第9節
第四部は「魂と有刺鉄線」と題されている。「有刺鉄線」すなわち収容所が人間の魂にどんな影響を与えるのかを考察した部である。これまでもソルジェニーツィンは作家らしく、どんな主題を扱ってもそこには人間を見つめる眼差しがあったのだが、この部では特に、収容所という一種の限界状況におかれた人間の心の深部に起こる変容を、集中的に考察している。「文学的考察」のなかでも最も文学的な部分だと言えるかもしれない。この部は全四章、七十ページほどの分量だ。
a 向上
第一章「向上」は収容所生活が人間の魂を「向上」させることを述べる。これはソルジェニーツィン自身の体験が核になっている。
「私の考えでは、統計的に見て、収容所の自殺は人口千人に対して娑婆よりも少なかったように思う」とソルジェニーツィンは書く。その原因は、自分は潔白であるという意識を多くの囚人が持っていたからではないか、と彼は推測する。《群島》の「原住民百人中の」五人は無頼漢であり、五人は国家の大金を着服した連中で、八十五人は無実の者だ。無頼漢にとって犯罪は手柄であり、「国民の金を無意味にばらまいている」国家の金を横領した連中も「べつに後悔することもない」とすれば、「収容所群島は良心の呵責など知らないのである! 」。無実なのに収容所に入れられたのは災難であり、「災難には屈してはならない」という意識が自殺をさせなかったのだ。「釈放の日」まで、「どんな犠牲を払っても、生き残ることだ! 」。ここで、「《どんな犠牲を払っても》とは、他人を犠牲にする、という意味である」。これは「収容所生活の重大な分岐点」である。「この点から道は左右に二手に分れ、一方は上へ昇り、他方は下へさがるのである。右へ行けば、生命を失い、左へ行けば、良心を失うのだ。」「この魂の分れみちで、大部分の人びとが右の道へ進むのではないということだ。(略)だが、幸いなことに、一人や二人といったごく少数でもないのだ。」ソルジェニーツィンは「右」の方向を選んだ「自分のことを声を大にしては決して語らない」人びとの例を挙げている。そして、この「落ちついた純朴な人びとの歩む道に足を踏み入れるならば」、それは「あなたのそれまでの性格を驚くほど変えてしまう」のだ。
ここで語られるのは回心に類するものだ。「以前のあなたはいつもきびしく短気であり、いつもどこかへ急いでおり、いつも時間が足りなかった。だが、今はその時間がありあまるほどたくさんあって、あなたはその時間を月ごとに、年ごとにたっぷりとこれまでも吸い、これからも吸うのである。そして、心を落ちつかせる天佑の液体のように《忍耐》があなたの血管を流れはじめるのである。あなたは昇っていくのだ…… 以前のあなたは誰にも何をも許そうとしなかった。あなたは容赦なく人びとを批判し、同じように過度に人びとを称讃した。今は理解力ある柔和さが、あなたの非原則的な判断の基礎となった。あなたは自分の弱さを知った。だから、他人の弱さも理解できるようになったのだ。他人の強さにも驚くようになった。そして、その強さをまねしたい、と望むことができるようになったのである。」これを読むとソルジェニーツィンの離婚した妻であるレシェトフスカヤが書いた『私のソルジェニーツィン』(中本信行訳 サイマル出版会)の一節を思い起こす。そこに書かれている同級生の思い出によると、ソルジェニーツィンは感受性が強く、プライドの高い生徒だったようで、他の子が自分よりいい成績をとると「内心おだやかならず」、自分の回答が「五点」をもらえないと「まっさおになり、卒倒しかねなかった」という。「些細なことにも病的に反応するので」、「批判的なことは少しも言え」ず、級長だったソルジェニーツィンがこの同級生ら三人を「風紀紊乱の罪におとしいれたときにも、僕たちは黙っていた」という。教師たちもソルジェニーツィンの「神経過敏症を気にしながら動いていた」から、そのため「自分は並外れた人間であるという信念」が彼に生まれたのだという。誇張した表現がされていると思うが、少年時代のソルジェニーツィンの風貌の一端を伝えるものだろう。レシェトフスカヤはソルジェニーツィンを理解していた妻ではなかったが、収容所生活を経た彼は「他人の痛みを理解しはじめる」と書いている。
