た。

 怖い顔したリョウが力いっぱい壁を叩いたのだ。


 その音で、部屋を静まり返った。中村夫婦は目を大きくして青くなり、幸弘はビクリと身体を動かし母、好美の手を握った。彼女は心配そうな顔をして「大丈夫よ。パパが何とかするかね」と彼の手を両手で包んだ。


「貴文さん」


 カレンは壁を殴ったリョウの手を抑えながら、貴文の名前を呼んだ。貴文はため息をついて頷いた。


「中村さん、わかりました」

「そうですか。分かって頂けて嬉しいです。それでは今後ともよろしくお願いします」


 英明が嬉しそうに頭を下げると、好美もニコリとして幸弘と共に頭を下げた。

 貴文は顎を触りながら、彼らを見下げた。


「いえ、今後はありません。彼と娘の婚約は白紙に戻しましょう。そして、治験の話もです」

「え……、ちょ、ちょっと待って下さい」


 英明は慌てて頭を上がると貴文を見上げた。


「息子はこんなに反省しているのですよ。もともとはレイラさんが誘ったせいですよね。息子は親の贔屓目を抜いたとしても整った顔をしています。レイラさんはそれに惹かれたのでしょう」

「娘は未成年です。そんな彼女の誘惑に負けてしまう弱い人間は大道寺家の婿として迎えることはできません」

「しかし、レイラさんは美しいから仕方ないですよ」

「どんな時でも冷静に対応できる人間を求めています。それでは私はこれで失礼しますよ。今後については書類を郵送します」


 その場を立ち去ろうとした貴文のスーツを英明は慌てて引っ張った。貴文は立ち止まり振り返ると迷惑そうに眉を寄せて彼を見た。


「ちょっと待ってください」

「まだ、何かありますか? 娘は未成年と言ったのが聞こえましたか? 被害届を出してもいいのですよ」


 貴文のその言葉に、英明の顔は真っ青になった。


「あ、では。婚約は白紙で構いません。でも、治験を進めさせて下さい」

「貴方には失望しました。信用がない会社に大切な患者を任せることはできません」


 英明はガタガタを震え貴文のスーツを掴む手が緩んだ。すると「フン」と鼻を鳴らして貴文は扉から出た。それをカレンとリョウが追った。

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