第10話 ふくら液

 最低限の食事、人間らしい暮らしを。そんなスローガンと共にアイシャが詰め寄ってきた。先日の貧困勝負で大敗を喫したことが、よほど効いたらしい。


 彼女は1日に2つの黒パン、つまりは1人前の食料を求めている。最安価の品物だ。しかしそれを実行したならば、いつの日か破産しかねない懐具合だ。だから工夫するしかなかった。


「師匠。約束は守ってくれるんですか?」


 いつになく真剣な顔でアイシャが言う。晩餐の光景というよりは、労使交渉でもやってるかのようだ。


「もちろんだよホラ。ちゃんとパンを用意したぞ」


「1つだけですね。師匠は食べないんですか?」


「まさか。ここからひと手間加えるんだよ」


 胸元から薬瓶を取り出し、液剤を1滴だけパンに垂らした。するとどうだろう。拳大のパンが一気に顔を覆い隠せるまでに膨らんだではないか。


「ええ!? 何ですかそれ!」


「どうよ。これは有機物を2倍3倍にまで巨大化させる薬で、その名も『ふくら液』だ!」


「凄い凄い! ネーミングはともかく画期的じゃないですか!」


「うるせぇよ、ほら半分こ。それでも元の1個よりスゲェ大きいぞ」


「うわぁ、いただきます!」


 アイシャは歯をむき出しにしてかぶり付いた。だが何度か噛みしめると、すぐに顔が曇りだす。


「味がしない……ていうか、スッカスカですね」


「そりゃお前、質量は変わらねぇんだから。密度も薄くなるだろうが」


「こんなのヒドイ、詐欺じゃないですか……」


「嘘はついてないぞ。ちゃんと1人前のパンは用意したんだからな」


「お父様ごめんなさい。アイシャは悪い男に騙されてしまいました」


「人聞きの悪い事を言うんじゃない」


 それきり口数の減ったアイシャは、珍しくも早々と寝てしまった。おかげで書見の時間を長く取れたのだが、意外にも集中ができず、オレも少し早めに就寝した。


 そうして迎えた翌朝。挨拶がわりにアイシャはとんでもない事を口走った。


「師匠、昨晩の薬ですけど、お金にかけたら大儲けできるんじゃ?」


「一晩寝て飛び出した案がそれか。貨幣偽造は重罪だぞ」


「でもでも、こっそりやれば」


「昨日も言ったが、有機物にしか効果のない薬だ。無機物にかけても濡れるだけだぞ」


「ゆーきぶつ?」


「人や動植物、食べ物とか、その辺のくくりだ」


「そうなんですか。残念……」


 アイシャがこれ見よがしに肩を落とした。だが、俯いた顔がすぐに持ち上がる。今度は好奇心を宿した、割と好ましい目つきになっていた。


「人に使ったらどうなるんです?」


「良い質問だな。理論上はパンと同じ事が起きるはずだ。だが、実際に試してみたら違う結果になるかもしれない」


「結論は出てないって事ですか?」


「まさか人体実験をやる訳にもいかんだろ。仮に試す機会があったとしても、リスクに見合うだけの成果なんか出ないと思う」


「そうですか。気になるなぁ」


「さぁさぁ、気持ちを切り替えろ。今日はみっちり畑仕事するからな」


「うへぇ面倒臭い」


 こうして、この日は割と平穏に過ぎていった。ふくら液で巨大化させたパンを頬張ったのも昨日と一緒。あとはグッスリと眠り、翌日の仕事に備えるだけだったのだが、ここで珍妙な事件が起きた。


「アイシャ、起きろ」


「うぇへへ。ダメですよ師匠、そこは別の用途に使うやつ……」


「起きろっつうの」


「ふぇ!? 何ですか!」


 上半身を縄で縛られたアイシャが目を覚ました。その姿を、同じく縄で縛られたオレが見つめている。特殊性癖に目覚めた訳じゃない。深夜に乱入してきた集団の仕業だった。


「ぐへへ。ようやく起きたかい、子猫ちゃんよぉ」


 小汚ない男が顔を歪ませた。取り巻きたちも、それに合わせて低い笑い声をあげる。連中はテーブルの上を土足のままで座っていた。一応は高級家具なのだが、それを見抜く眼力は持っていないらしい。


