保護者の兄とツンデレ妹

イノウエ マサズミ

第1話 突然の転勤

「えっ?転勤?」


 平成元年、7月末、父からの突然の言葉に俺が驚いたのも、ある意味当然だろう。

 俺は横浜に住む大学2年生の伊藤正樹。今通っている大学は滑り止めで受けた私立大学で、いまだに第一志望だった国立大にちょっと未練が残っている。

 だが、家計を気にして浪人は出来ないと思い、やむを得ず通うことにしたのと、私立に入った分、家計のためにとバイトも掛け持ちしているので、なかなか授業にも身が入らなかった。唯一、サークル活動だけが心の拠り所だった。


 家計を気にする理由には、3歳下の妹の存在があった。

 伊藤由美、高校2年生だ。

 これから部活にも勉強にもお金が掛かる時期だ。


 妹は部活も水泳部に入っているから、普段の部活にもお金が掛かるし、遠征の度に旅費も掛かる。

 更に来年、大学を受験するとなれば、受験料等が掛かってくる。俺が第一志望校に落ちたからと言って、浪人する余裕は元々無かったのだ。


 そんなタイミングでの、父親への転勤命令だ。横浜から、父親の故郷でもある石川県の金沢市へ戻る辞令らしい。


「ああ、俺も突然の辞令でビックリしてるよ」


「いつ転勤なの?」


「今年の10月頭から金沢支社勤務だ」


「えーっ、そんなに間がないじゃん」


 今は平成元年の夏、7月末である。あと3ヶ月もない。とりあえず荷造りとかは業者さんに頼むとして、まずは衣食住の「住」の確保だ。


「俺は大学の転校とかは流石に無理だから、横浜に残って大学に通うことになるよね。大学に近い所で安いアパート探さなきゃ…。でも由美はどうするの?」


「それなんだよ…。父さんと母さんの悩みなんだ」


「まあ、2つに1つだよね。今のS高校に通い続けるか、金沢の高校に編入試験受けて父さん達と一緒に引っ越すか」


「由美も急にそんな話されても驚くだろうから、タイミングを見てお母さんから話してもらうよ」


 由美は俺と違って運動神経も良いので、今夏のインターハイにも、2年生ながらあと一歩で出場できたという、関東地区の予選まで勝ち進んでいた。

 そのインターハイ予選後に、3年生が引退し、由美は水泳部の女子主将キャプテンに選ばれたばかりというタイミングだった。

 そんな時に3ヶ月後に金沢の高校の編入試験を受けろと言って、由美は果たしてどんな気持ちになるだろうか?


 俺なら、編入は断り、なんとかして今の高校に通い続けたい…と思うだろう。

 だが由美は女の子だ。一人暮らしをするには、まだ早い。かといって今の高校は県立だから、寮などはない。


 金沢という、今までたまにしか行ったことがない地へ編入試験を受けて転校する選択をするだろうか。

 やっと今の高校で水泳の才能が開花しようとしているのだ。

 高2の女子にさあどうする?と選択させるのは、あまりに酷だ…。


「たっだいま〜」


 俺と父が苦渋に満ちた顔で話をしていた所へ、妹の由美が元気に帰ってきた。


「おう、お帰り〜。早かったじゃん」


 俺は今までの会話を悟られないよう、声を掛けた。


「うん、しばらくは新人戦に向けて、1年生を教えていかなきゃって時期だからね。それほどハードな日々ではないよ」


 と由美は、テーブルの上にあるお菓子を摘みながら言った。


「お母さーん、洗濯お願いね〜」


「あ、母さんは今、買い物に行ってるから」


「そうなんだ。ねぇお兄ちゃん、汗だくだから先にシャワー浴びてもいい?」


「風呂は湧いてないけど」


「とりあえずシャワーだけだから、別にいいよ」


 由美はこれくらいの年頃の女子にありがちな、ちょっと父親を避けがちな時期で、会話の相手は殆ど俺か母親だった。

 この俺と由美の会話も、父はずっと黙って横で聞いていた。


「じゃ、シャワー使うね〜。お兄ちゃん、覗かないでよ!」


 着替えを持ったままそう言って、由美はバスルームへ向かった。


「お前の裸なんて小さな頃に見飽きとるわ!」


「何よ!アタシの大人になった魅力に悩殺されても知らないわよ!」


 とは言ったが、確実に成長している妹の体に、兄と言うことを忘れてしまう時が、ゼロ…というわけではなかった。


(きっと高校でもモテてるんだろうなぁ)


 明るく快活で、髪の毛は泳ぐ時にイチイチ結ぶのが邪魔だからと刈り上げに近いほどのショートカット。身長も水泳のお陰か女子にしては高い方で、いわゆるボーイッシュな女の子。

