中秋の名月に添えて/前編

――東山道武蔵路 国分寺辺り――


武蔵野も最近では人々の往来が増え、随分と賑やかになってまいりました。


ええ、武蔵野村は昭和三年に武蔵野町となり、この頃から大小様々な会社が集まりはじめ、昭和五年には大手電機製作所などもこの地に移り活気を呈して。その翌年、満州事変を皮切りに日本が戦争へと向かって行く中で、武器をつくる産業が盛んになりましてね。武蔵野にも広い土地がたくさんございましょ、いつの間にやら工場地帯になってしまって……

今に、本土でのいくさになるのでしょうか。

それだけが気がかりでなりませぬ。


ふふっ、そうでございますね。

賑やかになって来たと言えども、この辺りだけは昔と変わらず自然が豊かでございます。

原生の自然を残すこの土地は、武蔵国むさしのくにと呼ばれた時代より日本屈指の「月の名所」と言われております。

まことに、良き土地でございます。


日本では春は花、秋は月を愛で、季節を楽しんでまいりました。十五夜のお月見は平安時代に中国から伝わり、江戸時代より、中秋の名月を鑑賞する伝統的な行事となりました。澄み渡る秋の夜空を昇る月に、人々は収穫の感謝を込めて祈り、来年の豊作を願いました。

わたくしどもにとりましても、まさに……そう、正にこの日は、ねんに一度の収穫を祝う夜なのでございます。

今宵の名月は、黄金色こがねいろに輝く望月は、我が一族には赤く見えるのです。

薔薇の鮮烈な光沢の中に、暗くみだりがましい黄赤を混ぜ込むような、或いは、洋灯にかざした婀娜あだっぽい赭褐色の封蝋ふうろうにも似た、おぞましい血の色に染まるのです。

狼煙のろしのごときその淫靡な赤が、一夜限りの狩猟の合図なのでございます。


そろそろ日が落ちてまいりました。あなた様はお帰りになったほうが良い。

間も無く、年に一度の名月がいず時分じぶんには、わたくしは、今の姿をとどめておくことが出来ないのです。この意識も半分は、闇の彼方に飛んで行ってしまうのです。……こんな話をするのは、あなた様を只々お慕いしていればこそ。毛むくじゃらの醜悪な姿を、あなた様の前に晒しとうはございません。


さあ、行きやりょれ。


えっ、なぜ行かぬ、恥を忍んで申したものを。


さあ行かぬか……、早よう!


何を、んっ……覚悟がおありか?



そうなのですか。

何もかも、お見通しだったのでごさいますね。わたくしが、大口真神おおぐちのまがみ(※1)より血を分けた、人を喰らう人狼なのだということを。

神の道より外れた魔狼だと……


えっ、帝国陸軍の……密偵……

戸山町……陸軍軍医学校防疫部、防疫研究室。(※2)


生体……実験……?

わたくしに近付いたのは、そういうことだったのですか。


生物兵器……

はなからそれが目的で。


では、わたくしをとらえるか?

或いは、退治なさるか……


密命なのでこざいましょ。





……それは……いけませぬ。

そんなことをしてしまったら、もう二度と、今の世界には戻れないのですよ。


いいえ、……駄目です。

獣と化したわたくしが、あなた様の心情を、果たして覚えていられるかわかりかねまする。

血肉だけを喰らうやも知れません。


えっ、それでも良いと仰るか。そんなお方は、初めてでございます。

覚悟を決めて参られたのですね。


それほどまでに、わたくしのことを……


あぁ、この鬼歯が顎の先まで伸び、その鋭いきっさきで、あなた様の喉元を貫く。どくどくと絶え間なく脈打つ大動脈の鮮血をすすり、あお白く輝く頸静脈に、我が一族の証たる聖血を注ぎ込む。

それは、わたくしにのみ与えられたいにしえよりのことわり、存続の本能。


仲間になると……その身を犠牲にしてまでも、来世を一緒に歩んで行きたいと……

軍部の手から、わたくしを守りたいが為に。


愛しているからと……倫理も道徳も、全てをかなぐり捨て、暗黒の中で、究極の愛に生きると……


わたくしと共に、永遠に。



人狼族の姫として、身を潜めながらの千と五百年。あぁ、生きた甲斐がございまする。

わたくしは、これ程まで愛し、愛されたのはあなた様が初めて。

嬉しゅうございます。




そろそろ、時がまいります。


どうか、あちらを向いていてくださいまし。

変わり果てる刹那の、あの醜い姿だけは、あなた様には見せられませぬ。


後生ですから、どうか……


ぐあぁぁぁぁ………………


ど……、どうか……


ぐあっ……ぁぁぁあっ……



あちらを……

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