8月16日(月)【21】祭ばやし
8月16日、朝。
昨日の夕方、アサガオのツボミが膨らみかけていた。明るいうちに観察日記に描いておかなければと思い、久しぶりに早起きした。
色鉛筆ケースのフタをコンクリートの上で開く。茶色の先っぽを右手人差し指で押しこみ、親指と中指でつまみ上げる。
アサガオのツボミは、雑にたたまれた白い傘のようにみえた。
「えいっ」
「んはっ!」
「おはよう」
「あ......おはようございます」
涙がでそうなほどの不意打ちで、胸の底に溜まっていた重たい空気が、口から出た。
「いよいよ咲きそうだね」
「はい」
エリカさんは、じっとアサガオを見ている。
「あの、この前は本当にすみませんでした」
「ん? あー、気にしないでいいの。わたしも子供みたいにムッとしちゃって。恥ずかしいとこ見せちゃった」
「いえ......」
話題をさがす。
「あの、今日夏祭りがあるって知ってました?」
「えっ、そうなの」
懐かしい反応に、ぼくの肺はフワッと持ち上がる。
「花火もあるんですって」
「えーいいな。いきたい」
欲しい答えが返ってくる。お姉さんはそうやって、お仕事をしてきたのかもしれない。
「ゆきこも一緒でいいですか?」
「えっ、逆にいいのかな。ゆきこちゃんに申し訳――」
「――いえ。むしろゆきこと二人きりならやめとこうと思っていたので」
「そうなの?」
アサガオの前に17時集合、ということになった。
ゆきこは受話器越しに「別にいいけど」といった。
〇
17時。アサガオが朝よりも膨らんでいる気がする。
トントンと、ぼくの肩を叩く手。振り向くと夏の女神がそこにいた。
「どう。似合う?」
「はい。とても」
「100万円、じゃない方の和服。浴衣です」
白の生地に薄い青の花が描かれた浴衣。化粧はしていないように思えた。
「きれいです」
「ありがと」
照れや恥じらいでごまかさない、美しい笑顔。ただ言葉を、言葉のとおり受け取ったのだと感じさせる目元。
「小学校でゆきこと待ち合わせしていますので」
ぼくが右手を出すと、エリカさんはその手をつかんだ。ラジオ体操で何度も往復した通学路。
カコンカコン――。
下駄の音が、お姉さんの歩幅をおしえる。小学校に近づくほどに和太鼓のリズムがふくらみ、骨に響く。
人の流れを邪魔しないように、後門の端っこにゆきこは立っていた。浴衣だ。エリカさんとつないでいた手を離す。
「よっ」
「あきくん。お姉さんも。こんばんは」
ゆきこの浴衣は薄いピンク。髪型もいつもと違った。
「踊りか、お店。どっちがいい?」
盆踊りなら小学校、夜店なら神社。ゆきこは夜店がいいと言ったので、神社へと向かう。小学校の中を通るのが近道だったが、なんとなく
「あきくん、あのコンビニ。お昼ご飯買ってくれたコンビニ」
「ああ。ゆきこが嫌いなチョコ買っちゃったコンビニな」
「違う。そうだけど......もう食べられるし......」
三人で会話がしたい。そこにいるのに、まるでいないかのように振る舞う空気が肌に合わない。
恋。これにとらわれた人間は、周りが見えにくくなる。
神社に入ると、小気味良い祭ばやしと甘い熱気がまとわりついた。
鳴り物のリズムに歩かされながら、右側の屋台を順番に眺める。
「金魚すくいだ」
ゆきこがはしゃぐ。
「やりたい?」
「うん」
エリカさんにもどうですかと誘うと、彼女は浴衣の袖をまくった。
「表はこっち。ポイを斜めに入れて、お水ごとやさしくなでるように」
「あきくんすごい。もの知りだ」
2年前、近所の虫取り名人アキラくんに教えてもらったコツを、言葉を変えてゆきこに伝える。コツなどと言った手前、自分が1匹も取れなかったら恥ずかしい。
気合を入れる。
ぼくの右隣で金魚をねらっているエリカさんのポイは、すでに半分破れていた。
「すごい! 取れた」
ゆきこがはしゃぐ。
「すごいじゃん」
「でもあきくんはもう3匹も取ってる」
近所の兄ちゃんは半分反則技で10匹以上はすくっていた、と言いかけてやめた。
「これ、ゆきこにあげるぶんだから」
「えっ本当に! うれしい」
ゆきこの家の庭には大きな水槽がいくつかあって、父が釣ってきたのであろう淡水魚が何匹か泳いでいた。ゆきこは金魚に興味が無いとしても、ゆきこ父なら金魚を受け入れてくれる、最悪エサにしてくれるだろうと思った。
2本目のポイもダメにしたエリカさんに「一度ぼくのすくい方を見ていてください」といってみせた。「なるほど」とつぶやいたエリカさんは、3本目にしてようやく2匹すくい上げる。
エリカさんもすくった金魚は飼えないということだったので、ぼくの7匹とエリカさんの3匹、自分ですくった金魚と合わせて、ゆきこは13匹を左手首にぶら下げた。
大漁だと風情が無い。おかしくて少し笑けてくる。
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