お菓子が繋いだ恋心

吉華(きっか)

お菓子が繋いだ恋心

「すっげー旨い! これ作ったの、誰?」

 目の前で美味しそうにクッキーを頬張りながら、彼がそう言ってこちらを見た。純粋に輝く目と私の目が合って、どきりと心臓が跳ねる。

「……わ、私、だけど……」

 彼がむしゃむしゃ食べているのは、今日の文化祭で出品するために私が作ったクッキーだ。野球部の何人かに設営を手伝ってもらったから、お礼代わりにと言って渡したお菓子の一部である。家で味見と称して勝手に食べていた妹も美味しいと言っていたが、彼の口にもあってくれたらしい。

「そうなんだ! 秋羽ちゃん料理上手いんだね!」

「あ、ありがとう……って、え!?」

 今、彼は私の名前を呼ばなかっただろうか。彼は気さくな人だから、クラスメイトの事は男子も女子も名前で呼んでいると聞いた事はあるけれども。

「え、まさか違った? あきはっていう以外に読み方があるの、この名前!?」

「あきは、で合ってる! 合ってる、けど……」

「もしかして、名前で呼ばれるのは嫌な感じ?」

「ううん、そういう訳でもないよ。ただ、ちょっと……驚いた、だけ」

「驚いた? なんで?」

「だって、私は二組だから……晴野君は一組でしょう?」

 この高校にはクラスが五つある。もしかして、学年全員の名前を憶えていたりするのだろうか。それなら、大した記憶力だ。

「……あ、えっと……そう、隣のクラスまでは全員覚えてるんだ!」

 少し視線を上向かせながら、彼はそう声を張り上げて答えてくれた。何故かしどろもどろになっているけれど……男の子から名前を呼ばれるなんて幼稚園以来だから、それどころではない。かあっと火照っていく顔を冷ましたくて、少し冷えてる自身の手で頬に触れた。

「そ、そうなんだ……すごいね!」

「え、あ、うん! ありがと!」

 隣に座っている部活仲間がもの言いたげな視線を向けている気がするが、そちらを構う余裕もなかった。野球部のエースなんて、運動が苦手な私にとっては眺めるだけの遠い存在で、こうやって話す事も無いと思っていた人なのだ。それなのに、今その人が目の前にいて、私の作ったお菓子を美味しいと言ってくれて、名前を呼んでくれたのだから。

 その後、二人ともやたら大きな声で二言三言交わして、彼は帰っていった。彼がいなくなって、周りの部員がやれやれと呆れたように笑っていたが……私は、その輪に加わる事が出来なかった。


 だって、その時。私は、初めての恋に落ちて余韻に浸っていたから。


  ***


「今日はシフォンケーキだよ。プレーンだから、物足りなかったら生クリームとか蜂蜜かけてね」

「秋羽ちゃんが作ったものならそのままでも十分美味しいよ……でも生クリームかけたらもっといけるね……」

 文化祭の日以来、味を占めたらしい彼は家庭科部に入り浸るようになった。残った分は部に持って帰ると言って持って行ってくれるため、余りがちで家まで持って帰っていたお菓子が綺麗に無くなるのはありがたいんだけど……彼は人気者だから、一部からの視線が痛い。

「これは、これは。遠慮を知らないお客様が、またいらっしゃったようだね」

「部長」

 物々しい言い方で現れたのは、家庭科部の部長だ。編み棒で晴野君を突きながら、うちの大事な部員を困らせるような真似はしないでくれ給えよと窘めている。

「……秋羽ちゃん、困ってるの?」

 リスみたいに口いっぱいにケーキを頬張りながら、なかなか答えづらい事を聞かれてしまう。困ってないと言えば嘘になってしまうけれど、損得や周りの事を考えないでいいならば……彼と一緒にいられるこの時間は、純粋に嬉しいのだ。

