金なし。職なし。取り柄なしの俺だが、妻はいる。子供はまだいない。そして妻の友達に恋をした。

肩メロン社長

あなたに恋をした。

 金なし。職なし。取り柄なしの俺だが、妻はいる。子供はまだいない。

 ああそれと、夢もある。

 大きな夢だ。

 その夢のために公務員を辞めた。安定を捨てて、俺には才能なんてないだろうけれどなんとかやってみせるさと意気込んで、自信満々に。



 応援してくれる妻とこれからできるであろう俺たちの子供のため、妻に内緒で買った二十四回払いのノートパソコンを持って、毎朝仕事に向かう妻と一緒に家を出る。

 歩いて二十分。喫茶店で安くもないコーヒーを頼んで、液晶の空白と向き合う日々。

 


「今日はどうだったの?」


「んー。いい感じかな?」



 タバコの煙を吐き出しながら、妻と目を合わせず煙の行方を追った。

 正直、何も進捗はない。ただただ無駄にコーヒー代を消費するだけだった。

 けれど、そんなこと妻に言わない。

 そんなこと言ってしまえば、働かなくてはいけなくなるから。

 


百音もね好きだったよね、ポトフ。久しぶりに作ってみたんだ」



 せめてもの罪滅ぼしに、炊事洗濯は欠かさず行っていた。

 本当は家事に時間を使いたくなかったし、夕飯の腕をあげたところで俺に得はない。



「わあ、ありがとうっ! お野菜たっぷりだね、うれしい」


「ちょっと待ってね。もう少しで準備できるから」


「早くはやく~」



 タバコを灰皿に押し付けて、温め直したポトフのフタをひらいた。

 


「何やってんだろうな、俺」



 乾いていくのがわかった。

 危機感も、焦燥感も、貯金が削られていく恐怖も、なんだかどうでもよくなっていく気がした。



 公務員を辞めて半年。

 絶対に後悔しないし、安い給料で満足してるおまえらとは違う世界に行くんだ――なんて言い切ったくせに、お玉とタバコが似合うダメ男が板に張り付いてしまった。



「ん? なにか言った、詩音しおん?」


「いや、なんでも。――あ、ご飯よそって」


「了解っ。きょうは何見るー? 映画? アニメ?」


「ジェイソン・ステイサムが見たいなー」


「はいよー」



 ポトフをよそった皿を彼女の前に置いて、席についた。

 翌朝も、同じ時間におきた俺は百音と一緒に家を出た。



「がんばれよ、詩音っ!」


「百音もね。がんばって」


「うん。早く帰ってこれるようにがんばるっ! きょうの夜ご飯たのしみにしてるねっ」



 手を振りながら改札へ向かっていく小柄な妻の姿を見送って、俺は喫茶店へと向かい歩を進めた。

 やがて喫茶店へたどり着いた俺は、いつものコーヒーを頼んでいつもの角側の席に陣取る。

 ノートパソコンを開いて、ひらきっぱなしだった空白と見つめ合う。

 


 題名もない、単語数ゼロの白。

 キーボードの上に手を置くだけで、文字が入力されることはなかった。



 無為な時間を過ごして、気がつけば十一時近くに迫っていた。

 きょうも何も書けなかった。

 それがいつものルーティンと化しているかのように、頭の中からは何も現れなかった。



「また……何もできないのか」



 今日も。昨日も。一昨日も。半年間、ずっと。

 もういっそ、夢から覚めてしまえればよかった。

 趣味を趣味のままに、それを仕事にしたいなんて思わなければよかったのかもしれない。

 けれど、そう思う度に一丁前にそれを否定する自分がいた。



 俺ならできる。俺にはこれしかないのだ。諦めるにはまだ、早いんじゃないか?



