4 はばかり

 翌朝、廃れた社務所。

 少年は行儀悪くローテーブルで足を組んでいる。陽が昇ってもそこは薄暗く、隅までは光が届いていない。彼の目線の先には、ぼんやりと浮かび上がるふたつの影があり、それらは寄り添うように笑い声を発していた。

 影に対して、『父母ふぼ』といえばそうなのかもしれないし、まったく別の存在であるかもしれない。人声として認識しているのは少年だけで、人間が聞いたら不協和音という可能性もある。

「私の友人は、憎きトメ病床びょうしょうすのを望んだわ。ロクに動けなくなった姑を、ただ眺めていたいそうよ。あわよくば、姑を診ていると夫から見直されて、また気を引けるとでも思ってるみたい」

「斜め上すぎるな。こっちのサラリーマンは、パワハラ上司との関係を円満にしてほしいだそうだ。それにより自分を蔑んでいた同僚、後輩よりも優位に立てるとか」

「どちらも目先のことしか見えてないわね。労基と別居で即解決するのに、うふふ」

 ――少年はふたつを横目に溜息をついた。

 あの人間たちが救われたと感じるのは、わずかな間だけである。周りの人間に変化を与えたところで、生まれ持った人柄は変えられない。しばらくして、ふたたび同じような境遇におちいるのだ。


「どうだ、例の女の子は?」

「病んでる娘は大変よね」

 父母の影は仕事を納めたように、呑気な言葉を少年へと投げてきた。

「どうだか。間違ったベクトルで、俺に依存いそんしてるだけさ。見捨てるのもモヤモヤするし、今日また会ってみる」

 父母の返答を聞かないまま、少年は倦怠を見せつけながら社務所の玄関をくぐると、森下の電話番号をタップした。コールは二回――半。

『ふぁぁ……っと、おはよ。時間が経つのって、んっ――早いねえ』

 ラッシュアワーのど真ん中。眠気の混じった挨拶ととろけた吐息はなまめかしくも不快で、昨日のやり取りを想起させた。電話の向こうでは、カーテンのローラーがレールを走り、窓がカラカラと音を立てている。

「寝起きだった?」

『どうだか? でも家に帰ってからも考えてたよ、キミと離れない方法』

「答えは出た?」

『残念ながら、昨日もう出てたの。残念ながらね』

 軽いやり取りの中、自打球のような痛みが少年の心へ浸透してゆく。昨晩の時点で答えを聞かなかったのは、それだけ時間を与えてしまったということか。

「あのさ、今日――」

『ねえ、今からうちにおいでよ』

 そうして少年の本題に被せられたのは、バッドエンディングへ導く最後のフラグのような――今までの言動すべてがこの誘惑のために存在していたと錯覚させる、あまりにも落ち着いたトーンだった。

ぜん喰わぬはなんとやら?」

『だいじょぶ、親とか居ないから。今度はわたしが振る舞う番でしょ?』

 森下は続けた。本日の九時過ぎ、昨日と同じ駅前で待っていると。

 少年は懸念を覚えながら待ち合わせ場所へ向かうと、不登校児をアピールするようにセーラー服をまとった森下がベンチに座っていた。

「おっす。なんか冴えない顔ね」

「昨晩、マスかき野郎って嗤笑ししょうされたからかも」

「気にしてた? お詫びと言っちゃなんだけど、わたしの覚悟を見せたげるからさ」

 雑談もほどほどに斜め上へ向けた目線は、この数日を集約したかのように凛々しかった。再始動の決断、破滅の覚悟。どちらにでも解釈できる瞳孔だ。


 彼女のあとについてゆくと、徒歩十分ほどで公営住宅――お世辞にも民度が良さそうには見えない団地が現れた。何棟かそびえるマンションの外観にはヒビが入っており、オートロックのないエントランスには管理人の姿も見えなかった。

 無言で案内された吹きさらしの廊下。二階の角部屋の鍵を開けると、生暖かい室温と一緒に、何日も清掃していない台所の臭いが鼻孔に届いた。

 一般的な2DKの間取り。ダイニングキッチンの横を通り、造作なく奥の部屋へ招いてくる森下からは、清らかな圧力エネルギーを感じ取れる。

 散らかった部屋で学習イスを差し出され、少年がそれに応じる。同時に、森下は斜め四十五度から得意顔を見せ、ベッドへと腰を下ろした。その枕元には、無造作にレジ袋が捨てられていた。