「お前らは何者だ。顔見知りじゃないよな」


 コイツらをどう処分するかは返答次第で決めよう。万が一知り合いだとしたら、多少の手心を加える気持ちはある。


「オレたちゃ巷で有名な強盗団よ。テメェみてぇな辛気臭い男なんか知るか」


「げっへっへ。押し入った屋敷は数知れず。盗んで燃やして、国中を連日のように暴れまわってんだぜ」


 よし殺そう。まばたきの間に処してしまおう。


 そう思ったのだが、アイシャが意味深な目配せを送ってきた。満面の笑みで、瞳をかつてない程に輝かせながらだ。


 これはきっと、例の薬を使えという合図だろう。面倒な話だ。だがここで意見を取り入れてやらないと、延々と文句を垂れるなど、もっと面倒になる事を知っている。


(簡単には作れない薬なのに……)


 ふくら液は作るのが手間で、できれば無駄遣いしたくはなかった。だから実験するのであれば、確実にヒットさせたい。チャンス到来の瞬間まで座して待つ事に決めた。


「親分、コイツら妙にニヤニヤしてますぜ」


「恐怖で狂ったのよ。オレ様のような豪傑に睨まれりゃ、龍だって涙目になるわ」


「さっすが親分。一生ついていきやす!」


 相手を拘束しておいて何が豪傑だ。つい罵りたくなるが、目的の為にもここは我慢。


「しっかしシケた屋敷だなぁ。立派なのは外面だけで、中には銅貨の1枚もねぇときてる。これなら貧民窟の方がまだマシってもんだぞ」


「悪かったな。最底辺の暮らしで」


「まぁ、金目の物は無くともイイ女が居たがな」


「ぐへへ、今日は朝まで揉み会だぜぇ」


 汚れた視線がアイシャに飛ぶ。この劣情は利用できそうだ。オレがそれとなく目配せを送ると、アイシャは正しく理解してくれた。怯える素振りを見せながらも、着実に薬品棚へと這いずったのだから。


「やだケダモノ! 来ないで!」


 アイシャはそれらしい悲鳴をあげた。こんな声も出せるのかと、思わず二度見してしまう。


「うひぃぃたまんねぇ! やっぱり女はこうじゃなくっちゃ!」


「もう我慢できねぇいただきます!」


「バカ野郎。親分のオレ様が一番だ!」


 3人ともが我先にとアイシャに迫ろうとした。絶妙な位置関係と見るなり、オレは虚空に蹴りを放った。そうして生まれた風圧は綺麗にお目当の薬瓶に当たり、それだけが落下した。アイシャもつま先だけで跳躍し、大きく距離を取る。その結果、連中だけが薬品を被る事になった。


「うげっ。何だこれ?」


「な、なぁ。お前の体、おかしいぞ」


「そういうお前も……」


 薬が人体に与える影響は割と想定内だった。全身が大きく膨らみ、体積は数倍にまでなっている。だが体全体が浮き上がって天井に張り付くとまでは、さすがのオレも予想出来ていなかった。


「うわぁすっごい。こんな感じになるんですね」


 アイシャが縄を千切りながら言った。オレも爪の先を使い縄を切って、自由を取り戻した。


「思ってたより危ない薬だな。今後は使用を控える事にしよう」


「えぇーー。そんじゃあ食事はどうなるんです?」


「それなら心配するな。当面は飯代に困らないぞ」


 オレはアゴをしゃくって、呻きながら天井をさまよう男達に向けた。


「こいつらを警備隊に突き出してやるんだよ。懸賞金か礼金あたり貰えるんじゃないか?」


「なるほど! さすがは師匠、一生ついていきます!」


「そのセリフは……。まぁいいや。効果が切れる前に片付けるぞ」


「了解です、サー!」


 こうしてオレ達は闇夜をいとわず、都の方へと歩き出した。ちなみに連行は簡単なもので、連中の足に縄を縛るだけで十分だった。風に飛ばされないようにさえ気をつければ良く、何より逃走の心配が要らなかった。


 意気揚々と警備隊に突き出してみたものの、結果は期待ハズレだった。何でも『国中を荒らしまわった』というのは大嘘で、今夜が初犯だったらしい。他に重ねた罪と言えば食い逃げくらい。とても懸賞金のつくような大悪党ではなかったのだ。


 しかし一応は協力に感謝されて、礼金も300ディナほど支払われた。酷い肩すかしを食らった気分だが、アイシャの機嫌はすこぶる良く、それだけが救いだと思った。


 コイツが機嫌を損ねると長いからな。

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