 そう自分に言い聞かせ、キーボードに指を這わせる。

 きょうこそは――きょうこそは、一歩前に進むんだ。すすまなくてはいけない。



 とりあえず何か、なんでもいいから空白に色を塗りたくて、キーボードを叩こうとしたその時だった。



『こんにちは。久しぶりです。陽奈ひなですけど、おぼえてますか?』



 スマートフォンに届いた一通のLINEを見て、背筋がゾワリとした。



『百音と連絡が取れないので詩音さんに連絡しました。百音は元気ですか?』



 早鐘を打つ心臓。

 皮膚の下で血液が熱くなっていくのを感じた。



『久しぶり、陽奈ちゃん。百音と連絡とれないの? ブロックされたんじゃない?笑』



 書いては消してを三度繰り返し、五分程経ってからようやくそんな文を送ることができた。

 既読は、すぐについた。



『えー、ほんとうにされてそうです笑 私なにかしましたかね?』


『大丈夫、ブロックされてないと思うよ。仕事が忙しいんじゃない?』


『一週間前にLINE送ってるんですよー。既読つかないから、嫌われちゃったのかなって』


『それは、なんとも言えないね笑 何か伝えておこうか?』


『誕生日ブレゼント渡したいんですけど、百音あってくれますかね?』


『七時には終わると思うから、帰ってきたら訊いてみるよ』


『本当ですか? ありがとうございます! あ、そういえば――』



 それからもLINEは止まることなく、喫茶店をでる一時過ぎまで続いた。

 忘れたはずの感情が、息を吹き返してきたかのように胸を満たしていた。同時に、去年のある出来事が思い返され、息が詰まる。



 妻がいるのに、他の人を好きになるなんて、自分でも最低だと思う。

 ましてや、それがバレてしまったなんて笑えない冗談だ。




「――百音さあ」


「なあに?」


「え、と」



 夕飯のカレーを口に運びながら、今朝の出来事を伝えようとして、躊躇った。

 陽奈という存在は、二人にとってのタブー。会話にその名前がでてきた瞬間に、耐え難い沈黙が訪れるのはわかり切っていた。

 だから、



「なに話そうと思ってたのか忘れちゃった」


「ええ~なにそれ。かわいいね詩音っ」


「どこがだよ」



 にやにやと下から覗き込んでくる妻の瞳から、視線をそらした。

 