「森下さん、ひとりで住んでるわけじゃないんだよね?」

「ここで問題です」

 相変わらず、少年の質問にまともに答えようとしない森下は、言葉に抑揚をつけながら、これ見よがしに人差し指を立てた。少年は手を仰ぎ、『どうぞ』を伝えた。

「貧乏なAさんは、友人にお金を預けて投資で儲けを得ようとしましたが、見事に大損しました。次にAさんは、別の友人に紹介されたネットワークビジネスに手を出しますが、完全に騙されて破産してしまいます。さーて、Bさんは誰でしょう?」

「Bはどこから出てきた? いや、まさか……キミの家族の話か?」

 初め、真面目に耳を傾けていた少年だったが、文末のデタラメな問題に対して首を傾げつつ、森下のバックグラウンドが関係していると疑った。

「正解は、Aと結婚してわたしを生んだ女だよ」

 彼女はいつも正否を表すように笑みの見せ方を変える。この時の笑みは――

「そのAとBは、今どこに居るんだ?」

「さあ? ふたりで買い物に行ったっきり帰ってこないの」

「お、おい……」

 世の中に上手い話は存在しない。欲に目が眩んだ人間が、その絞りカスを醜く奪い合い、結局は元締め以外が損をするシステムで成り立っているのだ。

 貧民ほど、スマートフォンという技術の賜物を所有しながらも、情報収集の方法を知らない。そういった知識の格差が愚かな家庭環境を生み、行動力の欠如によって、弱者こどもの人となりが形成される。

 そうして森下は、自分は救われないと絶念ぜつねんし、どこまでも厭世的えんせいてきに、一方で現実的になってしまったのだろう。なまじ賢い彼女は、『頼る』と『阿るおもね』を混同し、余計に人を忌避きひするようになったのだ。

 少年を疑い続けていた理由も頷ける。

「森下さんが望みを叶えることに抵抗してた理由がそれなのか? 苦労せずに救われようとしたり、他人に頼ったりする人間になりたくないから」

百均ひゃっきんに並んでるガラス細工って、チープゆえに飾るのが難しいの。壊すのはとても簡単なのに、いざとなると持て余すのよ」

「知的なポエムはもう良いよ。早急さっきゅうにキミの――」

「望みを言え? 粗悪品に対して無粋な要求するんだね」

「時間は有限なんだ。特にキミは」

 少年は隙間を見つけて、ようやく最後のトリガーを口にした。

 感応するように、森下の目に宿っていたハイライトが消えた。


「――もう……わたし欲しいもの手に入れてるし。だって自分で決めれるから。自分で人生を変えれるって思っ――思いたかった、だからアイツを殴り倒し……え、それなのに、え? なにが……変わっ……?」

「森下さん……」

「だっ……わ、わかんないし! もうキミに望みを叶えてもらうしかないの? なに、それじゃクソ親と同じ結末だし! 割を食うのはどうせわたしだし!」

 自分ではなにも変えられないのに、他人には頼りたくないと、彼女の幼い知見が、トリガラスープの中で優雅に漂う、ふわふわ卵くらい入り乱れていた。情報過多かたゆえの、取捨選択との乖離かいり

「人を殴って気づいた! 天命のことわりあらがうのは愚かだって……暴力で人生は変わらなかった! けど、他人の人生を変え――狂わせれたの!」

「違う、それは逆だって! 他人の生き方なんて変えられない! むしろ森下さんは踏み出そうとしたじゃないか! だから俺を呼び出して――」

「その理屈なら、キミはわたしを変えれないじゃん! 望みを叶えるなんて嘘!」

「俺には人を変える力が――! いや……けど、キミが望んでないならそれまでか。これ以上、とやかく言うのは野暮だよな」

 そうかといって、想定と対処に相関があるかといえばまるで違う。声を張り上げた思春期に感化され、同じ態度を取ってしまったが、平静を装おうとして余計に崩壊してゆく少女には、もう限界を感じていた。彼女は、親にも友人にも裏切られ――少年には端から期待なんてしていないのだ。

 少年が、やんわりと突き放すように森下との距離を取ると、彼女は倒れこむようにして、枕元のビニール袋に手を伸ばした。

 ――反応を待ったが、顔を伏せたままガサガサと不快な音を立てているだけで、しばらく動きがなかった。時間にして一分弱。沈黙の末、ようやく「……わかった」と発せられた森下の低いトーンは、いやに大きく聞こえた。

 少年を捕獲しようとする据わった目は、どこへいったのか。たおやかに立ち上がった森下は、左手を差し出していた。おきなの仮面をそのままめたような、ただただ恐ろしいだけの笑顔を晒して握手を求めてきたのだ。