回心は更に深まる。「たしかに、あなたは無実で投獄された。国家の前で、その法律の前で、あなたは後悔することは何もない。だが、ほかの個々の人びとの前ではどうか? 」ソルジェニーツィンはボリス・ニコラエーヴィチ・コルンフェリドという収容所病院の医師の「この地上の生活ではどんな罰も理由なくしては下らない、と私は確信するようになりましたよ。そりゃわれわれの犯した悪いこととは一見無関係にその罰が下るように見えることもありますがね。しかし、自分の人生を顧みて深く考えてみると、必ずや罰の対象となった罪を見出すことができるのです」という言葉を「人生一般の法則であると認めたい気持にかられている」と書く。そして彼は一度は拒んだ「神」を再び見出すようだ。「善悪を分ける境界線が通っているのは国家の間でも、階級の間でも、政党の間でもなく、一人びとりの人間の心のなか、すべての人びとの心のなかなのである。この境界線は移動するもので、年月がたつにつれてわれわれの心のなかで揺れ動いているのだ。(略)それ以来、私は世界のあらゆる宗教の真理を理解した――それらの宗教は人間のなかにある悪(各自のなかにある)と闘っているのだ。悪をこの世から完全に追放することはできないが、人間一人びとりのなかでその領域を狭めることはできるのである。」「《おのれ自身を知れ! 》である。自分自身の犯した罪、失敗、誤りをしっかり検討して考え直すことほど、われわれのなかに全面的な理解をよびさますものはない。」監獄のなかで「魂を成長させた」ソルジェニーツィンは、「監獄よ、おまえに祝福あれ! 私の人生におまえがあったことを感謝する! 」と「臆することなく」言うのである。だがこう書いた後、この章の末尾に括弧で括って「(だが、墓場からは私にこんな返事が返ってくる――君は生き残ったから、そんなことが言えるのだよ! )」と書きつけている。
この章の主題からは離れるが、ソ連においてマルクス主義がどのように受容されていたかについて少し考えてみたい。というのは、魂の「重大な分岐点」で、「向上」ではない方向に人びとを導いたものの一つとしてソルジェニーツィンがその《教義》を挙げているからだ。「《結果が重要である》という観念」がそれらの人びとを動かしたのだが、その観念は「あらゆる種類の社会主義者たちから、特に何よりもまず《結果が重要である! 》ということだけに基礎を置いている最新の、絶対に誤りのない、せっかちな《教義》から生れたのだ。戦闘的な党を鍛えることは重要である! 政権を奪取することも! 政権を維持することも! 政敵を排除することも! 銑鉄や鋼鉄の生産で西欧諸国を追い越すことも! ロケットを打ち上げることも! この産業のために、このロケットのために、生活の基盤をも、家庭の団欒をも、国民精神の健全さをも、(略)犠牲にしなければならなかったけれども、そんなことはどうでもよかったのだ! 結果が重要だったのである! 」ここで「最新の、絶対に誤りのない、せっかちな《教義》」とあるのがソ連では「マルクス=レーニン主義」と言われていたものだ。ついでに言えば、その後に続く「戦闘的な党」から「政敵」までの感嘆符がついたテーゼはレーニンのそれだ。この表現を見ても、ソルジェニーツィンがその批判の対象からレーニンを除外していないことがわかる。と言うより、彼は別の著書(邦訳『仔牛が樫の木に角突いた』)で、「全体主義国家の天才的な図式をレーニンが計画し基礎づけ、スターリンが発展させ強化した」と書いているので、両者を連続したものと見ているわけだが。それはさておき、生き残るために密告者(ストウカチ)となって仲間を裏切ったとしても、「その報酬として良い場所を与えられ、ひょっとしたら、期限前の釈放も許されること」にでもなれば、「《絶対に誤りのない教義》からすれば、ここにはいかなる欠点もない」ことになる。なぜなら、有利な結果を得たのであり、「重要なのは―その結果」だからだ。こういう思考がソ連社会に浸透していたから、粛清で国家や党の幹部の裏切りが発表されると、国民は首をかしげて、「何の不足があって、そんなことをしでかしたのか? 」という反応を示すとソルジェニーツィンは書く。食べ物も、背広も、別荘も、自動車も、飛行機も、つまり、具体的な形として表れた結果(モノ)はたくさん持っていただろうに、というわけだ。マルクス主義の唯物論が、タダモノ論として、物質的なものだけを偏重する考え方として広められ、受け取られていた状況が観取されるのだ。「少年囚」の章にも「経済だけを大前提として心理をまったく考慮に入れていない《社会に関する偉大な教義》」という批判的記述がある。そんな思考法に対して、ソルジェニーツィンは「何年も全ソ連邦の徒刑地でひどい労働をしている」人間として、「重要なのは(略)結果ではなくて、その精神なのだ! 何をしたかではなく、いかにしたかなのだ。何が達成されたかではなくて、どんな犠牲を払ってやったかなのである」と反論している。
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