第四章 四話 「死の間際」
地上に展開した政府軍の自走式地対空ミサイル発射機9K33オサーから発射されたミサイルが既にエンジンの一基が被弾していた左翼に直撃した事実をキャビン内で混乱に苛まれる兵士達が知る由は無かった。
高空に飛び立とうとしたところで激震したキャビンの奥へと重力に引かれて、引きずり込まれた幸哉自身も何が起こったのか理解することはできていなかった。
ただ分かるのはこのままでは絶対に死んでしまうという冷徹な事実のみ……。
「何とか姿勢を立て直せ!」
「左翼の推力を失いました!不可能です!」
コクピットではコントロールを失った機体を立て直そうとするパイロットと部隊長の怒号が飛び交っている中、キャビンの座席の一つにしがみつき、兵員室の奥に叩きつけられる災難は何とか回避した幸哉は大きく前傾した輸送機の中でどうにかして後部のカーゴハッチに近付こうとしていた。
しかし、六十度の急傾斜で傾いたキャビンの中で重力に逆らって動くことは至難の技であり、下半身はこれ以上落下しないように踏ん張ることしかできない中、兵員室の隔壁に埋め込まれた座席を掴んだ両腕の力だけで何とかキャビンの後方に移動しようとした幸哉の足掻きを更に高空の低酸素という障壁が封じる。
幸哉がどうにもできず、もがくことしかできない間にも左翼を根本から失った機体は前傾した姿勢のままで急降下していった。座席を押さえることで精一杯の両腕の力が限界に達し、加えて酸素不足のために自身の意識が霞んでいくのを幸哉は感じた。
(もう……、駄目か……)
迫りくる自身の最期の気配に観念し、両目を閉じた幸哉は限界を迎えようとしている全身の力を抜こうとした、その瞬間だった。
弱い人達を救うために生きて……。
いつの日か春の病室で母が見せた悲痛な眼差しが脳裏に蘇り、幸哉は再び両目を見開いたのだった。
(そうだ……、俺はまだ……)
低酸素の見せる幻覚か、最期を察知した本能の見せる走馬灯か、母の好きだったあの銀杏の大樹の香りが知覚された幸哉はその大樹の下で約束を交わしたもう一人の大切な人の声を思い出した。
無事で帰って来て……。
日本を経つ前、最後に聞いた優佳の声。小風の音にも似た優しい声が耳の奥に蘇った時、幸哉は抜きかけていた全身の力を再び振り絞ったのであった。
この命は自分一人のものではない。今まで自分を慕い、支えてくれた人達のためにも……。
(俺はまだ……!)
死ぬ訳にはいかない。そう胸中に念じた幸哉がキャビン後部へと進む足を何とか一歩進めた瞬間だった。
青年の悲痛な思いが天に通じたのか、はたまたパイロット達の血の滲むような尽力のお陰か、前転していた姿勢を気流の流れも相まって立て直したC-130ハーキュリーズは僅かに機体を左に傾けていたものの、奇跡的に数秒の間、地面と平行した姿勢のままで飛行したのであった。
(今だ……!)
六十度近くあった傾斜が一気にゼロになり、動きを封じる重力の呪いが断ち切れた瞬間、幸哉はキャビン後部へと向かって残り十数メートルの距離を一気に疾走した。
初めて飛び立つ高空に対する迷いや恐怖、全てを忘れて飛翔した幸哉は既に高度は予定よりかなり下がっていたが、訓練で教えられた通り体勢を整えた後、厚い積乱雲の壁を越え、マズルフラッシュの閃光が瞬く地面が見えたところでリップコードを一気に引き切り、背中に背負ったパラシュートを展開した。
その瞬間、彼の頭上を包み、僅かに小雨を降らす灰白の積乱雲が橙赤色に閃光し、遅れて届いた爆発音が漆黒の大地に轟いた。
(すまない……)
頭上で爆発した輸送機の気配を感じ、自分達を降下させるため、命の危険も無視して任務を完遂したパイロットやクルーへ哀悼と尊敬の念を送った幸哉は数百メートルまで近づいた地上を確認すると、着地への最終体勢を整えたのであった。
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