逢魔が時、椿ノ峰高校であいましょう

浜中なちか

或る夏休みの話

 なめらかな曲線を描く尻尾が誘うように揺れて、海風に晒される壁の向こうに消えた。

 俺――若月晃汰がその猫を見かけたのは夏休みが始まって間もなく、人気のない校舎裏でのことだった。

 人で溢れているときならば、どこにいても賑やかな気配に満ちている学校も、夏休みとなれば静かなものだ。熱心な運動部の声なんかは坂の上まで届くが、普段の騒がしさに比べたら可愛いものだろう。

 あの長くて体力を削られる坂さえ登ってしまえば、ここは避難するのに実にうってつけの場所だった。

 そう、避難。

 両親の間で諍いが多くなったのは、高校に入学してしばらくしてからのこと。だましだまし繋いできた家で夏休みの大部分を過ごすのはごめんだが、毎日のように誰かを誘って出かけられるような性格でもない。目的もなく繁華街をぶらつくのも避けたい。そうして行き着いたのは学校だった。

「あっちぃ……」

 あごを伝った汗を乱暴に拭ってから、俺は尻尾が消えた校舎裏へと足を向けた。図書室の涼しさも恋しいが、今は猫の後ろ姿の方が気になる。連日図書室に直行というのも気まずいものがあるし。

 派手に追いかけて猫に逃げられてはいやなので、あくまでも気まぐれを装って尻尾の消えた校舎裏へ向かう。さっき見た尻尾は茶色っぽい縞模様だったからキジトラだろうか。ちょっと撫でさせてくれたりすると大変嬉しいんだが。

 期待を込めて薄汚れた壁を回り込めば、そこにはもう猫の姿はなかった。

「……まあ、こうなるわな」

 追いかけるかどうか迷ったわずかの間にどこかへ行ってしまったらしい。未練がましく周囲を見回してみたが、生い茂る木の葉が潮風にさざめくばかりで猫の気配はどこにも感じられない。

 はあ、と息を吐いて校舎の壁に寄りかかる。日陰の多い校舎裏はうだるような暑さも少しは鳴りを潜めていて、延々坂を登ってきた身にはけっこうありがたかった。少しここで休んでから図書室に行けばいいか。

 何気なく見上げれば、重なり合う葉の隙間から夏の空が見えた。海の上には入道雲が浮かび、絶え間なく蝉は鳴き続ける。日差しは痛いほど真っ直ぐに降り注いで、吸い込む空気はどこか青臭い湿った匂いがした。

 たいして親しくもない同級生たちは、今ごろ夏休みを満喫しているんだろうか。暑い中あれこれ理由をつけて外で騒ぐような性分ではないから、いいのだけど。

 俺の予定としては、普段はクーラーの効いた快適な自室でだらだらとスマホかゲーム機でもいじりながら過ごして、外に出るのはごくたまに誘われたときだけ、というくらいだったのに。

 溜息とともに母親の陰鬱とした横顔を思い出して、一層気分が落ち込んだ。

 暑い外にいるから、憂鬱なことばかり考えるんだ。もう猫は戻ってこなさそうだし、いくら日陰でも暑いものは暑い。さっさと涼しい図書室に引き籠もろう。

 重たい動きで壁から背を離したとき、ざくざくと雑草の生えた地面を踏みしめる音が聞こえてきた。猫ではない、人間の足音だ。

 音は気まぐれにふらつきながらも、俺のいる校舎裏を目指して近づいてくる。

 いったい誰が何のためにこんなところに。完全に自分を棚に上げて俺は眉をひそめた。

 今からこの場を離れようとしても、遭遇せずにいることは難しいだろう。あとは音の方に自分から向かって行き、なんでもない顔をしてすれ違うか。

 そんなことを考えているうちに、足音はもう壁のすぐ向こうに辿り着いていた。

 俺が行動を起こす間もなく、白のシャツと濃緑のスラックスが壁から姿を見せる。首からゆるく下がるネクタイは俺と同じ藍色だった。

「うわっ、びっくりした……何してんの、君」

 現れた男が目を見開いて足を止める。

 全体的に色素の薄い男だった。髪は染めているのか明るい茶色で、夏だというのに肌の色も白い。

 きょとんと俺を見る顔には愛嬌があって、いわゆるイケメンの部類に入るだろう。見開いてもなお細く、まなじりがつり上がった目をチャームポイントと取るかで評価は変わりそうだが。なんにせよ平凡極まりない顔の俺からしてみれば羨ましいことだ。