「困ってはないよ。でも、晴野君練習あるでしょ?」

 ここに来る事で練習時間が減ってしまっているなら、それはよろしくない事だ。チームワークにだって関わってくるだろうし。

「休憩中に来てるから大丈夫だよ。部長には了解得てるし」

「え、そうだったの?」

「野郎共の練習のモチベが上がるような、女の子の手作りお菓子を持って帰ってくるっていう条件付きで許してもらった」

 むぐむぐと咀嚼しながら、そんな取引の内容を明かされる。傍らで聞いていた部長が、そういう事なら一度そちらの部長と交渉するかな、と呟きした。だから大丈夫だよと笑う晴野君への上手い言葉が出てこず、そっかぁ……と簡単な言葉だけを返す。

「……そういえば、もうそんな時期なんですね」

 話題を変えようと思って、部長が持っていた編み棒を見ながらそう告げた。晴野君が尋ねてくる日は決まっているので、その時以外は編み物を進めようか。そんな計画をぼんやりと思い浮かべる。

「そういえばそうだぞ。近いうちに買い出しに行くから、秋羽君も今のうちから何を作るか考えておくといい」

「分かりました」

 去年作ったのは妹にせがまれたマフラーと帽子だったので、今年は自分用に何か作ろうか。そんな事を考えていると、食べ終えたらしい晴野君がじいっとこちらを見つめていた。

「……秋羽ちゃん編み物も出来るの?」

「う、うん、一応……セーターとかはまだ無理だけど、マフラーとか小物類なら……」

「俺ね、去年まで使ってたマフラーがだいぶ傷んじゃったんだよ」

「そうなの?」

「うん。野球部の練習って朝早いし夜遅いから、マフラーないとなかなか辛くって。でも、これって思えるものがなかったから、新しいのまだ買ってないんだよね」

「う、うん……?」

「だからね」

 そこで言葉を切ると、晴野君は私の前にずいっと身を乗り出してきて、ぎゅうと両手を握ってきた。片想いしてる相手からのいきなりの接触に、一気に鼓動が加速する。

「秋羽ちゃん、俺のマフラー作ってくんない? もちろん、材料費は渡すし、何ならお礼代わりに上乗せするよ?」

「……え!?」

 聞き間違いだろうかと思って、まじまじと彼を見つめてしまった。食い入るように見てしまったからなのだろうか、晴野君の顔が食紅で染めたみたいに真っ赤になっている。

「わ、私、編み物の腕前は普通だよ? 部長とかと比べたら、まだまだ……」

「秋羽ちゃんの手作りならいいよ。丁寧に作ってくれそうだし」

「そりゃ、人様宛てに作るなら丁寧に作るけど……」

 そんな会話をする私達を一瞥した部長が、論点がずれている気がするのだが、とため息をつきながら突っ込みを入れた。

「そういうのは、普通自身と縁が深い人……例えば、家族や付き合っている彼女とかに頼むものでは?」

「部長!」

 聞きにくい事をさらっと言ってのけた部長に対して、思わず咎めるような事を言ってしまう。だって、その問いの答えを知るのは、とても怖い。

「確かに、材料費等を払うなら正式な取引を言えるから問題はなさそうだし、秋羽君は家庭科部に一年半は在籍している。そこらの一般人よりかは腕があるだろうが、そういう仕事を請け負うプロという訳ではない。それでも、君は秋羽君の手作りが良いと?」

 じわりと手の平が湿る。返答を聞くのが怖いけど、だからと言って駄々っ子のように耳を塞ぐわけにもいかない。なので、恐怖と拒絶の言葉を飲み込んで、彼の返答を待った。

「そうです。俺は、秋羽ちゃんの手作りが良いです」

 はっきりと断言してくれた声を聴いて、思わず、彼の顔を見上げた。はっきりと目が合うと、彼は少し照れたような表情を浮かべだす。でも、もう一度きりっとした顔になり、部長に向き直った。

「お菓子だって作ってもらってるし、最近は廊下で話しかけたら笑顔で挨拶してくれるし。そんなに縁遠くはないはずだから、問題ないでしょう」

 はっきりと言い切ってくれた彼の横顔を、胸をときめかせながら眺めていた。ああ、やっぱり私はこの人が好きなんだと、場違いな事を考える。

「……済まなかったね、試すような事を聞いて。秋羽君は大事な部員だから、やはり少し心配でね」

 眼鏡を上げながら、部長が微笑んだ。部長が微笑んだ顔を見るのは、いつ以来だろうか。

『蒼汰が好きなのはあんたじゃなくて、あくまでもお菓子の方なんだからね。調子に乗んないでよ!』

 かっこよくて、野球部で活躍していて、素直で明るい彼は……同性にも好かれているが、もちろん女子からも人気が高い。そんな彼が一人の女生徒にずっと構っているとなれば、当然嫉妬する子も出てくるだろう。幸いな事に、いじめとかそういうのまでには発展していないけど……睨まれたり、恨み言を言われたりした事はあった。

