王子に婚約を解消しようと言われたけど、私から簡単に離れられると思わないことね

黒うさぎ

王子に婚約を解消しようと言われたけど、私から簡単に離れられると思わないことね

「エスメラルダ、君との婚約を解消させてもらおう」


 それは唐突な申し出だった。

 フェルゼン王国第一王子にして、私の婚約者であるピエドラは真剣な表情で言葉を続ける。


「エスメラルダは誰もが振り向く美人で、器量も良い。

 学もあって、国民に対する愛情も深い。

 僕にはもったいない、本当に素敵な女性だと思う」


「……愛を囁かれているのかしら?」


「そうじゃない。

 頭のいい君ならわかるだろう。この国はあまりに脆弱だ。

 今は隣国が静かだから平和に過ごせているが、それがいつまでも続くとは思えない。

 もし侵攻でもされようものなら、抵抗すらできずにこの国は呑み込まれるだろう。

 もし僕が王となったときにこの国が攻められたら、僕だけでなく王妃である君の命もきっと奪われることになる。

 そうなるくらいならいっそ……」


「私との婚約を解消しようと?」


 私の問いに、ピエドラは静に頷いた。


 まったくこの男は。

 今の言葉がどれだけ私を傷つけたかわからないのだろうか。

 いや、きっと傷つけるとわかっていて、それでも私の身を案じてその決断に至ったのだろう。


 ピエドラは優しい。

 それは間違いなく彼の美点で、だからこそ私は彼に惚れたのだ。

 だが、今回だけはその優しさを受け入れるわけにはいかない。


 私は覚悟を決めた。

 婚約解消をさせないために。

 これからも彼と一緒にいるために。


「私たちの婚約は、私たちの一存でどうにかできるようなものではありません。

 明らかな不祥事でもない限り、陛下も私の父である公爵も婚約解消など認めないでしょう」


「わかってる。僕が周りを説得するよ。

 もちろん、婚約解消したことによって君が不利益を被らないように最大限の配慮はするつもりだ」


 ピエドラの意志は固いらしい。

 その表情を見ればわかる。


「……一つお聞きしてもいいかしら?」


「なんだい?」


「殿下は私のことをどうお思いになっているの?」


「愛してるよ。婚約関係がなくなったとしても、この気持ちは変わらない」


 それは力強い言葉だった。

 嘘偽りない、彼の本心なのだろう。


「その言葉を聞いて安心しました。

 殿下が私のことを思って婚約解消を申し出たということも」


「だったら……」


「ですが、その申し出を受け入れるつもりはありません」


「なぜだ! 死んでしまうかもしれないんだぞ!」


 声を荒らげるピエドラ。

 彼の優しさは嬉しいが、もし私が我が身可愛さにピエドラを見捨てるような女だと思われているのだとしたら心外だ。


「死んだりしませんよ。殿下も、もちろん私も」


「この国に僕たちを守るだけの力はない。

 そして悲しいことに、僕にこの現状を変えるだけの力もない。

 ……いきなり婚約解消なんて言われて、エスメラルダも困るよね。

 周りの説得にも時間がかかるだろうし、今すぐに納得する必要はない。

 だからゆっくり考えて欲しい。何が一番いい選択なのかを」


 それだけ言うと、ピエドラは背を向けて立ち去っていった。

 私は小さくなる彼の背を見つめながら呟いた。

「そう簡単に離したりしませんよ」と。


 ◇


 私のやらなければならないことは大きく分けて二つだ。

