巷で噂の……

 出口で混雑するのも嫌なので最後らへんに降りることに。

 しばし、降り行く人が小さくなっていく様を眺めていると不意に視線を感じる。

 もちろん、人の気配を感じるみたいな能力は持ち合わせていないのだが、あまりにもジロジロと見られたら流石に気づく。

 しかし、斜め後ろに陣取られているため、こちらからは姿は一切確認できない。

 振り返っても良いのだが、それはそれで負けた様で嫌だ。

 これで後ろに誰もいなければ、もしくはこちらを見ていなかったら赤っ恥も良いところだ。

 だが、その不安はしなくてよさそうだった。

 人が少なくなり、物音が響く状況の中、足音がゆっくりと近づいてきたからだ。

 音は、すぐそこまで迫ったところで消える。


(いる……。確実にそこにいる……)


 右斜め後ろへと攻め入ってきた人物をどうしたものかと悩んでいると、


「降りないの?」

「はい?」


 いきなり話しかけられ、思わず振り向いてしまう。

 一瞬、息をするのを忘れた。

 女の子の声だと脳が認識する前に、彼女を視界に捉えてしまったからだ。

 初めに思ったのはこんな綺麗な人がいるんだな、との間抜けな感想。

 陶器の様な白く、輝かしい肌に、吸い込まれそうなほど澄んだサファイアブルーの瞳、黒く染められた髪は太陽の日差しを受け、陰と陽のコントラストを完成させていた。

 年の頃は同じぐらいだろう。

 脳がフリーズし、体が硬直してしまう。


「……降りないの?」


 再度、彼女が問いかけてきた。

 何とか返答しようとしたところで、肺が空気を求めて息を吸う。


(落ち着け! 落ち着け……!)


 心臓へと左手をやり、頭の中でひたすらに念じる。

 綺麗な人の前で無様な姿はさらしたくないとの男のプライドが働いた。


(誰だ、不躾な人とか言った奴は。彼女は降りようとしない俺を心配してくれる女神ではないか。まったく、酷い人もいたものだ)


 などと訳の分からないやり取りを内でしつつ、改めて彼女へと視線を向ける。

 緩みそうになる口元を必死に引き締める。

 頬が赤みががっている気がするが、きっと夏の日差しのせいだろう。

 冷静になって考えると、明らかに不自然な振る舞いだったと思うが、彼女は何も言わずにジッと待っていた。


(おーけーおーけー。彼女は俺を心配して、降りないのかと聞いてくれたわけだ)


 とすれば返答はおのずと決まる。


「人が少なくなったら……そろそろ良い感じですね。少なくなったら降りようと思っていたんです」

「そう」


 できうる限りの爽やかな笑みを浮かべてみたものの、彼女の反応は薄いものだった。

 それでも何だか嬉しかったから不思議だ。


「し、心配してくれてありがとうございます」


 ああ、くそ。どもってしまった。

 声も裏返りかけたし、カッコ悪い。


「気にしないで」


 しかし、相も変わらず彼女の反応は淡々としたものだった。

 声に抑揚もあまりなく、巷で噂のクールビューティなのだろう。


「お客様」

「は、はい!」


 もう少し話していたかったが、気づけば他の人は降りていたので乗務員さんに促される。

 と言うか、彼女も乗客なのだから一緒に行くことになるかと視線を戻すと、


「あれ?」


 そこには誰もいなかった。

 眼をそらしていた時間なんて一分どころか三十秒にも満たない。

 開けた空間なため、とっさに隠れる場所などあるはずもなく、ただただ呆然とする。


「お客様」

「い、今、行きます……」


 だが、呆けている暇はない。

 再度乗務員さんに促され、後ろ髪ひかれながらもフェリーを後にするのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る