「わたし、自分で叶えてみせるから」

 彼女の見解は予想外だったし、依然として読めない心を醸していた。それでも、まず信じたい気持ちが勝り、少年は意識せずに左手を伸ばしていた。

 なぜだか少年自身が救われた気がしてしまい、四十代独身男性が住んでいそうな物だらけの部屋で、軽い眩暈めまいを感じた。


 吸いつくように握られた手。

 途端、少年の心には強烈な負の波動が襲いかかってきた。掌に触れただけで不快を――いや、それを通り越したくわだてを感じたのだ。

「わたしの望み、『キミと離れらんない』に変えたの。自分で叶えれるやつに」

 すぐに手を引こうとしたが、彼女の握力がどんどん増していった。赤ん坊ほど弱くもなく、万力ほど強くもない。なにより、ねっとりする掌が少年の思考を狂わせた。粘液のような触感で、そうかといってぬめりはなく――少年はきこんだ。

「や、やっぱりなにか隠してたんだな?」

 少女の腕力など程度が知れている。が、少年は左手を引き剥がそうと試みつつ、現況の悪さを理解した。両者の掌はぴったりと密着しており、強引に離れようとするたび、皮膚まで剥がれそうな痛みに襲われるのだ。

「どんな間柄にも仲立なかだちは必要。わたしたちを離れなくしてくれた接着剤みたいに」

 森下の言葉と、ひっついて離れない互いの手がイコールで結ばれた。小さな掌、細い指の一本一本には、大量の瞬間接着剤が塗られていたのだ。

「馬鹿なことを……。こんなの剥離剤はくりざいでどうにかなる」

仲人なこうどはいつか接着力を失う。けど既成事実があればそれで良い。これで、しばらくは町を去れないね。あ……でも、キミの両親は捜すのかな? それとも、キミを置いてどこかへ行っちゃうのかな? もし剥がれたら……そう、あいや、でも……」

 森下がブツブツと、存在しない念仏を唱え始めたかと思うと、

「キミが何者かなんて知ったこっちゃない。ホントは恋情があるわけじゃないし。でもね、わたしはこうしてるだけで……の」

 呼吸の合間、少年は足をすくわれてベッドに押し倒された。布団に背中を打ちつけ、埃と一緒に少女の匂いが舞い上がる。圧しかかるように倒れこんでくる森下の重量で、濁った肉声が漏れた。

 彼女は右手をビニール袋に突っこむと、一挺いっちょうの裁ちばさみを取り出し、少年のTシャツの裾に、ふたつの刃をあてがった。

「おい……変なことは考えるな!」

 少年の怒声は、森下の動機を逆撫でしただけだった。彼が身に着けていたポリエステルは、開腹するかのように、真ん中から綺麗に切り裂かれた。

 躊躇いのない動作。

 奇行は続いた。

 森下は着衣していた制服を脱ぎ捨てると、くしゃくしゃになったそれがお互いの接点――左手で留まった。下着をつけていない未発達な上半身が露になり、人間としての本能を突きつけられた気分になる。

「ほら、キミも」

 不明瞭な誘い文句に沿うように、他人の苦しみなど屁とも思わぬ恍惚とした相貌で、少年の皮膚に接着剤が垂らされ、そこに華奢な身体が重なってきた。あまりにも自然な行動で、抵抗の機会さえ与えられなかった。

「わたしはキミにアニサキス」

「寄生する先を変えてほしいな」

 近すぎる幼顔。暑すぎる温もり。遠すぎる明日。

 どれも憂慮にえず、解決する手立てがない。

「なんか余裕あるくない? わたしはドキドキだよ……これからどうしようって考えるだけで、もう……わかんない、剥がそうとしちゃダメよ? そうだ、タッカーも買ってきたから、あとでトめるね」

 強いてマシな部分を挙げるなら、唇同士の接着、および下腹部が連結された状態ではなかった点か。少年が溜息をつく間もなく、

「トイレ行きたくなってきた。ついてきて、ここでするわけにはいかないでしょ? あのね、トイレって人の目を憚るから『はばかり』って言うんだよ。でもコレじゃ憚れない……どうしよ、離れらんないね。あぁ……」

 森下の全身からは熱気とともに、半永久的にしゃべり続けそうなエナジーが溢れ出していた。自らの力で、少年と離れないという望みを叶え、のみならず心身を少年に縛りつけた様は、救いをオーバーライドしているようだった。


 ――森下はいつも笑い方で正否を表す。

 彼女は今、目を半開きにさせて相好そうごうを崩していた。

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