 一つ目はピエドラの憂慮する、他国からの侵攻による滅亡を防ぐこと。

 二つ目はピエドラとの婚約解消をさせないということだ。


 国防に関しては、既に十分な手を打ってある。

 ピエドラが憂えるような事態は絶対に起こらない。

 そこでまずは、ピエドラとの婚約を守ることにする。


 ピエドラと別れた私は、その足でピエドラの父であるフェルゼン王の執務室を訪れた。

 いくら貴族の子女とはいえ、普通は面会の約束もなく国王に会うことなどできないだろう。


 だが、私は公爵の娘であり、遠縁ではあるが王家とも血縁関係にある。

 それに次期国王であるピエドラの婚約者だ。

 今こうして王城を自由に歩き回っていることからもわかる通り、それなりの信用をフェルゼン王から勝ち取っている。

 頻繁にあることではないが、こうして予定もなく執務室を訪ねるのも初めてではなかった。


 まあ、一番の理由は私がフェルゼン王、というよりフェルゼン王国に大量の貸しがあるからだが。


「失礼いたします」


 私の声に、執務室に控えていた執事が扉を開ける。


「おお! エスメラルダではないか。

 お前が仕事以外でここを訪れるのは珍しいな」


 私が部屋に入るなり、厳つい相貌を崩してフェルゼン王が話しかけてきた。

 普段は国王として威厳のある振る舞いをしており、厳格な国王として知られているフェルゼン王。

 だが、幼少の頃から実の子のように可愛がってきた私の前ではいつもだらしない顔をしているので、個人的にはこちらの方が馴染み深い。


「実は陛下にお願いしたいことがありまして」


「ワシにできることなら、何でもしてやるぞ」


 ちょっと私に甘すぎるのではないか、それでいいのか国王、と思わなくもないが、都合がいいのでそのままにしておく。


「実はピエドラ殿下から婚約解消を申しつけられまして……」


 バンッとフェルゼン王が机を叩いて立ち上がった。


「婚約解消だと!?あの馬鹿者が!! いったい何を考えてるんだ!」


「落ち着いてください。

 殿下は私のことを思って提案してくださったのですよ。

 殿下と結婚しこの国の王妃となれば、将来私の命が脅かされるだろうと」


「そんなこと……。

 いや、あいつの視点に立てば、そう見えてもおかしくないか。

 それで、エスメラルダのお願いというのは? はっ!

 まさか婚約解消を認めろというわけではないだろうな!?

 それだけは駄目だぞ。

 お前に見捨てられたら、この国は本当に潰されてしまう」


 何事にも動じない国王の姿はどこにもなく、そこにはすがるように見つめてくる一人の男がいるだけだった。


「そんなことはしませんよ。

 なんのために私がこれまでフェルゼン王国に尽くしてきたと思っているのですか。

 全ては殿下が即位した後、安心して暮らせる場所を確保するためです。

 殿下と幸せな時間を過ごすために頑張ってきたというのに、婚約解消などしてしまえば、それこそ全てが無駄になってしまうではないですか。

 私がお願いしたいのは、殿下が何を言ってこようとも、けして婚約解消を認めないでいただきたいということだけです」


「なんだ、そんなことか。

 そんなもの、お願いされなくても認めはせんよ。

 この国にとって、エスメラルダを失うこと以上の損失などないからな。

 ……だが、そろそろピエドラにもお前のやっていることを話してもいいのではないか?