 そして、そんな言葉を吐き捨てられた現場に偶然居合わせてしまった部長は、ずっと私を心配してくれていた。個人の事で迷惑をかけて申し訳ないと謝る度に、秋羽君が悪い訳ではないだろう、部員の悩みは部長である私が気にかけないとな、と気遣ってくれた。彼女らの負け惜しみに屈する必要などないとも言ってくれた。

「出来れば、もっと別の言葉を聞いてみたかった気もするが……それは流石に無粋かな」

 直ぐに表情が戻ってしまった部長が、不思議な事を呟いた。首を傾げた私に向かって、何でもないよと笑っているけれども。

 釈然としないまま、ちらりと彼の方を確認してみる。すると、彼は何故か真っ赤になったまま、ぴくりとも動かないでいた。


  ***


「わざわざ呼び立ててごめんね」

「ううん、大丈夫だよ……はい、これ」

「おお……本当にマフラーだ……」

 紺色の毛糸で作られた無地のマフラーをしげしげと眺めながら、晴野君が呟いた。巻いてみてもいいかと聞かれたので、どうぞと促す。

「もこもこで温かい……」

 ぐるぐるとマフラーを巻き付けた晴野君は、何だか可愛かった。少し長いかもしれないから、折って使うといいよと伝えておく。

「ありがとう、秋羽ちゃん」

「どういたしまして。気に入ってもらえたなら良かった」

「めっちゃ気に入った。嬉しい」

 にかっと笑いながら、彼がそう言ってくれる。やっぱり秋羽ちゃんに任せて良かったとも言ってもらえたので、作った甲斐があるというものだ。

「……俺の方からも、渡すものがあるんだよ」

「そういえば、そう言ってたもんね。その紙袋のやつ?」

 いつも私が渡すばかりで、彼から何かをもらった事はほとんどない。いつももらってばかりじゃ悪いからと、放課後に何か奢ると言ってくれた事もあったけど……人目を気にしてしまって、断ってばかりだったのだ。

 断る度に、彼は残念そうな声で、眉を下げた悲しそうな顔で、それでもわかったと言ってくれていたけれど。好きな人にこんな顔させてしまうなんてという自己嫌悪と、それでも女の子達の視線が怖いからと思ってしまう自分の弱さが、いつもいつも嫌だった。

「うん、そう。はい……開けてみて?」

 だから、渡したいものがあるんだ、それならいいでしょって言われた時、今度こそ応えたいと思った。何かを渡して、ありがとうと喜んでもらえる。それが何物にも代えがたい幸福だというのを教えてくれたのは、他でもない彼だったから。

「……これ、クッキー?」

 受け取った紙袋の中に入っていたのは、シンプルなバタークッキーだった。ふわっと香るバターの香りが食欲をそそる。紅茶のお茶請けに丁度よさそうだ。

「そう。秋羽ちゃんが初めに俺にくれたのが、これだったでしょ」

「覚えてたんだ……」

 あれから半年近くがたった今、既に数えきれないくらいのお菓子を彼に贈った。その中には、豪華なマドレーヌとかカップケーキとかもあったから、最初の素朴なお菓子を、覚えているとは思わなかったのだ。

「ネットで検索して見つけたレシピのだから、秋羽ちゃんの味には遠く及ばないかもしれないけど。俺にとって、秋羽ちゃんとの一番の思い出の菓子って言ったらこれだから。だから、俺の手で作って、今日この日に渡したかったんだ」