「あー……、猫を追いかけたらここで見失って」

 何をしに来たかはわからないが、少なくとも人がいないところを目指してここまで来たのだろう。ずいぶんと驚かせてしまったようだし、罪悪感によく似た気まずさを感じながら視線をそらす。

 猫、とオウム返しにしたそいつは、周囲の茂みを見渡してからまた俺を見た。にんまりと笑うその顔になんとなく不安を煽られた気がして、わずかに眉を動かす。

「つまり、暇してる?」

「……まあ」

 こんなところでぼんやり突っ立っていて忙しいとは、とてもじゃないが言えないだろう。というか実際、暇を持て余しまくっていたわけだし。

「それならさ、俺と七不思議、作らねえ?」

「は?」

 名案だとばかりに胸を張る謎の同級生に、俺はまともな言葉を返すことができなかった。意味がわからない。

 怪訝な顔で睨んでも、男の表情は揺るがなかった。弧を描く口元に、含みのある目元。ただ純粋な笑みではなく、ろくでもないことを企んでいそうな、そんな。

「俺は三輪。お前も同じ一年だよな?」

「あ、ああ……」

 三輪と名乗った同級生の視線につられて、俺の意識が自らのネクタイへ向かう。その一瞬の隙をつくように、三輪が腕を掴んだ。

 てっきり汗ばんでいると思ったその手は、どこかで涼んでいたのか――ひんやりとした控えめな体温を伝えていた。



 結局その日は「学校の怪談といったら音楽室だよな!」とか「十三階段ってなんか屋上の階段ってイメージあるよなー」とか言う三輪に引きずられて学校中を歩き回る羽目になった。

 まあ、暇していたから別にそれは構わないんだが。それはそうと発想が小学校の七不思議すぎないか。いやだから別に、俺は、構わないんだが。

「よ、昨日ぶり」

 あれから数日。

 学校に行くたびに、三輪が現れては七不思議作りに付き合わされていた。坂を登り切った辺りで待ち伏せていたこともあったし、図書室に入ろうとしたところで掴まったこともある。

 今日は図書室に向かうため一号館に足を踏み入れたところで、これだ。三輪は何をしていたのか階段に腰掛けていて、俺と目が合うと片手を上げて、ニヤニヤと笑いながら立ち上がる。もう片方の手にぶら下がったコンビニの袋がガサガサと音を立てた。

 黙っていればイケメンの部類に入るだろうに、こうして笑うと顔の狐っぽさが強調されて台無しだ。

「……今日はどんなのを仕入れてきたんだ?」

 ここ数日ですっかり諦めてしまった俺は、自分から三輪にそう水を向ける。初日の最後に小学生かよと突っ込んだのが効いたのか、次の日から三輪はネットで見かけた怪談を元に俺を連れ回すようになった。

「今日はこれ。調理室の冷蔵庫で食料が消えて、後日動物の死骸が入ってるって話」

「うげ」

 差し出された画面にはシンプルなデザインのブログのようなものが表示されていて、そう長くもない文章とどこかの調理室と思われる写真が載せられていた。そんなことがあったら普通に警察沙汰だろうし、その冷蔵庫は処分して欲しい。衛生的な意味で。

「というわけで、調理室に行くぞー」

「やめろ、引っ張るな」

 三輪のひんやりとした手が、毎度のように俺の腕を掴んで二号館の方へ引っ張る。別に無理矢理連れ出そうとしなくても、三輪に会ったら一緒に行動してやるつもりではあるんだけどな。暇だし。

「つーか、調理室も鍵かかってるだろ」

 ここ数日の怪談巡りで、一番の強敵がこの鍵問題だった。当たり前だが今は夏休み中で、校内には生徒はいない。部活動で登校している連中もいるにはいるだろうがその大半は運動部、つまり坂の下だ。特別教室を使う人間なんてそういない。

