猿と私と彼女の死体

生ごりら

第1話 夏と私と彼女の死体

 ジオグラフィックチャンネルのオランウータン特集を見ていた私は不意に嫌な予感に襲われた。

 夜中で迷惑だと言うのも忘れて部屋を出て、私の部屋よりも上階に住む彼女の下へ駆けだす。

 チャイムを鳴らせど鳴らせど彼女は出てこない。倒れた時に困るからとお互いに交換している鍵を使って玄関へ飛び込むと、リビングルームから、スペイン語の様で英語の様でフランス語の様でドイツ語の様でもある音が、途切れ途切れに聞こえてきた。肌が泡立つ。

 足音も大きく、リビングのドアを大きく開け放てば。

「ああ……!!」

 この部屋の主は、オランウータンの檻からやや離れた位置で倒れていた。可愛かった顔は見る影もなく血に濡れ、崩れ、細く白い首はほとんど繋がっていない。

 いつもおしゃれな彼女の、いっとうのお気に入りだと言うワンピースも無残に破れ、血まみれだった。

「生き、生き、生きて……」

 願いを口に、震える両脚に叱咤し、彼女に近づいてみるけれど、生きているとはとても思えない。

 カラン、と、何かに躓き、爪先に痛みが走った。

「ああ! ああ!! ああ!!!」

 転ぶように跪いた私は、弾けていたらしい頭部にも手に纏わりつく嫌らしい感触にも構うことなく、グラつく彼女を抱き寄せた。

 叶わないと判っていても、この行為を何度、頭の中で妄想しただろうか。

 『だって好きな相手の前ではいつも可愛くいたいもの』そう、照れたように私から目を逸らし、ペットへ視線を注ぐ彼女の、淡く染まった横顔に、何度甘い夢を見ただろう。

 唇があったと思しき場所に口付けてみれば、金臭い臭いと、粘度の高い悍ましい感触しかしない。それでも、夢想した回数だけ、キスを繰り返す。

 最後に、きれいにセットしていたらしい彼女の髪と、チークの名残が見える頬のあった場所を撫で、わたしは彼女をそっと横たえた。何色のネイルかわからないのだけれど、綺麗に彩られていた血塗れの手と手を握らせ、胸の上に置く。

「彼女を殺したのはお前か……!!」

 さっきの怪我の痛みに疼く足で立ち上がった私は、涙をぬぐうことなく、私は檻の中を睨みつけた。

 鍵の掛かった檻の中にいるのは彼女のペットの、両頬のフランジも立派なオランウータンだ。

 道具を使う知恵もない猿畜生はやかましく鳴き、火を吹いた両目には怒りが。樹上生活をするためと言う強靭な長い腕に付着しているのは彼女の血液だろう。檻の床には大量の血液と、おそらく脳漿。

 血で濡れた胴体から激しく血液を飛ばし、長い長い腕を柵の間から伸ばすオランウータンは、正しく怪物だった。

「私は彼女が生きてくれているだけで良かったのに……!!」

 高校の時からの友達であるとそれだけの私に、彼女は誰よりも優しく、この年になってもずっと友達として付き合ってくれていた。彼女の側にいられるのなら、恋心を殺してしまってもよかったのだ。結婚式でバームクーヘンくらい何個でも食べるつもりだった。

 けれどそんなことはもう叶わない。

 テレビ台で笑う、彼女と私の写真が、彼女の家族の写真が、社員旅行の写真が、友人たちと写った写真が、彼女が胸に抱いた幼いオランウータンの写った写真が、酷く虚しい。

「だからさっさと警察に行けって……!!」

 彼女は飼っているオランウータンのことで悩んでいたのだ。数日前、彼女のオランウータンは、近所の猫を殺してしまったらしい。檻の鍵をかけ忘れたその日は、窓の鍵もかけ忘れたようで、この猿畜生は檻から脱走し、猫を殺して回っていた、と、彼女が憔悴しきっていた。

 たまたま一匹の時に見かけ、どうにか自宅へ連れ帰ったらしいのだけれど、『どうすればいいの……?』なんて弱々しく泣く彼女に、私は常識的に『警察に行こう』としか言えなかった。

 けれど、あの時、彼女に恨まれてもこの手でコイツを殺しておけば良かったのだ。

 猫を殺しまわり、彼女まで殺した、猿畜生。

(こんな殺戮オランウータンなんて……!!)

 私の殺意を本能で感じ取ったらしい。唾を吐き、威嚇を繰り返す猿畜生は、全身を使って強く檻を揺らした。振動が床を伝ったのか、テーブルの端から真新しい縄が覗いた。

 長い縄の先がリング状になっているのは公園の遊具にも似ている。コイツの新しい遊び道具のつもりだったのかもしれない。

 ――真新しい、輪状の縄がゆらゆら、激しく揺れて、揺れて。

 はっと振り返った私は、さっき足に傷をつけたものを探した。

「包丁……」

 柄まで血に濡れた包丁は、彼女が料理を作る時に使っていたものだ。包丁を持って、彼女はこの檻の前に来ていた。

(あ、あ、ああああああああああああああっ!!)

「このっ……!!!」

 勝ち誇ったようにとも聞こえる悲鳴を上げる猿畜生の長い腕に、わたしは包丁を付きたてた。

 猿畜生は耳障りに鳴き、フランジが震える。

(フランジ! フランジ!! フランジ!!! このフランジは!!!)

 私は何度も何度も、胸の中だけで、叫び続ける。

 オランウータンのオスには両頬にフランジというものがある『フランジ・オス』と『ノンフランジ・オス』がいるのだと、ジオグラフィックチャンネルの付け焼刃だが、知った。

 フランジは強いオスである象徴だ。『ノン・フランジオス』は大っぴらにメスと結婚もできないらしい。

 このオランウータンは、幼いころから彼女が飼っていたのだ。群れのオスでもなく、強さも、メスへアピールする必要がないこのオランウータンにフランジができるわけがないのだ。けれど、このオランウータンにはある。

 何故だろう、だなんて、考えるまでもない。確かに、オランウータンのメスはここにはいない。しかし、ここには、私の愛する彼女がいた。

 ――このオランウータンは、彼女の恋人だったのだ。そうして、彼女もオランウータンを恋人として受け入れていたのだろう。

 『好きな相手の前ではいつも可愛くいたいもの』、と、はにかむ彼女は、確かに、好きな相手の前だったのだ。

 そうして今日、彼女は、その恋人と心中しようとしていたのだろう。いっとうお気に入りのワンピースを着て、メイクもして、髪もセットして、ネイルで彩った包丁を携え、恋人を刺そうとした。最後にはあの縄で首を吊るつもりだったのだろう。けれど、彼女の殺意に気が付いたオランウータンによって返り討ちに合ってしまった。

(どうして、どうして、どうして!!)

 こんな猿畜生なんかを!!

「どうしてぇ!!!」

 何もわからず、私はオランウータンの腕を切りつける。

 なます状になっても、繊維一本一本を断ち切るように、何度も何度も。

 彼女の方が屈服したからこそ、フランジが発達したのではないかと言う可能性を潰すように、丁寧に、何度も。

 オランウータンが動かなくなった時、私からも力が抜けた。

 床にへたり込んだ私のスカートを、彼女の血が染めていく。

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猿と私と彼女の死体 生ごりら @simisimisijimitouhu90

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