 そうすれば、そもそも婚約解消など言い出さなかっただろうに」


 フェルゼン王の言っていることは正しい。

 私がこの国のためにしてきたことを話せば、ピエドラだって私と別れようとはしないだろう。

 しかし、それでは駄目だ。


「殿下はフェルゼン王国の太陽になるお方です。

 国を明るく照らし、導いていく存在。陰の部分など、知る必要はありません。

 殿下が清廉でいられるのなら、私はいくらでもこの手を汚しましょう」


「……ワシはお前に意見を言えるような立場ではない。

 だが、現王として言わせてもらえば、綺麗なだけの王など、国のためにならぬぞ」


「私がそれを望んでいるのです。どこまでも無垢なピエドラという存在を。

 それとも、実父としては、息子が何も知らないまま踊らされているのは我慢なりませんか?」


 私の視線にピクリと肩を震わせたフェルゼン王は、長く息を吐き出すと、頭を振った。


「いや、いい。

 あれが踊らされるだけで、この国の安寧が保証されるのならば、王として文句などあろうはずもない」


「では、婚約解消の件、よろしくお願いしますね」


 私は一礼すると、フェルゼン王に背を向けた。


「エスメラルダよ。お前は今幸せか?」


 背中にかけられた問いに、私は足を止める。

 愚問だ。そんなの決まっている。


「幸せです」


 私は満面の笑みで答えると、再び礼をして執務室を後にした。


 ◇


 物心つく頃には、私はこの世を冷めた目で見ていた。

 フェルゼン王国の公爵家に産まれた私は、王国最高峰の環境で、最高峰の教育を施された。

 小国とはいえ、一国の公爵令嬢に施されるものだ。

 その水準は世界と比較しても、十分に高いものだろう。


 しかし、私にとってそれはまるで子供だましのようで。

 確かな真実があるというのに、それ認めようとしない。

 権力によって嘘で塗り固められた、仮初の真実をなぞるだけの退屈な時間。

 そんなものを学ぶことに、いったいどれだけの価値があるというのだろう。


 不真面目な私に教育係は手を焼いていたが、一度正面から徹底的にこの世の真実を突きつけてやったら、それ以降私の態度に目くじらを立てることはなくなった。


 つまらない、つまらない、つまらない。


 この世界はなんて醜くて、つまらないのだろう。

 いっそのこと、私の手であるべき姿に正してやろうか。

 だが、そんなことをしてどうなるというのだろう。

 きっと私はこの世界に落胆しながら、結局は流されるままに生きていくに違いない。


 色褪せた世界で、私はひとりぼっちだった。

 そう、彼に出会うまでは。


 ◇


 ピエドラと初めて出会ったのは、私が四歳の時だった。

 父である公爵に連れられ王城を訪れた私は、婚約者だというピエドラと対面した。


 同い年であるピエドラは、あまりに幼かった。

 言葉もたどたどしいし、一応は王族として礼を習っているようだが、その動作はぎこちない。

 まだ四歳だ。

 私自身が早熟であることは自覚していたし、四歳ならこんなものだろう。


 私は未来の伴侶となるピエドラに、何も期待などしていなかった。

 きっとこの幼子も、この世界と同じようにつまらない人間に成長するに違いない。

 そう決めつけて、私が彼を見ることはなかった。


「ピエドラ、エスメラルダ嬢に庭園を案内してあげなさい」


「はい、お父さま!」


 フェルゼン王の提案に従い、私はピエドラと王城にある庭園を訪れた。

 これからフェルゼン王と公爵とで会合でもあるのだろう。

 庭園の案内というのは建前で、顔合わせという予定を消化した私たちは邪魔ということらしい。

 それならば先に帰らせて欲しかったが、国王の提案を無下にすることで生じるデメリットを思えば、多少面倒でも従っておいた方がいい。

 いくら達観しているとはいえ、所詮は私も四歳児。

 どれだけ世界に絶望しようとも、何かを変えるだけの力など持ち合わせていないのだから。


 ◇


 王城の庭園は、見事という他になかった。

 一流の庭師によって整えられた庭園には、季節の花々が咲き誇っている。

 自然のままの、野生の美も綺麗だと思うが、人の手が入った人工の美というのもなかなかどうして悪くない。

 庭園を見て回るなんて面倒だと思っていたが、今回はフェルゼン王の提案に感謝しよう。


 一緒に庭園にやってきたピエドラが、隣で熱心に解説をしている。

 正直、草花の知識に関しては私の方が上であり、ピエドラから学ぶようなことは無さそうだった。