 つまり使われない教室には、鍵がかけられるわけで。

「これなーんだ?」

「は……?」

 前を歩く三輪が、ごそごそとポケットから取り出したのは、一本の鍵。タグのつけられた、どこにでもあるような。

「いや、お前それ……」

「入手経路、聞きたい?」

「やめろ俺を共犯にするな」

 一緒に調理室に入った時点で限りなく共犯ではあると思うが、少なくとも鍵をもっていたので許可を取ったんだと思いました、という言い訳の余地くらいは残しておきたい。

 うきうきと陽気な足取りに合わせて、三輪の手に握られた白い袋が揺れる。冷蔵庫に食べ物を入れる検証までする気なんだろう。

 たいした時間もかからず調理室に辿り着くと、三輪は何の躊躇も迷いもなく鍵を扉の穴に突っ込んでひねる。

「おじゃましまーすっと」

 あげく堂々と声を上げて豪快に扉を開けやがった。

「いや、お前さ……」

 もう少し人目を忍んだり、声を潜めたり、そういう情緒はないのだろうか。

「何してんの?」

 眉をひそめて固まる俺のことを、すでに調理室に足を踏み入れた三輪が不思議そうに振り返った。

 思わず背後を確認してから、俺はのろのろとその扉をくぐる。なるべく音が響かないよう静かに扉を閉めると、長く深い溜息が出た。

「そんなにびびらなくたって平気だって」

「お前が図太すぎるんだ」

「いやー、俺とお前だったらお前の方が不審者っぽいけど。堂々としてた方が案外気付かれないって」

 けらけらと笑って、三輪が片隅に設置された冷蔵庫へ近づいていく。

「見た感じは普通の冷蔵庫だよな」

「禍々しい冷蔵庫なんてあってたまるか……」

 がぱりと三輪がドアを開ければ、庫内はがらんとしていて何も残されていない。当たり前か。料理関係の部活や同好会もあるが、夏休みの間も毎日活動するような雰囲気ではなかったはずだし。

「で? 食材入れて待つのか?」

 三輪がもつ袋に視線を向ければ、一応な~と軽い返事が返ってきた。

「ネットだと作りかけで冷やすんだか寝かす?とかで入れたヤツだったんだけど、俺らにそんなスキルはねーから。適当にコンビニで買ってきた」

 そう話しながら、三輪は袋の中身を冷蔵庫へひとつひとつ移していく。サンドイッチ、おにぎり、サラダと、パックされた鶏肉、お茶と水のペットボトルが一本ずつ……腹減ってきたな。

「あ」

 一通りものを詰め込み終わったところで、三輪が声を上げた。

「なんだよ」

「甘いもん、買ってくりゃよかった」

「……あっそ」

 この日、三輪が持ち込んだ食料は当然の帰結として、俺と三輪の胃の中に消えた。



 そんな調子で、夏休みを過ごしていることしばらく。

 その日は珍しくいつまで経っても三輪が現れなかった。平穏に図書室まで辿り着き、このあと連れ出されるかもと警戒しながら適当な本を読んで時間を潰しても、物陰に潜んでいるんじゃないかと過剰に周囲を気にしながらトイレに行って戻ってきても、三輪の姿はどこにもなく。

「……別に、待ってたりはしてないけどよ」

 夕方が迫りつつある廊下で、こらえきれない呟きが零れた。そうだ、待ってたりはしていない。あくまでも暇すぎて仕方がないから、三輪に付き合ってやっているだけで、三輪がいなかったからといって何も問題は……いや、やっぱ退屈だわ。

 まあ、三輪がいくら変人だからといって、夏休みのすべてを七不思議作りに注ぎ込むわけじゃないだろう。俺だって、それなりに、一応は、予定だって入ってるし、今のところ皆勤賞というだけで毎日学校に来るつもりはない。

 今日はたまたま、そういう日だっただけだ。

「……あれ?」

 とぼとぼと帰路に就いた俺の前方を、ややラフな格好をした教師が歩いている。

「鶴見じゃん」

 一年の偶数クラスを受け持つ社会科の非常勤。既婚者ではあるがなにせ顔がいいので女子たちの間ではかなり人気だ。いやでも、非常勤じゃん、なんで夏休みに学校にいんの。

 俺の呟きがうっかり聞こえてしまったのか、単純に後ろを歩く人の気配に気付いたのか、鶴見が首を傾げながら振り返った。

「どもっす、鶴見先生」

「ああ、若月くんか。どうしたんだい、夏休みに」

「いやちょっと、自主登校っていうか」

 家にいづらいなんて子どもみたいな理由を口にするのは憚られた。歯切れ悪く言葉を呑み込んだ俺に鶴見はさして気にした風もなく、そうかと微笑む。

「先生こそ、夏休みも仕事あるんすか?」

「いや、今日は研究会の方でね」

 そういえば確か鶴見はブライダル研究会だとか立ち上げたんだっけ。生徒の恋愛相談を請け負うとかなんとか。最初聞いたときはなんだそれとしか思わなかったが、この人がやってるならまあアリなんだろうなと思うようになってる。実際、かなり人気らしいし。

