1 ばつぐん

『今日の放課後、ケヤキ広場まで来てください。話したいことがあります』

 どこにでもある中学校の一室。

 どこにでも居ない少年の机には、いかにもな内容の紙切れが入っていた。

 差出人は不明だが、丸みを帯びた字体や、薄桃色のノートから推測――もとい、認知バイアスに全力で乗っかるならば、女子に呼び出された可能性を勘ぐってしまう。

 一日をチャプタースキップし、少年が校庭の隅の、緑に染まったケヤキへと向かうと、目を落とした生徒が足を揃えて立っていた。おでこのニキビが確認できる距離まで近づくと、「来てくれてありがと」という第一声が生まれた。校則どおり、黒のロングをヘアゴムで結った女子生徒は、クラスメイトの森下もりしただった。

 軽く相槌を打ち、「どうしたの?」と少年は尋ねた。

「相談……いや、聞きたいことがあってキミを呼んだの」

 表情は明るくない。愛の告白にしては、その面影に恋情が欠けている。

「俺に上手く答えられるかな? AIに聞いたほうが早そうだけど」

「わたし、クラスの女子からイジメられてるの。だから、転校してきたキミの意見を聞きたくて。すぐクラスに馴染んでたキミなら、どうするか」

 森下は含みのある涙声を心の奥底で揺らすように、主題を言い放った。

 少年は、『おおよそ想定内だった』と胸奥に溜息を収めると、この先の展開を頭の中で組み立てていった。

「これもイジメの一環? 俺をからかうように――」

「ち、違う! だとしたら告白しろって命令されるし!」

 クラスでも目立たない、地味で大人しい少女は、とても悪達者わるだっしゃには見えない。感情に任せたとがり声は、魂からの叫びだろう。

「複雑な反応だ。まあ、今のは悪かったよ」

 冗談と謝罪を交えても森下の涙目は変わらず、あすの日常さえ見通せないほど悲哀に満ちていた。いつの時代、どの環境でも、イジメの対象になるのは、組織内に集まった平均的な性格に馴染めない人間である。言わば、同調性コンフォミティの差が、生徒の格差さえ生むのだ。

「加害者を腹パンしたあと不登校になるってのはどう? 自ら新しい環境を作って勉強して、イジメてきた無能を見返す。これが最適解じゃないかな?」

 居たたまれず、少年は的確な助言を与えた。が、対する森下は目の色を変えた。決して希望でも反抗でもなく――

「被害に遭ってるのに、わたしのせいって言いたいの? わたしは学校に来る意味なんてないってこと? 存在する意味さえないの?」

 人間に与えられた侮蔑ぶべつの念を、最大限に活用したであろう呵責の目だった。例えば、道端に落ちている犬のフンを一瞥した人間はこういう顔をする。

「待て待て、そんなこと言ってない。理由はちゃんとあって――」

「『理由』なら、わたしにもあるよ。だからも出してあげる。学校なんか来ても意味ないんでしょ? キミは不登校を促すくらいなんだから。だったらわたしが不登校の間、キミはわたしに会う必要があるんだよ」

 短い会話の中で、どんどん雲行きが怪しくなっていった。相談なんて端から口実で、森下が少年をここに呼んだ『理由』こそ、このイカれた思考イマジネーションだったかのように。脳内から、口内から依存心が溢れ出し、少年の思考を狂わせようとする。

 頭がグラグラするのは、破滅的思考がウイルスとなって少年の体内に侵入したからだ。イジメ加害者への抵抗には迷いを覚えつつ、共倒れには迷いがないのだからモチベーションがてんでズレているとしか――

 一歩、さらに一歩と、少年に近づいてきた森下は、救いを求める囚人のような目をしていた。もし学校に対して、『檻』という表現を使うのならば、少女の心身などいとも簡単に、檻よりも狭い――狭くて広い闇へと閉じこめてしまえる。

「違う、自宅で学習したほうが良いって意味だよ。馬鹿のまま大人になると、向こう数十年ずっと苦労することになるよ」

 けれど少年は、クラスメイトの言葉に蹌踉よろめくことなく、大人じみた言葉を続けた。やがて森下は、目を丸くしたあと、接触しかけていた体を一歩引かせた。得てして現実は、十代ティーンにとって凶暴性を孕んでいる。

「そ、そんな……。とにかくわたしはもう学校に来ないから。でも、キミにその気があるなら、いつでも会ってあげる……い、いつでもね。じゃあね」

 言いきったあとの満足そうな表情。

 背を向ける瞬間の不安そうな様相ようそう

 どちらも、彼女の本当の顔だったのかもしれない。ひどく一方的な会話から感じられたのは、笑みを見せる相手を発掘したような心の揺れだった。

「さて、どうしたものか」

 少年ひとりに示した、世界の片隅の声明文マニフェストに則り、森下は翌日から不登校になった。とはいえ女子生徒がひとり――ましてや目立たない人物がクラスから追放パージされたところで気に留める者はおらず、教室には代わり映えしない空気が停滞していた。


 ――告白から一週間が過ぎた朝、ある人物がクラスに現れた。

 そいつは般若のお面をつけ、その上からパーカーのフードを被った不審者で、右手には内容が半分ほど減ったカクテルの瓶を握っていた。直前まで飲んでいたのだろうか、処理落ちした3Dゲームのように、足取りがフワフワしている。

 不審者は隠しきれない二本のツノを誇示しながら、ほかの誰にも目もくれず、少年の机へと近寄り、

「聞きたいことがあるの。キミの連絡先」

 ふたりにしか聞こえない声量をもって、じっとりと耳元を覆ってきた。右手の酒瓶が相まって、飲み屋でジントニックを注文するかのような気軽さである。

「もう来ないんじゃなかった?」

 声の主と、その意を汲み取った少年は、メモ帳に十一桁の数字を記し、華奢な手に握らせた。異様さに気づいたクラスは徐々に静まってゆくが、ふたりはその空気の悪さに一切の配意を見せなかった。

「これが最後よ。じゃあまたね」

 仮面の奥で微笑んでいるであろう気色けしきは、生暖かく酒気しゅきを帯びている。

「また……があるのか」

「番号教えてくれたってことは、そういう意味でしょ?」

 不審者は去り際、ひとりの女子生徒の背後に近寄ると、右手に持っていたカクテルの瓶で後頭部を思いきり殴りつけ、アルコールwith甘味を拡散させた。

「あらら」

 少年は憐れみを禁じ得なかった――暴力的な香りを携え、歓声のような悲鳴を浴びながら、残った酒を口に含み、教室をあとにする般若に対して。一方、殴られた女子生徒はしばらく動かず、慌てた取り巻きが保健室へ運んでいった。

 いやはや、『腹にパンチ』ではなく『ビンでガツン』を選んだだけあり、効果はバツグンだった。

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