掌編小説・『最後の授業~how to relax~』
夢美瑠瑠
掌編小説・『最後の授業~how to relax~』
掌編小説・『リラックス』
「人間の精神や行動はこの自律神経系と密接な関係があって、非常にアグレッシヴな行動を励起するべき場面では、交感神経系が興奮します。そうすると血圧が上がって、アドレナリンが分泌されて、血の流れも速くなって、つまり「戦闘状態」になるのです。脳に血液が集まって、全身が「敵」にいつでも攻撃を仕掛けられる、そういうモードになるわけです。
人間存在には潜在的にこうした二元論があって、例えば男性と女性、エロスとタナトス、愛と戦い、サドとマゾ、ポジティヴとネガティヴ、光と闇、快と苦、その他無数に二項対立する概念はありまして、交感神経系と副交感神経系というのもその一つです。こうしたことは基本的に拮抗していて、善悪というよりは循環的に世界に布置していて、相互的にバランスのいい力動を形成して、生き生きとした生の文脈と様相を形作っていくということになります。」
臨床心理学の権威である御此木圭吾氏は年に一度の東京大学への出張講義を行っていた。テーマは「リラックス」。彼の長年の研鑽ぶりが存分に発揮される、晴れの舞台だった。
「“リラックス”するということは結局この自律神経系のバランスの問題に還元されるわけで、入浴して、しばらく筋肉やらが弛緩していくと副交感神経が優位なってリラックス状態になります。
この時脳波はアルファ波という緩やかな波になります。テレビをしばらく見ていてもこのアルファ波になり、眠くなったりします。
こうして皆の前で講義をしていたりすると交感神経優位になって血圧が上がるのであんまり健康にはよろしくない状態なのですが(聴衆の笑い)パフォーマンスをあげたり、生活にメリハリをつけたりする上では、アドレナリンが出るような状況も不可欠です。
「アドレナリン症候群」というような言葉もありますが、こうした特別な昂奮状態というものにも日常を異化して気分を刷新する効能があります。
バランスよく交感神経と副交感神経を興奮させる生活が理想的で、どちらかに偏りすぎるとやはり病気になります。
適当にストレスも必要で、午前中は一生懸命働いて、午後から夜にかけてはリラックスして十分に睡眠をとる、こうしたリズミカルなサイクルを日々実行していくのが
健康の秘訣です。
あまりに精神的に不安定になって、自律神経系の機能が失調しそうになると、様々なセラピーのテクニックやら、薬物療法が必要になってくるわけですが、代表的なのはドイツのシュルツという人が開発した自律訓練法があります。
これはヨーガを応用した技法で、まず楽な姿勢になって、「腕が重ーい」という言葉を心の中で唱えて・・・」
こうして、臨床心理学の権威、精神医学界の泰斗の講義は淡々と続き、一糸も乱れぬその語り口は優秀な学生たちに深い印象を残し、やがて万雷の拍手とともに幕を引いた。
御此木氏は終始冷静沈着で、快活ですらあった。
それは完成した近代的理性人というものを体現していた・・・
碩学は、控室に帰った。
お茶を一口飲んだ後、彼は、こらえきれず「玉子~~~」と泣き伏した。
玉子というのは彼の妻の名前だった。妻は三日前に長年患っていた心臓の病が悪化して、急逝していたのだ。
三日三晩泣き暮らして、自殺をも考えた。
しかし、この東京大学での講義があった。
彼は生涯に学んだ精神の安定を保つテクニックを総動員して、平静を保つための心理学的な技術をフル活用して、やっとこの大変な仕事をやりおおせたのだった。
「もう思い残すことはない。お前の所に行くよ」
そう言って、彼は青酸カリを呷った。
<終>
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