 ふと、ちょっとした好奇心が沸いた。

「そういえば先生、一年の三輪ってヤツ知ってます?」

「三輪?」

 恋愛ごとに特化はしているが、生徒から相談を受けてそれが評判になるような教師だ。その教師鶴見から見た三輪はいったいどんな生徒なのか。苦笑するのか、面白がるのか、その反応が見たくなった。

「そっす、色白で狐っぽい顔してる」

「……ちょっと、わからないな。なるべく覚えるようにはしているけれど、受け持ってないクラスの生徒だと、さすがにね」

 しばし眉をひそめた鶴見は、申し訳なさそうにそう言った。

「あー……、や、知らないならそれで。変なこと聞いてすみません」

 すまないね、と頭を下げる鶴見になんでもないのだと言い訳をして、俺はその場を離れた。

 階段を降り、昇降口を経由して校舎から出る。

 そこまで来て、ようやく俺は振り返ることができた。

 鶴見が受け持っているのは一年の偶数クラスだけ。つまり学年の半分。残りの半分とは接点はない。クラブ活動で知り合った生徒や、特別目立つ生徒の名前を知っていることはあるだろうが、会ったことのない生徒がひとりいたところで何の不思議でもない。

 もしかしたら夏休みではっちゃけてるだけで、普段の三輪は目立たない平凡な学生なのかもしれないし。

 ただそれだけのことだ。

 それなのに、どうしてこれほど不安を感じるんだろう。

 日暮れまではまだ遠く、赤く染まりきらない空を背後に、見慣れた校舎はただ静かにそこに建っていた。



 八月も半ばが過ぎ、俺と三輪が巡った七不思議になりそうなスポットは優に両手を超えていた。

 保健室のベッドで休んでいると、隣のベッドに真っ黒な誰かが寝ている――さすがに保健室に侵入はできなくて、周辺をただただうろついただけで終わった。

 体育倉庫には立ち入り禁止の場所があり、そこには人がすっぽり入ってしまいそうな謎の穴が開いている。その穴に入った人間は消えてしまう――穴を探すより運動部の目をかいくぐる方がよっぽどスリルがあった。

 美術室で入り口に背を向けて絵を描いているとドアの磨りガラスに人影が映るが、ドアを開けてもそこには誰もいない――大量生産された下手くそな絵は、面白がって三輪が持ち帰った。

 校内に貼ってある見取り図のひとつに、存在しないトイレのマークが書かれていることがある。そこには昔、事故があって撤去されたトイレがあって、今でもそこで死んだ生徒の幽霊が出る――見取り図の適当な場所にトイレマークを書き足したら、後日消されていたし、夏休みなのに学校に来ている生徒として有名になっていたらしくお前がやったんだろうと叱られた。腹立たしいことに、そういう日に限って三輪は現れなかった。

 ある日はネタが尽きたらしく、学校内のありとあらゆる階段の数を数えようとしたし、またある日は出入りできるすべての教室を回ったりもした。三輪と出会うきっかけになった猫を見かけて、七不思議そっちのけで探し回った日もあった。

 夏休みも終盤になってくれば、文化祭の準備だとかで校内にいる生徒の数も増えてくる。他の生徒がいるという意味ではやりづらくもあったし、他の生徒に紛れられるという意味ではやりやすくなった面もあった。

 七不思議らしい怪奇現象はひとつも目撃できていない。三輪は焦ることもなく、かといって諦めることもなく、最初の出会いから変わらない調子で俺の前に現れては、七不思議を作ろうぜと笑うのだ。

 今日の三輪のネタは、読んではいけない本が図書室にあるという話で、一日かけて図書室中の本のタイトルを読んで回った。意外と面白そうな本が眠っていたので、次に三輪が現れない日が来たら片っ端から読んでやろうと決めた。珍しく有意義な結果になった一日だった。

 俺と三輪は連れだって図書室を出て、昇降口を回る。夏の日は長いから空はまだ明るく、夕暮れと呼ぶには早すぎる時間。

 相も変わらず生を謳歌する蝉たちの声を聞きながら、ゆっくりと坂を下る。

 俺と三輪がともに歩くのはこの坂までだ。坂を下りきると、三輪は決まってじゃあなと言って立ち止まる。そこからどうやって、どこへ帰るのか俺は知らない。校門前に来るバスに乗るのはいつだって俺ひとりだ。