 いやに熱っぽい目をしている気がする。胸が高鳴っていくとともに、今日は、そんなに特別な日だっただろうかと不思議に思って……そういえば、二月十四日だったと思い出す。

「俺、一つだけ秋羽ちゃんに嘘ついてたんだ。良くないって思ってたけど、それが嘘だって言ったら、理由言わないといけないから。だから、なかなか言えなかった」

 嘘をついていた。そんな素振り一切見なかったから、意外な思いで彼に視線を向けた。皆目見当がつかないのだが、一体何に対してだろう。

「秋羽ちゃんと最初に話した時に、どうして名前を知ってるのかって言われたでしょ? 隣のクラスまでは全員覚えてるんだって言ったけど、それ、真っ赤な嘘。覚えてるのは……そうだね、今でようやく半分くらい」

 半分でも凄いと思うけれども。そう思ったが、話の腰を折ってしまいそうなので、口を噤んだままでいた。

「そもそも、当時隣のクラスで覚えてたメンバーって、秋羽ちゃん以外は野球部に関わる奴だけだったんだ。同じ部活だから覚えていた訳で……だから、秋羽ちゃんの名前を憶えていたのは、もっと別の理由なんだよ」

「別の、理由」

 人気のない校内の一角。二月十四日という日取り。まさか、まさかと気が逸って期待して。真冬だというのに、掌がじっとりと汗をかき始めた。

「…………ひとめ惚れ、だったんだ。だから、あの子は何組だって、何ていう子なんだって気になって。二組の野球部員の奴に名前聞いて、それで、覚えてた」

 手に持っていた晴野君からの贈り物が、ごとりと音を立てて落ちていった。貰い物なのにごめんなさいと謝って、拾うために腰を下ろして膝をつくと。追いかけるようにして、彼も同じように膝をつく。

「練習の帰りに、カフェでケーキ食べてた秋羽ちゃんを見つけた事があるんだ。その時に、美味しそうに食べてるのが可愛いなって思って。その時隣にいた女の子が羨ましくて、同じように出かけたいって、一緒にケーキ食べたいって、あの子の事好きになったんだなって思って……だから、家庭科部の手伝いに行くメンバーに立候補したんだ。そうしたら、話すきっかけができるって思ったから」

 拾おうとしてた手を取られて、マフラーを作ってほしいとお願いされた時みたいに握られて。真っ赤に火照った自分の顔が、一生懸命な彼の瞳に映っている。

「お菓子もらいに行くようになったのも、マフラー作ってほしいって言ったのも、秋羽ちゃんが好きだからだったんだ。好きな子が手作りしてくれた物が、欲しいって思ったからだったんだ」

 喉は、からからに干上がっていた。何か言葉を発しようとしたのだけど、何を言っていいか分からなくて。音にならなかった吐息が、口からそっと漏れていく。

「秋羽ちゃん、いや……川越、秋羽さん」

「……は、い」

「俺は、あなたの事が大好きだ」

「は、い」

「だから……俺の彼女に、なってくれませんか」

 贈られた言葉が体中を駆け巡って、全身が沸騰する。衝撃が、感激が、喜びが、この身全てを幸福に湧き立たせた。

「……はい」

 何とか絞り出した返事を、口から零す。彼が握ってくる手に、ぐっと力が込められた。

「わた……わた、し、も……あなたが、好きです。晴野蒼汰さんが、大好きです」

「……っじゃあ!」

「はい……私を、あなたの彼女に、してください……」

 緊張で、声は掠れてしまったけれど。どうしようもなく震えてしまって、途切れ途切れの言葉になってしまったけれど。言いたかった事は、きちんと伝えられた。

「もちろんだ!」

 握られていた手が解かれて、私の背中に回された。いきなりのゼロ距離に、再び心臓が疾く駆け出す。

「どうしよう、今まで生きてきた中で、一番嬉しい」

 耳元で、彼の低音がそう紡ぐ。ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、恥ずかしさと嬉しさが溢れんばかりに込み上げてきた。

「これから、よろしくね。俺の秋羽」

 きらきらと輝く瞳が、私を見つめている。近づいてきた顔に一瞬だけ怯んでしまったが、ぎゅっと目を閉じてそのまま受け入れた。

「……こちらこそ、よろしく」

 互いの口を離した後で、彼を見つめ返しながらそう言った。震える声で、蒼汰君と呼んでみる。  すると、彼は今まで見た中で一番と言えるくらいの、嬉しさを滲ませた笑顔を見せてくれた。

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