 男子からはもちろんのこと、女子の後輩からもモテたりするのではないかと、兄として気が落ち着かない。


 由美とそんなやり取りをした後、父は言った。


「なんか、由美は水泳部の活動が充実してるな…。金沢へ行くなんて言ったら、嫌がるだろうな」


「俺もそう思う。だけど、編入試験が、今の所一番の方法でしょ。ってか、それしかないよね」


「お前を一人暮らしさせるだけでも大変だからな…。お前もバイト、頑張ってくれよ」


「ああ、分かってるよ」


 そこへ母が買い物から帰ってきた。


「ただいま。暑かったわ〜。由美は帰ってきたの?」


 母は買ってきた物をテーブルの上に置きながら、俺に聞いてきた。


「うん。今、シャワー浴びてる」


「そうなのね。正樹はお父さんから聞いた?転勤の話を…」


「うん。転勤だし命令なんでしょ?だから俺は仕方ないと思うよ。でも大学だと転校なんか出来ないし、逆に俺が横浜に残るように、一人暮らしするしかないよね?」


「そうなのよね。正樹はそれしかないけど、由美はどうしよう。由美にはお父さんの転勤、言った?」


「まだだよ」


「由美には、俺やお父さんより、お母さんから言ってもらった方が…」


「やっぱりそうかしら」


「思春期だからね。微妙な話だから、女同士の方がいいんじゃない」


 由美もシャワーだけだから、すぐ上がるだろう。早速浴室の方から、衣服を着る音が聞こえてきて、バタバタと由美がリビングに戻ってきた。


「あ、お母さん、お帰り〜。洗濯物、頼むね。全部洗濯機に放り込んじゃったけど」


 裕子はタオルで髪の毛を拭きながら、Tシャツと短パンという格好で浴室から出て来た。


「はいはい。ね、由美、ちょっと大切な話があるんだけど…座ってくれる?」


「え?大切な話って、何?えっ、家族3人揃ってアタシを見つめて、なんか怖いな…」


 話は母が始めたが、俺と父もテーブルに着いたまま由美を見ていたからだ。

 そして母は父の転勤と、由美は10月以降どうしたいかを、簡潔に話した。


「ふーん…。えらい急な話なんだね」


「お父さんの会社の都合もあるんだろうね」


 母は由美に人生の選択を迫って、申し訳ないような表情をしていたが…


「でもアタシの答えはすぐ出るよ」


「えっ?」


 俺と両親は同時に声を上げた。


「アタシは、お兄ちゃんと一緒のアパートに住む!で、転校はしない。だって!S高女子水泳部の主将になったばかりなんだよ、アタシ。今更誰も知らない土地へ引っ越して、これまで頑張って積み上げてきた努力をゼロからもう一回だなんて、悲しすぎるもん」


 由美は他の家族3人の誰もが思っていなかった答えを出した。


「お兄ちゃんは大学がある、お父さんとお母さんはお父さんの転勤があるって、そう言うけど、アタシだって高校生活があるんだよ。お兄ちゃんは大学生だから転校なんか出来ないし、アパート探すんでしょ?アタシもお兄ちゃんが探したアパートに一緒に住む!」


 えっ?俺はしばし呆然とした。父と母も二の句が出て来なかった。


「いや、金沢の高校の編入試験を受けて、お父さん、お母さんと一緒に引っ越すっていう考えはないか?」


 流石に予想だにしない由美の返答に、父が珍しく由美に対して話しかけた。


「絶対に嫌!あ、勘違いしないでね、お父さんやお母さんについて行くのが嫌なんじゃないから。アタシの水泳人生をリセットしなきゃいけなくなるのが嫌なだけだからね。だからちょっと長い休みがあれば、金沢のお父さん、お母さんの所にも遊びに行くから。お兄ちゃんと」


 由美の意思は固そうだ。すぐ悩む間もなく自分自身の考えを言った所に、由美の成長を感じた。

 俺は3歳年上なのに、3年前にこういう事態が起きたら、由美のようにシッカリとした意見を、両親に対してもの申せただろうか。


「由美、その気持ちは絶対に変わらない?」


 母が確認した。


「うん、変わらない。絶対に変わらないよ。君は1000%~♪ってくらい、変わらない。あっ、アタシが勝手にこう言ってるけど、お兄ちゃんとしてはどう?妹と2人暮らしって。もしかしたら照れる?ねぇねぇ」


と言って由美は、俺のTシャツの袖を引っ張った。


「俺?い、いや…。まあ、俺も全くの一人暮らしよりは、由美がいてくれたら助かる時もあるだろうから…。別に良いけど、アパート探しとか、どうすりゃいいのかな…?」


「じゃあ、一緒に住むのはOKでいいんだよね?あ、若い男と女が1つ同じ屋根の下で暮らすんだから、ワンルームマンションはNGよ。それ以外のアタシの条件は、そうね…。お兄ちゃんに任せるけど、二部屋あって、トイレ、お風呂付きなら多少古くてもOK。これでよろしく」


 それだけ言うと、由美は自分の部屋へと戻った。


 俺は父と母の顔を交互に見た。


「由美はあっという間に答えを出したなぁ、迷うこともなく。天晴れなくらいだ」


 と父が言う。


「あの子にとって水泳は欠かせないものだしね。確かに金沢の高校へ編入したら、横浜での実績なんて考慮してもらえないだろうし、高校2年生の10月から途中入部ってのも、由美には受け入れられないんじゃないかしら」


 母がそう続けた。


「じゃあ、俺が由美と二人暮らし…ってことでいいの?父さん、母さん…」


 2人とも仕方なさそうに頷いた。結論として由美の意思を尊重することにしようと、両親と俺は確認しあった。


(じゃあ、早速アパート探ししなくちゃな…)


【次回へ続く】

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