7月21日(水)【03】あさがおの妖精

 ――ピィピィピィピィピィピッ......――


 奥で寝ている父より先に、目覚まし時計のボタンを押す。手前で寝ている母のお尻を爪先立ちでまたぎフスマを開けると、ムワンとした熱気が顔にまとわりついた。


 そのまま真っ直ぐ進んで音がもれないように台所のガラス戸を閉めたら、キラキラゆれるすりガラス窓をぼんやり見つめながら歯磨きと洗顔。


 カラカラ喉とカラの胃に茶を補給したら台所を出て、再びフスマとクーラーとハンプティ・ダンプティを通過。小を済ませたら用意していた服に着替えて、いざラジオ体操へ。


 6時55分。うまく走れば2分の距離にある小学校から帰宅。


 玄関入ってすぐのガラス戸を開け、帽子をぶん投げる。靴は脱がずにもらったばかりのラジオ体操カードを手裏剣の要領でみごと勉強机に着地させると、ガラス戸を閉め、再び玄関を出た。


 今年は野菜でも花でも何でもいい選択システムだったので、たくさん残っていたアサガオの種を選んだ。2年前にも育てたが、水さえあげていれば失敗しないだろうと信頼していた。


 玄関を出てすぐ左。太陽の浴びすぎで化石化した蛇口を、おもいっきりひねる。


 お湯から水へと切り替わったら、まずは半袖のギリギリのところまで水行を行う。日焼け色の腕が冷えたら、2リットルペットボトルの口を近づけて暴れる流水を受け止める。


 金魚と同じで水は1日寝かせた方がいいと聞くが、めんどくさいので寝かせない。


 たまったボトルを抱えそのまま振り返る。


 敷地境界線まで4歩進んで溝をまたいだら、その溝を右にして6歩。茶色く塗られた鉄骨柱横に到着。その下に寝かせてある鉢植えの前でしゃがむ。


 若葉の表面の毛を優しくこするルーティーンを終えると、立ち上がってボトルをかたむける。装着された改造穴あきキャップから水がブビッと飛び出した。


「えいっ――」

「うはあっ!」


 何かに横腹をつかまれている。


「えっ――うそ......えいえいえいっ――」

「うふうふうふぅっ!」


 完全に油断していた草花いたわりモードの上半身がビクンと跳ねた。


 水が鉢植えから大きく外れ、コンクリートに変形ナスビを描く。


 水2キログラムを両手でつかんだまま、首だけ振り向く。


「わっ。見つかっちゃった」


 見たことの無い顔が、斜め上から見つめていた。7月の朝の光を後頭部に受けている女性。顔が近すぎて焦点が合わない。


「なに育ててるの?」

「えっ? アサガオ......です」


 横腹をつかんでいた両手が離れる。ぼくの横を通り過ぎた女性は鉢植えのそばにしゃがむと、人差し指で葉をなでた。


「あさがお好きなの?」


 混乱。


「すっ――好きです」

「どっち?」


 ヒザを抱えた女性がぼくを見上げる。声の印象よりも少し幼い女性の目が、ぼくをじっと見つめている。


「えっ......どっち?」


 意図のわからない質問をされて、聞かれた言葉をそのまま打ち返してしまう。


「2本植えてるじゃん。どっちが好きなの?」


 一つは最初に植えたものでツルが棒に巻きつき始めていた。もう一つは、枯れたときの保険にあとで植えたもので、まだ葉っぱが出たばかりだ。


「小さい方です」

「なんで?」

 アサガオを見ていたお姉さんの目がこちらに向く。


「やわらかいからです」

「ん?」


「葉の感触が」

「そっか......くすくす」


 なぜ笑う。


 これ以上の会話は身が持たないと無意識は判断し、上唇が《ムッ》と閉じられた。


 緊張を感じたとき、ぼくは少し大きな前歯を反射的に隠す癖がある。おでこと頭、そして濡れた腕が熱くなった。


「いっぱい汗かいてるね」


 彼女の指がピチっとぼくのおでこに引っつく。手の平で前が見えない。


 おでこにくっついている彼女の指が張り付いた前髪を右に流す、と同時に視界がひらけた。お姉さんの顔がさっきよりも近づいている。そして指ワイパーは、おでこの汗をぬぐい取る。