 それでも王族で婚約者なので、適当に相槌を打ちつつ、庭園を歩いていく。


「ここの庭園はきれいでしょう」


「ええ、そうですわね」


「ぼくが王さまになったら、世界をこの庭園みたいにきれいにするんだ」


 それはなんてことのない、子供の戯言。

 しかし、なぜだか妙に引っ掛かるその言葉に、私は初めてピエドラへと視線を向けた。


「あっ、やっとこっちを向いてくれた!」


 そこにはキラキラと輝く、ピエドラの笑顔があった。

 その瞳は透き通っており、未だ汚れを知らないようだ。


「……殿下はどうして世界を綺麗にしたいのですか?」


「きれいなものはね、みんなを笑顔にするんだよ!」


「みんなを、笑顔に?」


「だってほら、こわい顔をしていたエスメラルダも、庭園を見てから笑顔になったし!」


「私が笑顔になった?」


 私は自分の顔を触った。

 確かに口角が上を向いている気がする。

 私は笑っていたのだろうか。


「世界中がきれいになったら、エスメラルダもずっと笑顔でいられるでしょ」


 なんてことはない。

 現実を理解していない、子供の戯言だ。

 そんなものを真に受けるなんてどうかしている。


 だがもし、本当にピエドラが世界を綺麗にすることができたのなら。

 そんな世界があるのなら。

 私は心から笑顔になれるのではないだろうか。


「ピエドラ殿下、これからよろしくお願いしますね」


 その日、私の世界に初めて色がついた。


 ◇


 ピエドラは良くも悪くも平凡な子供だった。

 王族として一流の教育を施されているため、同年代の子供と比べれば十分にしっかりしているが、特出した才能があるわけではない。

 それどころか、私からしたら夢見がちな分、同年代の子供より幼いという印象さえあった。

 王族という特殊な環境に産まれただけの子供。

 それがピエドラだ。


「見て、エスメラルダ! 庭園に新しい花が増えたんだ」


 キラキラとした笑顔を振り撒くピエドラの後をついていく。

 一度顔合わせをしてからは、こうしてピエドラと二人の時間を過ごすことも多くなった。


 無邪気なピエドラと一緒にいると、婚約者というよりも、幼子の面倒を見ている気分になる。

 まあ、ピエドラの振る舞いは年相応であり、私だって回りから見たら幼子に違いないのだが。


「この花のみつはねぇ、すごく甘いんだよ」


 ピエドラは折角お抱えの庭師が手入れした花を一輪手折ると、そのまま口へと運んだ。

 チラリと見ると、少し離れたところで控えているメイドが、頭を抱えているのが見える。

 慌てた様子がないことから察するに、ピエドラのこの行動は、これが初めてというわけではないのだろう。


「綺麗に咲いていたのに、折ってしまって良かったのですか?」


 態々私が注意することではないのかもしれない。

 だが、二人が出会った思い出の庭園で、「きれい」を自ら摘むという行為に少しばかり眉をひそめた。


「だいじょうぶだよ。

 今つんだ花はね、庭師がつむ予定だったのを残しておいてもらったんだ。

 エスメラルダにもみつを吸ってもらいたくて」


 確かに良く見ると、花の咲いている位置が悪く見映えが悪い。

 それに花も少し萎れている。

 さすがに育ちがいいというべきか、勝手に庭園の花を摘むようなことはしないらしい。


「ほら、エスメラルダも吸ってみて」


 ピエドラが差し出した花を受けとる。

 公爵令嬢としては、些かはしたない行為のような気もするが、期待するような目でピエドラに見られては、吸わないというわけにもいかないだろう。


 私は花を口へと運ぶと、ツウッと優しく吸い上げた。


「っ! ……本当に甘いですね」


「でしょ!」


 砂糖菓子とは違う、爽やかで、濃厚な甘味が口の中に広がる。

 確かにこれは、誰かに勧めたくなる味かもしれない。


 私はもう一度蜜を吸った。

 うん、美味しい。


 ふと、ピエドラがニコニコしながらこちらを見ていることに気がつく。

 いつの間にか夢中になって蜜を吸っていた姿を見られたことが気恥ずかしく、私は慌てて花を口から離した。


「やっぱり、ぼくはエスメラルダの笑った顔がすきだな」


 ピエドラの突然の言葉に、私は顔がカッと熱くなるのを感じた。


 客観的に見て、私は容姿に恵まれている。

 大人たちからも容姿を讃える言葉を幾度も聞いてきた。

 賛辞など、とうに慣れたはずなのに。

 今さら笑顔を褒められたくらいで、いったいどうしてしまったのだろう。