 桜の樹の影が、長く長く坂の上に伸びる。曲がりくねった道で、蝉の声を聞きながら、学生服を着た二人分の影も止まることなく動き続ける。

「そういえば、どうして七不思議なんだ?」

 特に深い考えもなく、俺はそう口にしていた。あと少し、校門に辿り着くまでのほんの数分をしのぐためだけの、何気ない話題のつもりだった。

 俺の右隣、やや遅れて歩く三輪は、少しだけ笑ったようだった。

「七番目の話が決まってるから」

「なんだそれ」

 三輪が立ち止まって、数歩進んでから俺も止まる。校門はもうすぐそこに見えている。

「椿ノ峰高校には、いつまでも進級しない生徒がいる」

 俺が振り返ると同時に、三輪が言った。

 にんまりと、狐のように笑って。

 生ぬるい風が吹いて生い茂る木々がざわめく。

 長く伸びた俺の影を、三輪が踏んでいる。その背後に伸びる影が、重なり合う樹の影に呑まれて混ざり合う。

 咄嗟に返す言葉が出なかったのは、日が傾いても収まらない夏の暑さのせいだろうか。不気味にさざめいた並木のせいか。

 それとも――

「若月」

 狐の能面をかぶったような男が、俺を見て笑う。夏だというのに日に焼けていない、色素の薄い男。その冷たい手は、何度俺の腕を掴んだだろう。

 ふ、と酷薄そうな口元から、吐息が漏れた。

「なーに怖がってんだ? よくある怪談だろ」

 けらけらと笑った三輪が、俺の背後を見て、それからまた俺に視線を戻した。

「バス、来たみたいだぞ」

 白い指先が俺の背後を指し示す。

 校門――学校と、その外側を切り分ける場所。

 この時間になるとバスの本数は限られる。今来たバスを逃せば、次は何十分後だったか。当然そのことを三輪も知っていて、つまり三輪が向こうを指さし続けているのはただの親切心でしかない。

 きっと三輪は学校から徒歩圏内に住んでいて、だからいつも俺がバスに乗るまで付き合ってくれる。それだけのことだ。何も不自然なことはない。

 じゃあ、と言った俺の言葉は、まともに発音できていただろうか。

 振り向いて、校門の向こうに見慣れたバスの姿を見て、俺は走り出す。そうしないとバスに間に合わないからだ。走るのは自然なことだ。

 背を向けた俺に、三輪から投げかけられる言葉はなかった。



 三輪に、自分の名前を名乗ったことがないと思い出したのは、三輪が学校に現れなくなった――そのあとのことだった。



 相も変わらず蝉は鳴く。

 母親がヒステリーを起こしても、奇妙な同級生が姿を見せなくなっても、学校は変わらずそこにあり蝉は命をわめき立てる。

 八月も残すところあと数日。

 読んではいけない本探しで見つけた面白そうな本もあらかた手に取ってしまい、後回しにしていた課題もすべて片付き、もはや退屈しのぎの手段は残されていない。

 三輪はあれから姿を見せず、かといって積極的に探し回る気も起きず、ただただ無為に時間を浪費するだけの日々。

「あれ、若月じゃん。何してんだ?」

 惰性のように図書室に向かおうとしていた足を止めたのは、聞き覚えのあるクラスメイトの声だった。

「……中島?」

 俺と同じぱっとしない感じの容姿ではあるが、生徒会に入っていたりとなんとなくクラスでは目につくタイプ。夏休みに約束してまで会うほどの仲ではないが、クラスにいればそれなりに話も盛り上がる程度の、同級生。

 中島はなにやら紙だの文具だのがごちゃっと入った段ボールを抱えて、階段から降りてくるところだった。図書館のある一号館には倉庫がいくつかあるから、そこに行っていたのかもしれない。

