熾火を渡す
肥前ロンズ
1
――武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。
これは小泉八雲の、『雪女』の序文。あの雪女の話は北国ではなく、青梅の、多摩川沿いにあった村の話だそうだ。今じゃ想像もつかないが、きっと沢山の雪が積もっていたんだろう。
私が『雪女』の話を読み返すのは、ある人を思い出すからだ。けれどその理由は、絶対に誰にも言わない。
その人は、「雪女」かもしれないから。
❄️
思い出すと言っても、いつ、どこで出会ったのかすら、おぼろげだ。
わかることは、地面も生垣も雪に覆われていて、その先に茅葺屋根の家があったこと。
そこにお姉さんがぼんやり立っていて、慌てて私の頭に乗った雪を振り払って家に入れてくれたこと。
囲炉裏の上にはヤカンがぶら下がっていたけど、電気ケトルで沸かされたお茶を貰った。最新型の電気ケトルが、囲炉裏の隣にあるのは、なんだか不思議だった。
手渡されたピンクのマグカップは、私の手には少し大きかった。それが大人の扱いを受けた気がして、悪くなかった。
「おねえさん、あのヤカンはつかわないの?」
「私、自在鉤使うの下手なの」
囲炉裏の上にぶら下がる棒が、「自在鉤」という名前だと知ったのは、多分この時だ。
「それに、あまり火に近づきたくなくて」
「こわいの?」
「うん」
パチパチという音がする。
彼女の瞳には、ぼんやりと囲炉裏の火が灯っていた。
火を見つめていると、頭がぼんやりしてくる。炭の内から赤い火が見えた。あの綺麗なものに触ってみたい。少し手を伸ばしたら届きそう。――そうなった後の自分の手の痛みややけどを想像して、ぞっとする。怖くなって、少しだけ、火から離れた。
「こわいなら、火をつけなければいいのに」
「……火は、絶やしちゃダメだって言われたから」
お姉さんは少し目を伏せて言った。
「火を絶やすとね、家がだめになるんだって。だから、絶やしちゃいけないの」
「なつでも?」
「夏でも」
「あつくない?」
夏に火なんて、寒さより暑さが苦手な私にとっては、過酷な労働に思えた。
「火は苦手だけど、夏はむしろ、火をつけたほうが涼しいんだよ」
「ウソだあ」
絶対に信じないぞ、という意思を込めて、私は表情を作る。お姉さんは笑っていた。
それからお姉さんとの会話はコロコロ話題が変わり、私がこの家に迷い込んだ話になった。
「ずっと一人で遊んでたんでしょう? さみしくなかった?」
「さみしくないよ」
本当に、さみしくなどなかった。子供には子供の、一人には一人の楽しみがある。だが、雪が降り、あっという間に風景が変わって取り残されたことに、心細さを感じなかったと言えば嘘になる。
このままここにいると帰れなくなる、と、あてもなく歩いた。だがすぐに疲れて、気づくとここにたどり着いていたのだ。
うちのフローリングより黒くてピカピカの木の床は、じんわり暖かい。私は、自分の身体と心が穏やかになっていくのを感じた。
「おねえさんは、一人ぐらしなの?」
私は、家で一人暮らすのが夢だった。大人は、すぐ経験値で子供にマウントを取りたがる。具体的には好きなアニメに茶々を入れてくる。私はそれがたまらなく嫌で、親がいないときを狙ってアニメを観ていた。
だから、こんな大きな家に一人で住めるなら、誰の目もなく好きなことが出来るなあ、と思った。
お姉さんはうん、とうなずく。
「ずっと一人。一人で、待ってるの」
「だれを?」
私の言葉に、お姉さんは家族、と言った。
「でも、わからないの。ずいぶん、忘れちゃったから」
お姉さんの言葉に、私ははて、と首を傾げた。お姉さんは私よりずっと大人びていたが、あくまでも当時の私からしたら、で、今思えば、まだ二十歳にもなっていない、近所の中学生とあまり変わらない面差しだったからだ。
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