「で、殿下、あちらも綺麗に咲いていますよ。ほら、行きましょう」


 どうにもピエドラの顔を見ることができない私は、スタスタと歩き出した。

 後ろでニコニコしているだろうピエドラを思うと、まるで私の方が子供の扱いされているようで、少し悔しかった。


 ◇


 婚約者としてピエドラの隣で過ごすうちに、いつの間にか世界を綺麗にするという彼の願いは、私の願いにもなっていた。

 ピエドラは、成長してもその瞳が濁ることはなかった。

 王族として、この世界の綺麗ではない部分に触れることもあっただろう。

 それでもピエドラがこの世界を綺麗にするという夢を諦めることはなかった。


 ピエドラならこの醜くて、つまらない世界を変えてくれる。

 彼は他の人とは違うのだ。

 柄にもなく、私はそう思うようになっていた。


 そんなことあるはずないとわかっていたはずなのに。


「エスメラルダ……」


 その日のピエドラはいつもと様子が違った。

 輝くような笑顔はそこになく、あったのはやつれた表情だけだ。


「ピエドラ殿下、どうなさったのですか?」


 普段の様子とかけはなれたピエドラの姿に、私は思わず彼の手をとった。


「確か戦を学ぶために、野盗の討伐へ向かわれたのですよね。

 そこで何かあったのですか?」


 何かをこらえるように下を向いたピエドラは、ゆっくりとその口を開いた。


「……初めて人が殺されるところを見た」


「それは、野盗のことですよね?」


 フェルゼン王国では、討伐対象となっている野盗は殺しても罪にはならない。

 それどころか、治安維持に貢献したということで、褒賞金を貰えることだってある。


 相手は野盗であり、ピエドラはこの国の王子だ。

 正式な討伐任務として向かった以上、たとえ野盗を殺したとしても、ピエドラが気にやむことなどなにもない。


「もちろんそうさ。

 彼らは手配されている野盗で、これまでたくさんの悪事を重ねてきた。

 彼の死はフェルゼン王国の平和にとって喜ばしいことだ。

 僕の目指す綺麗な世界に、彼のような悪人は必要ない」


 私の手の中にあるピエドラの手に力が入る。


「討伐に向かうまで、僕は野盗を殺すということになんの疑いも持たなかった。

 これは正しいことだと本気で信じていたんだ。

 もちろん、今でも野盗討伐は正しいことだと思う。

 でも、王国兵の手によって斬り殺されていく野盗を見たときに思ってしまったんだ。

 僕の理想とする世界に、果たして僕の居場所はあるのだろうか、と。

 綺麗な世界にするなんて言って、やっているのは人殺しだ。

 僕と殺されていった野盗に、いったいどれだけの違いがあるのかわからないよ……」


 その声は震えていて、今にも私の手を離れてどこかへと消えてしまいそうな脆さがあった。


 ピエドラの言う「綺麗な世界」というのは、結局は実現困難な理想論であり、そこに至るまでの過程を一切考慮に入れていない。

 目の前の悪を排除することは、正しいかどうかはともかく、「綺麗な世界」を実現するための一歩には違いない。

 人の死を目の当たりにするということがショックなのは理解できる。

 だが、一歩踏み出す度に揺らいでいては、いつになったって理想にたどり着くことなどできないだろう。


 ピエドラは間違いなく善人だ。

 野盗の死ですら憂えるのだから。

 しかし、結局は優しいだけの男だったということだ。

 ピエドラに「綺麗な世界」なんてものをつくることはできない。


 結局はピエドラもこの世界の、つまらない人間の一人に過ぎないのだ。

 そんな当たり前の、わかりきっていたことなのに。

 いつものように、冷めた目で自分の世界から切り捨ててしまえばいいだけなのに。


 どうして。

 どうして私の胸はこんなにも締めつけられているのだろう。


 私は産まれて初めて感じる、この理解不能な感覚に困惑した。

 ただ、ピエドラを突き放せばいい。

 誰かを突き放すことなど、当たり前にやっていたではないか。

 だというのに、ピエドラを拒絶することを考えると、胸が痛くて、苦しくてどうにかなりそうだった。


 いったい、どうしてしまったのだろう。


 ふと顔を上げると、そこには今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃなピエドラの顔があった。

 その顔を見た瞬間、私はこの胸の痛みを理解した。


(私はピエドラに、こんな顔をさせたくないんだわ)