「(ふんすーふんすーふんすー)」

 

 加速する鼻息を止められない。息が勢いよく彼女の手の平に当たる。音まで聞こえる。肺に溜まっていた朝の空気はあっという間に、甘いにおいへと入れ替えられた。


「お名前は?」


 自分の手の平にくり返し吹き付けられている鼻息などまるで気付いていないかのように、彼女は質問をつづける。


「初乃あきふみです! お姉さんはどちらさまでしょうか?」


 このまま教科書にのせてもらっても構わない、ただしい受け答えをする。口から空気を吐き出したことで、カチカチだった体が少しだけゆるむ。


「お姉さんは、あさがおの妖精です!」

「......えっ」


 なにか違和感のある単語が聞こえたような、気がした。


「妖精です」


 違和感みいつけた。教科書にない答えが返され、身体の熱がスッと引く。


 サンタクロースの件については、ぼくは幼稚園年中組のときすでに確信していた。


 クラスメイトがこぞって我先にと自己申告するプレゼント内容に、あまりの格差があったからだ。


 ぼくの枕元に指定日配達されたのは、袋詰めされたお菓子セットだった。正確にいうと、その袋はさらに銀色の厚紙でつくられた長靴の足を入れる部分に、半分ほど埋まっていた。


 母のパート先のスーパーでは、その日が近づくと、入り口入ってすぐのワゴンにそれと全く同じものが何足も山積みにされる。


 ぼくはその日が過ぎ去るまで、前方にそびえる山からできるかぎり目を背けた。


 おそらく今年のその日も、右足か左足のどちらかが(色や形は毎年マイナーチェンジされるので2足揃えたことはなく、そもそも左右という概念があるのか知らないが)届けられるのだろう。


 《妖精》とは大きく出たものだ。


 たいていの大人は小学生をみなひとくくりに「こども」と認識している。だからここはきちんと大人しく、子どもらしく振る舞っておこう思った。


「えっ。妖精なんですかっ」


「うっそー。何ちゃって。人間でーす」


 むかつく。


「わたしは小山内おさないエリカと申します。エリカさんでいいよ」


 お姉さんは、最後まで遊ばせていた汗まみれの親指をぼくのおでこから離して、立ち上がる。


「ほらあそこ。あきふみくん家のななめ前。昨日、あの家に引っ越し――というか帰ってきました」


 ななめ向かいのアパート。小山内おさないのおばちゃんの部屋を指さしている。


「あの部屋の住人、わたしの母なんだけど、知ってる?」

「はい。ときどきお菓子をいただきます」


「そっかそっか。へーお菓子か......」

 目を細めニヤついている。


「じゃあわたしも今度、お菓子あげよっかな」


 すでにお菓子程度では満足できない身体になっていたが、母をふくめ大人はその変化に気が付かないものだ。小学生なりに礼儀というものもある。


「えっ、ありがとうございます」

 大変待ち遠しいです、という目つきをつくった。


「楽しみにしててね。それでは、これからもよろしくお願いします」


 テレビドラマでしか見たことの無いスベスベ大人白パジャマを身に付けたお姉さんは、両手をそろえてお辞儀をした。


「はい。こちらこそよろしくお願いしま――」


 こちらもていねいにお辞儀を返さねばと腰を曲げると、抱えていた2リットルペットボトルの改造穴あきキャップから、圧縮水が発射した。


「――すっブフーっ。ゲホゲホゲホッ。フンッ......ふー......フンッ」


「――くすくすっ。鼻に入って『フンッ』って」

 女は笑った。


「ぷっ......じ、じゃあね。おやすみ」


「えっ――」


「あっ、あきふみくんはおはようだね。わたしはこれから寝ます。おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい......エリカさん」

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