「ねえねえ、なに話そうと思ってたのさー? はやく思い出してよう」


「早くたべないと冷めちゃうよ。それにほら、めっちゃこのシーンいいところだからしっかり見て。見ながらたべて」


「はぁい」



 かわいらしく返事をしてノートパソコンの液晶と向き合った妻が、カレーをくちに運んだ。

 百音のことは愛している。大好きだ。何ものにも替えがたいと思ってる。



 それは決して嘘ではないし紛うことなき事実だ。だというのに、俺は妻の友達とLINEのやりとりをして喜んでいる。

 最低だ。

 百音が一生懸命働いて、俺のことをサポートしてくれているというのに。



 申し訳なさが胸中で渦巻いて、しかし頭の中では陽奈に対し、どうLINEを送ろうか考えていた。




「えと、一年ぶりでしょうか? 二人で会うのははじめてですね、詩音さん」


「そうだね。……あまり変わってないね、陽奈ちゃんは」


「そうですか? 詩音さんはちょっと大人っぽくなりましたね。なんか風格? が違います。お仕事忙しいんですか?」


「いや、辞めたんだ。今年の三月末で」


「ええー知らなかったです。じゃあ今は何してるんですか?」


「内緒」


「なんでですかーっ?」



 数日後。いつもとはちがう喫茶店で陽奈と向かい合っていた。

 隣の席にはプレゼント用に包んだ長方形が置かれていて、けっこうな重さもありそうだった。

 約一年ぶりに会った陽奈は、はじめて出会ったホームパーティの時と同じ髪型で、少し緊張した面持ちで紅茶に手を伸ばした。



「百音は、やっぱり会ってくれないんですか?」


「……うん。理由は教えてくれなかったけど。ごめんね」



 平然と嘘をついて、コーヒーにくちをつけた。



「いえ。謝らないでください。私、変な子ってよく言われるから、きっと気づかないうちに何かしたんですよ。自業自得だと思います」


「そんなことないよ。でも、変な子っていうのはよくわかる」


「待ってください、それは少しちがう気がします」


「あの話聞いたよ。高校の頃、自販機にハワイのお金を入れて、飲み物が出てこないってクレーム入れた話」


「な、なんでそんな恥ずかしい話知ってるんですか……!?」



 頬を紅潮させながらカップにくちをつける陽奈に、胸の奥底でじわりと液体が広がっていく感覚がした。

 続けて、百音やその友達から聞いた他のエピソードを話して、恥ずかしそうに言葉を並べる陽奈を目に焼き付けるように見つめていた。




「――ええ~っ、珍しい。詩音が家で書いてるっ」


「おかえり、百音。なんかねー、ちょっと書きたい欲がきょうは強くて」



 その日の夜。夕食を作り終えた俺は、食卓の上で百音のノートパソコンを借りてキーボードを叩いていた。

 愛用のマイPCは百音には内緒なので、喫茶店でしか使用しないことにしていた。



「どんなの書いてるの? 伝奇? 異世界転生?」


「いや、恋愛」


「え、見たいみたいっ! 詩音の恋愛小説見たいよーう」


「完成したらね」


「わーーーいっ」



 まるで自分ごとのように喜んでくれる妻に後ろめたさを感じながらも、しかし筆が乗っているのは事実だった。

 これまでの遅れを取り返すかのように、昨日とは別人のように言葉が次々と出てくる。



 それは多分、陽奈と会ったから。

 百音が働いている日中に、他の女性と会っていたから。

 これを浮気と捉えるのは人それぞれかもしれないけれど、紛うことなく浮気だと、己自身は自覚していた。



 物語を書けるようになった。昔のように。書いているのが楽しい。

 それに紐どかれるようにして陽奈への想いも強くなっていった。去年、彼女に恋をしたあの時よりも強く。

 それから何度も理由をつけて彼女へ会いに街に繰り出した。



 会うたびに書くことに対してのモチベーションが湧いてきて、LINEの通知が早く来ないを気にし始めた。

 この感覚も、久しく感じていなかったものだった。

 とうの昔に失われていた感情が蘇っていく――内側からことばが溢れてくる。


 


「――あ、そういえばきょうの夜、友達と飲みに行ってくる」



 朝、地下鉄までの道中を二人で歩きながら、白々しくそう言った。



「え、誰と? 東出くん?」


「よくわかったね。もしかして俺のLINEみた?」


「いや、友達って東出くんしかいないじゃん」


「いやいやいや、あと二人はいるし」


「数えられる程度しかいないって、とても悲しいね。でも大丈夫、詩音には私がいるから」


「あ、う、うん」


「何? 不満?」


「いえ、十分です」



 いつもの軽いノリを取り繕って、内心ビクビクしながらも外出の許可をもらった俺は、生唾を飲み込んだ。

 改札へ向かう階段を下りながら、「ふふっ」と百音が笑った。



「最近の詩音、明るくなったね。仕事辞めてからさ、少し暗かったから」


「……そう?」


「うん。でも昔みたいに口数も増えたし、笑ってくれるようになった。しかも料理の腕も上がった。自慢の旦那さんだよ」


「そんなこと……ないよ」


「うぅん。そんなことあるよ。これで稼ぎがあれば何も言うことはないけどね。そろそろ詩音の貯金もなくなりそうだし……子供も、欲しいなって。そろそろ」



 下から覗き込むように照れながら言う百音の表情を見て、胸をえぐられたかのような痛みが走った。

 何も言えずに固まった俺を、不審がることなく笑って「あんまり気にしないで。そのうちでいいからさ」とスマートフォンをポケットから取り出した。



「んじゃ、行ってきます。きょうもがんばれよ、詩音っ」



 改札にスマートフォンをかざして、百音が雑踏に消えていった。



 その後、どうやって喫茶店にたどり着いたのかは覚えていない。

 いつもの席に、いつものコーヒーを持って座った俺は、ノートパソコンに埋められた文字をぼうっと眺めていた。

 キーボードの上においた指が、動かない。



 頭のなかでぐるぐると百音の言葉が蘇り、合わせて彼女の眩しい笑顔が脳裏にちらつく。

 なにか……何か、書かなくては。

 そう思えばおもうほど、百音と過ごした思い出が掘り起こされ、胸を締め付けられる。



 テーブルの上で振動したスマートフォンには、『おはようございます。きょうはすっごく楽しみです』と陽奈ちゃんからLINEが届いていた。



 

 シャワーを浴びて、髪型をセットして家を出た頃には六時を過ぎていた。

 待ち合わせまでの時間には充分間に合う。

 