 他人など気にも止めていなかった私が、自ら誰かに干渉しようとするなんて。

 自分の心境の変化に驚きこそしたが、そこに不快感はなく、むしろ心地よさすら感じていた。


 ピエドラには笑顔でいて欲しい。

 あの太陽のように輝く、温かな笑顔を私に見せて欲しい。


 私はピエドラの、いつの間にか随分と大きくなっていた背中に両手を回すと、そのままぎゅっと抱き締めた。


「……エスメラルダ?」


「「綺麗な世界」を目指してください。

 殿下はこの国の、私の道標なのです。

 もちろん私も協力させていただきます。

「綺麗な世界」の、みんなが笑顔でいられる世界のために」


 どうやら私も、つまらないと見下していた人たちと同じ、つまらない人間の一人だったらしい。

 こんな優しいだけの、夢見がちな男にどうしようもなく惹かれてしまっているのだから。


 つまらない人間でもいい。

 ピエドラが笑顔でいてくれるためなら、私は。


 ◇


 私はピエドラの笑顔を守るため、あることを決意した。

 それは、徹底的にピエドラの回りから醜い現実を排除するというものだ。

 当然ながら、その全てを取り除くことはできないだろうが、それでもできる限りピエドラに不要な情報が入らないよう手を尽くした。


 ピエドラは明るく、輝かしい未来を示してくれればいい。

 そこに至るまでの醜い過程は、私が整えてみせよう。


 私の見立てでは、最低でも向こう十数年以内にこの国が周囲の大国に攻め滅ぼされることはないだろう。

 フェルゼン王国は小国であるが、東西を二大国に挟まれるように立地しているため、二大国の力関係が崩れない限り、どちらか一方が攻めてくることはない。


 この平穏な時間を利用して私にできること。

 それは人材育成だ。


 私は公爵令嬢として少なくない小遣いを公爵家から貰っている。

 まずはそれを元手に奴隷を購入した。


 フェルゼン王国における奴隷の使い道は、基本的に労働力か愛玩のどちらかだ。

 私もいずれは労働力として利用するつもりだが、まず始めに行ったのは、最低限の教育だった。


 初めは奴隷に教育を施すなどどうかしていると正気を疑われた。

 知恵をつけた奴隷に反乱される可能性を考えると、教育を施すということは、奴隷に武器を与えるようなものだ。

 周りが危惧することも理解できなくはない。


 だから私は反乱の意思など持たせないために、奴隷としては破格の、快適な生活環境を与えた。

 食事、衛生、衣類、住居。

 おおよそ一般的な奴隷では満足に手に入らないものを、私は与えた。

 もちろんそれで確実に反乱を起こされないという保障はないが、それは教育だ。

 いかに自分達が恵まれた生活を送っているのかを徹底的に教え込んだ。


 ある程度人材が育ったところで、次に事業を興した。

 業務内容は貴族相手の代筆業だ。


 貴族というものはとにかく書くものが多い。

 国に提出する重要書類から、他貴族への季節の挨拶のような簡単な手紙までその内容は様々である。

 何度も何度も同じような文章を書かなくてはならないというのは、それなりに面倒でストレスな作業だろう。

 しかしそれでも、他家との良好な関係を維持するためにも、慣習となっている手紙をやめるわけにはいかない。


 そこで、この代筆業だ。

 面倒な手紙を代わりに書いて上げようというのである。


 代筆された手紙を出すなど、失礼ではないかと思うだろう。