「なになに、自主的に生徒会の仕事を手伝いに来たとか? 大歓迎なんだけど」

「いや、そういうわけじゃ……」

 段ボールを抱えたまま距離を詰められて、思わず後ろに下がる。反射的に否定してしまったが、特別断る理由もなかったな。暇だし。

 中島も本気で言ったわけではなかったらしく、わざとらしくだよなーとか言って笑っている。

「……そうか、生徒会か」

 小声で呟いた俺の言葉を、中島は聞き逃してくれたらしい。生徒会で任された仕事が雑用ばっかだと延々愚痴っている。

「中島、その仕事って生徒会以外がやってもいいヤツ?」

「え? どうだろ。まあ、雑用だし平気なんじゃね?」

「それなら手伝ってもいいか?」

 聞かれた中島は、目をぱちくりと瞬かせて、あんぐりと口を開けた。

「まじで? めっちゃ助かる!」

 言いながら段ボールを落としそうになったのか持ち直す仕草を見せたので、中島の腕から箱を奪い取ってやった。見た目ほど重くはなくて密かに安堵する。

 中島はおおーだのさんきゅーだの、気の抜けた歓声を上げながら俺を先導するように歩き始めた。

「手伝う代わりに、ひとつ頼み事をしてもいいか?」

「おう! ……あ、今、金欠だから奢り系はやめろよ」

「んなこと頼まねえよ。――確認してもらいたいことがあってさ」




《探すのってミワでいいんだっけ? 一年のどのクラスにもいないんだけど》

 夏休み最終日。

 スマホに届いた中島からのメッセージを見つめたまま、俺は自室の天井を見つめ続けることしかできなかった。




 永遠に続くかと思っていた我が家のいざこざも、いざ治まってしまえばあっさりしたもので。

 まだ多少のぎこちなさはあるものの、両親はそれなりに折り合いをつけたようだった。

 新学期が始まれば当然のように学校に行き、文化祭の準備だなんだで賑わうクラスで日中を過ごし、放課後は母親の小言を聞きながらだらだらと過ごしたり、たまに思い出したように勉強なんぞをしてみたり。

 夏の間ともに過ごした奇妙な生徒のことなど、こうして忘れていくのだろう。

 卒業して、成人して、あるいは怪談話のレパートリーのひとつくらいにはなるかもしれないけれど。

 文化祭に向けて少しずつ浮き足立っていく校内。楽しそうに過ごす同級生たちの中に色素の薄い姿を見た気がして、思わず立ち止まった。

 急に立ち尽くした俺を、何人かの生徒が迷惑そうに追い越していく。

 サビついたブリキの玩具のような鈍い動きで、通り過ぎた教室を振り返る。教壇近くで何人かの男子生徒が話し込んでいるようだった。

 そのうちの一人。夏休み明けだというのに肌は真っ白いままで、髪の色は染めているのか明るい茶色の男。

 その男が不意に、俺のいる廊下へ顔を向ける。

 鼻筋の通ったその顔立ちはイケメンの範疇だろう。細くつり上がった目をチャームポイントと取るかで、評価は少し割れそうだが。

 狐によく似た、その男の顔を俺は知っていた。

「――西條?」

 その場にたむろっていたうちの一人が、三輪――かもしれない誰かを見てそう呼んだ。

 呼ばれた方は、変わらずに廊下を見つめている。

 いや、ここで立ち尽くしている、俺の顔を。

 にんまりと口元が弧を描く。

 時間が止まったような一瞬のあとで、俺が三輪だと呼んでいたその男はわざとらしく眉を寄せて、自分を呼んだ男子の方へ向き直った。

「今は三輪だって言ったろ。覚えろっての」

 一人の肩を小突くと、けらけらと笑い合ってから、そいつは輪の中からするりと抜け出した。

 どうした?と聞かれて、ちょっと野暮用と返す。その間も止まることなく歩いて廊下へと出てくる。

 真っ直ぐに、動けないままの俺の元へ。

「よ、こないだぶり」

 そう言って片手を上げた――三輪は、ひんやりした手で俺の腕を取って笑った。

「ちょっと七不思議作るの、手伝ってよ」



 聞いてみれば単純な話で、三輪は西條という名前で入学したものの、この夏の間に両親が離婚して姓が変わったらしい。

「前の姓のまま卒業まで過ごすって方法もあったんだけどさ、お前に三輪って呼ばれるの悪くなかったから」

 そう言って嬉しそうに微笑む三輪の顔を見てしまえば、問いただす言葉は呑み込む以外できなかった。

 どうして言ってもない俺の名前を知っていたのかとか。

 なぜ突然、学校に来なくなったのかだとか。

 そもそも七不思議にこだわる理由とか。

 たぶんそういうのは、蛇足というものなのだろうと俺は納得することにしたのだ。

 新学期になっても、文化祭が終わっても、三輪は俺がひとりでいるタイミングを狙って、校内のあちこちに引っ張っていく。

 七不思議を諦める様子はやはりなく、まあ、ここまで来たら卒業まで付き合ってやってもいいかと腹をくくることにした。

 夕暮れを迎える前の校舎に、秋に向かって傾き始めた日差しが長い長い影を作っていく。

 もうしばらくすれば一面が夕日に染まるのだろうが、今はまだその手前。


 俺――若月晃汰は実に平凡な生徒だが、今日も七不思議になり損ねた同級生と黄金色に染まる校舎を歩いている。

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