第Ⅰ1節


 c 打ちのめされた娑婆


 第三章「打ちのめされた娑婆」は、「何十年にもわたって自分のなかに《群島》を抱えていた」ソ連社会について述べる。『群島』では収容所は「癌腫」にたとえられている(第三部第三章「群島は癌腫を転移さす」)。癌腫が恐ろしいのは、「何よりもそれが毒を出して全身を冒」すからだ。《群島》を孕むことによって形作られたソ連社会の生活の特徴をこの章でソルジェニーツィンは数えあげていく。「われわれは自分たちがそのなかで生きていたわが国のあらゆる醜行(略)を描写することができるだろうか? いや、その勇気があるだろうか? 」とソルジェニーツィンは問いかける。「もしこの醜行を十分に表現することができなければ、それは偽りとなってしまうのだ。」ところがソ連の文学は検閲によってそれが出来ない。スターリン批判が行われ、ソルジェニーツィンが文壇に登場した後も、「口をちょっとすべらせる」ぐらいでしか表現できないのだ。「したがって私は、三十年代、四十年代、五十年代にはわが国にと考えている。なぜなら、真実を欠いたものはもはや文学ではないからである。」文学は真実を描かなければならない、というのはソルジェニーツィンの不抜の文学観だ。

 さて、「口を大きく開いた《群島》の上にぶらさがっているかのように見える」ソ連社会の生活の特徴として挙げられるものは、⑴絶えざる恐怖、⑵定住制度 ⑶秘匿性、不信 ⑷全面的な無知、⑸密告制度、⑹生存方法としての裏切り行為、⑺堕落、⑻生存方法としての虚偽、⑼残酷、⑽奴隷的心理、である。

 ⑴は先ずもって逮捕への恐怖だ。囚人の数が足りないくらいだから、《群島》への補給は常に行われており、「人を逮捕していなかった時間は一分もなかったのだ」。この国では「それぞれの住民の足もとに《群島》という奈落(そして死)があった」。恐怖は逮捕についてばかりではなく、「いくつもの中間的段階」があった。調査、アンケート記入、解雇、住民登録の取消し、追放または流刑である。「アンケートはきわめて詳細に、深くさぐりを入れるように作成されてあったので、住民の半数以上が(略)それを記入する時期が近づいてくると、常に不安な日々を過すのだった。」

 ⑵は住民を住む土地に縛りつけるもので、「自分の身に危険の迫った土地を自由に立ち去ること」ができない住民にとって、「自分が住んでいるところで、あるいは働いている職場でことは無鉄砲な行為だった」のである。

 ⑶「秘匿性」はソビエト人にとって「必要欠くべからざるもの」であった。帝政時代に将校だったことを妻に打ち明けなかったおかげで投獄を免れたK・Uという男の話。K・Uの弟のN・Uが逮捕された。その妻は夫が逮捕されたことを口外を恐れて父にも妹にも知らせず、夫が自分を捨てたということにして三十年を過ごした。大学生V・Iの女友だちの父親が逮捕された。こんな場合はそっぽをむくのが普通だが、彼は彼女に同情して、手伝いを申し出た。彼女はびっくりしてV・Iを密告者、あるいは反ソビエト組織の一員と疑い、「自分は逮捕された父の無実を信じていない、きっと父はこれまでずっと自分の罪を家族に隠していたのだ」と言って助けを拒絶した。ソルジェニーツィンはこれらの例を紹介して、「この全面的な相互不信が、奴隷制度の共同墓穴をさらに深くしていた」と書いている。

 ⑷市民内部の隠し合い、相互不信が権力による「と絶対的な情報秘匿」を許し、助ける。「われわれは互いに何も話さず、大声を張りあげることも、小声で囁くこともせず、互いに情報を交換することもせず、自分自身をひたすら新聞やお上の演説者たちの手に委ねたのであった。」

 ⑸これは「考えられぬほど発達している」。「何十万にものぼる係官たち」が、「情報収集に必要な人数をはるかに上回る密告者たちを絶え間なく募集」している。「このような大量募集の目的の一つは(略)国民一人びとりが情報提供者たちの息吹きを感じるようにするためだった。どんな集まりにも、どんな職場にも、どんなアパートにも(略)そこに密告者がいるのではないかと皆に気をもませるためにであった。」こうして秘匿性が国民の間に更に広がっていく。

 ⑹最も軽く、最も普及している裏切り行為は知らぬふりをすることだ。隣人とか同僚とか、親友までもが逮捕されても、気づかないふりをして黙っていることだ。昨日消えた人が総会の席上で「人民の敵」だと発表されると、二十年も一緒に働いている仲間なのに、沈黙によって、あるいは非難演説によって、自分が彼とは無縁であることを示すのだ。逮捕された者たちには、妻、母、子供たちが残されている。「何か手伝ってやるべきか? いやいや、危険だ――それは妻だ、敵の母だ、敵の子供だ(略)! 」ソルジェニーツィンは逮捕された人の家族が誰からも援助を受けられず、子は学校をやめ、孤児収容所に入り、母親は職場をクビになった例をあげている。また、逮捕された父または母を、残された子が生きていくために、「ソビエト人民の敵である」として否認する例も多かったという。逮捕された親たちには子の将来を思って、そのように仕向ける者も少なくなかった。「アレクサンドル二世時代にダイナマイトを保存することは、スターリン時代に人民の敵の孤児となった子供を引き取ることよりもはるかに安全だった。」しかし、逮捕された人の家族を援助する者もやはりいた。逮捕された人を弁護する者もやはりいた。しかしそれらの「ロシアの生きた一筋の糸」というべき勇気ある人びとは「即座に引っ張られ(略)断罪されて《群島》送りとなった」。「もっと清らかでもっと優れた人びとは誰一人この社会には残れなかったのだ。ところが、このような人びとがいなくては、その社会はますます落ちぶれる一方であった。」

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