 だが、そこは公爵家のバックアップを全力で利用した。

 貴族最高位である公爵家が行う事業だ。

 むしろ代筆業を利用しない方が相手に失礼であるという風潮を生み出した。


 初めは内容の無いような手紙の代筆ばかりだったが、次第に世に出ればスキャンダルではすまないような内容の手紙すら扱うようになっていった。


 代筆業を始めた目的。

 奴隷に資金を稼がせるというのももちろんだが、一番の目的は情報だ。

 あらゆる貴族の弱みを握ることで、フェルゼン王国内における権力を完全に掌握することに成功した。


 当然ながら、それで終わらせるつもりはない。

 稼いだ資金で奴隷を増やし、事業規模を拡大し、やがて二大国へとその手を伸ばした。


 さすがにフェルゼン王国内のように簡単にはいかなかったが、「あちらの国では利用しているぞ」、「あちらの国の情報を流しましょう」と対立を煽り、そそのかしてやれば、代筆業が浸透するまでそれほどの時間はかからなかった。

 大国とはいえ、そこに住んでいるのは所詮人間であり、楽ができる手段があれば飛びつくのが性というものだろう。


「綺麗な世界」のために、私がしたのは代筆業だけではない。

 育てた奴隷を二大国に送り出して、あちらの国の兵士や貴族家に仕える使用人と結婚するよう仕向けた。

 二大国で手に入れた貴族のコネを利用すれば、奴隷という身分を隠して結婚させることはそれほど難しくない。

 奴隷といってもその出自は様々で、フェルゼン王国内に家族が残っている者も当然ながらいる。

 自分の配偶者の故郷を攻める。

 その心理的抵抗感は、確実にフェルゼン王国を守ることになるだろう。


 貴族の弱みを握り、配下の弱みも握る。

 たとえどれだけ軍事力があろうとも、フェルゼン王国を攻めることで得られるものよりも、失うものの方が大きいと思わせる。

 それが私の狙いだった。


 いったいどれだけの人が気づいているのだろうか。

 既に二大国すら、エスメラルダの手のひらの上にあるということに。


 ◇


「エスメラルダ、聞いてくれ! 恒久平和条約が結ばれたんだ!

 それも二大国同時にだよ!」


 まるで子犬のように、パタパタと駆けてきたピエドラに私は微笑んだ。


「まあ、それは良かったですね。これでこのフェルゼン王国の未来も安泰です」


「いやいや、どう考えてもおかしいって。

 二大国がうちと態々平和条約なんて結ぶ理由がわからない」


「細かいことはいいじゃないですか。

 これで殿下の目指す「綺麗な世界」にまた一歩近づいたのですから」


「それはそうかもしれないけど……」


 どこか腑に落ちない様子のピエドラ。

 まさか目の前にいる婚約者が、二大国を脅して結ばせただなんて夢にも思っていないだろう。


「それよりも、未来の平和が約束されたわけですし、もう婚約解消だなんて言い出しませんよね?」


「それは、まあ……。陛下にも、もの凄く怒られたし。

 あんなに鬼気迫った様子の陛下を見るのは初めてだったよ」


 よほど強く叱責されたのだろう。

 ピエドラの顔がひきつっている。


(ピエドラにこんな顔をさせるなんて。陛下には後でお仕置きが必要ですね)


 そのとき、フェルゼン王の背に悪寒が走ったのは言うまでもないだろう。

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