 陽奈に会う緊張と、百音を裏切っていることに対しての後ろめたさを抱えながら、俺は地下鉄に乗った。

 二十分ほど揺られ、目的の場所で降りた頃に百音からLINEが届いていた。



『きょうは楽しんでね。東出くんによろしくっ』



 伝えておくよ、と返信して、待ち合わせ場所に向かった。

 待ち合わせ場所の定番であるビル前に着くと、普段以上にオシャレをした陽奈が先に待っていた。

 黒い花が描かれたキャミソールワンピースのうえにデニムのジャケットを羽織った陽奈の姿はどこかのモデルのようでいて、とても可愛らしかった。



「あっ、詩音さん。早く来すぎちゃいました」


「ごめんね、待たせちゃったみたいで」


「いえ、そんな待ってないですよ。楽しみ過ぎて早く来ちゃっただけなので」



 もじもじと俯き加減で楽しみだったと言われ、言葉をつまらせた俺は、震える声をなんとか絞り出した。



「きょうの服、かわいいね。すごい似合ってるよ」


「え、ほんとうですか? お姉ちゃんに選んでもらったんですよー」



 そのお姉さんは、妹が既婚者と二人っきりで飲みにいくことを知っているのだろうか。



「……いいセンスしてるよ、お姉さん。それを着こなす陽奈ちゃんもさすが」


「えへへ、照れます」



 五分ほど歩いて、ビルの地下にある居酒屋に入った。

 床が透明になっていて、薄暗い足元を床下に散りばめられた宝石のような光が照らしていた。

 昔、百音と一度だけ来たことがある女性受け抜群の居酒屋だ。



 個室に案内され、ビールとウーロンハイを頼むと、気恥ずかしそうにしながらも陽奈がいろんな話をしてくれた。

 職場でドジを踏んだ同僚のこと。出先で財布を失くし、通りすがりのおばあさんに電車代を借りたこと。両親が離婚したこと。

 すぐに顔を赤くした陽奈は、満足そうに喋り終えると半分ほど残ったウーロンハイを飲み干した。



「詩音さんは、今どんなことしてるんですか?」



 テーブルに両肘をついて、手のひらにアゴを乗せた陽奈ちゃんが充血した目で俺を見る。

 百音に隠れて彼女と会っていることに関する罪悪感など、様々な感情を押し殺すようにアルコールを体内に入れた俺は、ぼんやりとする頭でポロポロと言葉を流した。



「今は主婦みたいなものかな。俺さ、小説家になりたくて仕事辞めたんだ」


「小説家ですか?」


「うん。前の職場は副業禁止で、もし賞とかとったりしたらまずいからって辞めたんだ。でも、あまり結果はよろしくなくって。ははは、自信過剰過ぎて笑えるよ。こんなんだったら、辞めないほうがよかった」


「そんなことないですよ。それだけのリスクを覚悟して辞めたんですよね? いいと思いますよ、人生一度きりですし、好きなことやったらいいんですよ」



 顔を真っ赤にした陽奈が、床下で足を絡ませてくる。

 テーブルの上においた手のひらに、彼女の細くて白い指がなぞるようにして触れた。



「どんな小説書いてるんですか? すごい気になります」


「昔はファンタジー系を書いてたんだ。たまに純文学っぽいの書いたり、恋愛だったり」


「純文学って、なんですか?」


「えーと、村上春樹って知ってる? その人が書いてるものが純文学だよ……多分」


「えー、なんですかそれ。すごい曖昧」



 膝から脛にかけて陽奈のつま先が上下して、うっとりとした表情を浮かべた彼女が手で顔を仰ぐ。

 そのあまりにも魅力的な仕草に、血液が沸騰しそうだった。

 脳裏に、百音もねがチラついた。



「詩音さん、きょうは早く帰らないとダメなんですか?」


「……いや」


「良かった。きょうは詩音さんのこと、帰したくない気分なんです。――そろそろ次のお店、行きませんか?」



 居酒屋を出て、ひっぱられるようにして近くのカラオケ店に入った。

 真横に座った陽奈が肩を押し付けるようにくっついてきて、



「香水、なに使ってるんですか?」


「GUCCIの香水。いい匂いだよね」


「はい。とてもいい匂いします」



 首筋に鼻をうずめて匂いを嗅ぐ陽奈を引き剥がして、マイクを差し出した。

 


「さき歌っていいよ。最初は緊張するから、陽奈ちゃんが歌ってね」


「はぁい。じゃあなに歌おうかな――」



 ジャケットを脱いだ陽奈の、露出した肩が艶かしく映る。

 薄暗い空間のなかで、彼女から感じる体温とあまい匂いに脳が蕩けそうだった。



 それから、抱えているしがらみを取り払うかのようにアルコールを入れて、ベタベタしてくる陽奈の肩を抱いた。

 薄く閉じた瞳と、わずかに突き出された薄紅色の唇に吸い込まれるようにして、口づけをした。




「ふふっ、百音が泣いちゃいますよ」


「今、他の女の名前出さないでくれる?」



 ベッドに押し倒して、貪るように唇を突き合わせ、笑う陽奈の髪の毛を撫でる。

 線の細い肢体がくねくねと曲がり、足と腕が蛇のように絡みつく。

 逃さないと、後戻りはさせはしないとしがみつく。



「罪悪感とかないんですか、詩音さん? 奥さんの友達を抱いて、ふふっ」


「酔っ払ってるの?」


「私、お酒よわいんです」


「だろうね」



 暗闇の中、獣のように乱れる陽奈に百音の面影を見た。

 それでも止まることはできなかった。

 脱ぎ捨てたズボンのポケットからスマートフォンが震える音を聞きながら、陽奈のなかに諸々の感情を吐き出した。




 それから数ヶ月が経ち、あの夜いこう陽奈と連絡をとることはなかった。

 今だにフラッシュバックするあの日の光景と感情を忘れるために、何よりも百音へと誠実であるために、執筆に打ち込んだ。

 


「そういえば、きょうの調子はどうだった?」



 夕飯のナポリタンをフォークで絡ませながら、百音が言う。

 モンスターペアレントを懲らしめる坊主頭の俳優に夢中になりながら、俺は「うん」とうなずいた。



「まあまあかな。昨日よりかは書けたし、ネットで公開したら評価もそこそこもらえた」


「そっかあ。私も読んでみようかな。なんて名前なの?」


「教えない。秘密」


「えー、なんでえ~? 恋愛なんでしょ? 恋愛漫画を読み尽くした私ならなにかしらアドバイスをあげられるかもしれないじゃんか。みーせーてー」


「まあ、確かにそうかもね……」


「教えろよーどんな恋愛書いたんだよーう?」



 隣でしつこく肩を揺さぶってくる百音に、「仕方ないな」とタイトルを教えた。

「わーい」と早速スマートフォンで検索にかけた百音が、小説を見つけたのか映画とナポリタンをそっちのけで読み始めた。

 しばらくして、



「ねえ。これさ」


「気がついた?」


「……うん」



 静かに頷いて、読み進めていく百音。

 その瞳には、わずかに涙を浮かべていて、それに気がつかないふりをして映画を見続けた。



「うれしい。昔いったこと、覚えていてくれたんだね」



 付き合い始めて、半年が経った頃だった。

 将来について語り合った時、小説家になりたいと覚悟を決めて言った俺に、百音はこう言った。



『そっか。じゃあ、私たちのこともいつか小説にしてね』



 出版物として書いたわけではないけれど、恋愛を書くなら二人の出会いから幸せなハッピーエンドまでを書こうと決めていた。

 こうして見せるのはやはり恥ずかしかったし後ろめたさもあったけれど、それでも彼女の反応を見て、その小説通りに幸せにしてあげようと心の底から想った。



「うれしい……うれしいな。ありがとうね、ありがとう……」



 繰り返し呟いて、肩に頭を預けてきた百音の肩を抱く。

 もう二度と他の女性のことは見ない。

 百音だけを愛し、百音だけをみつめると、そう誓った。



 そのとき、食卓の上でスマートフォンが震えた。電話のようだ。



「誰だろう」


「東出くん?」



 スマートフォンを手に取って、液晶に映し出されている名前を見て肌があわだった。

 


「ちょっと出てくる」



 そういって、玄関まで出た俺は意を決して着信にでた。

 スピーカーからは、あの日の夜を想起させる艶やかな声音が、漏れた。

 


『詩音くん、久しぶり』


「陽奈……?」


『そだよー。元気してた?』


「あ、ああ。ど、どうしたの?」



 裏返る声を抑えて、早く用件を聞き出そうと焦る俺を嘲笑うかのように、陽奈が言う。



『あのね、大切な話があるの』


「大切な、話……?」


『そう。とってもとぉっても大事な話だよ、詩音くん』



 もったいぶるように間を置いて、生唾をゴクリと飲み込んだ俺にその事実を告げた。



『できちゃった。詩音くんの子供、できちゃったよっ。これからもよろしくね、パパ』


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金なし。職なし。取り柄なしの俺だが、妻はいる。子供はまだいない。そして妻の友達に恋をした。 肩メロン社長 @shionsion1226

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