第11話 課題5 キャラが「立って」いるか?!

 キャラクターがありきたりであるとの指摘を、みのりんは受けていましたね。

 では、「ありきたりでないキャラ」にするには、あるいはありきたりではあったとしても、ストーリー全体の中でそのキャラクターを確実に生かしていくためには、どうすればよいか。

 それはもう、この一言に尽きるでしょう。

 

 キャラを立てること。

 ずばり、その一点に、精力を注ぐこと。


 確かに、筆者と同世代の人間と人魚、どちらも性別では女。特に性的な面での問題点とか、そういった論点は、なし(あるといろいろ問題あるからね、ここではそのような例については論じない)。

 その二人の主人公たちのキャラクターを際立たせる特徴というものが、きちんと確立できていたかというのが、みのりん小説における大きな問題点の一つではないか。


 1981年アカデミー賞受賞作品「CHARIOTS of FIRE(邦題「炎のランナー」)」には、主人公が2人います。

 リトアニア系ユダヤ人の息子でケンブリッジ大学生のハロルド・モーリス・エイブラハムズ(実在。法廷弁護士・ジャーナリスト。生没年1899-1978)と、スコットランドの英国国教会の宣教師の息子(他しか次男坊)でエディンバラ大学生のエリック・ヘンリー・リデル(同。宣教師として中国に赴任。後に日本軍の捕虜収容所で死去。1901-1945)。

 彼らはどちらも、1924年のパリ五輪に陸上競技の選手として出場。エイブラハムズは100メートル金、リデルは400メートル金と200メートル銅の各メダルを獲得。このあたりの設定はおおむね実在通り。

 さて、実在の両氏についてはともかくとして、この映画上で描かれるエイブラハムズ青年は、ユダヤ人であるが故の英国社会からの偏見を克服し、その世界で名を成し生きていくための基盤を作るべく、オリンピックを目指す。そして途中から、サム・マサビーニというコーチについて、100メートル走に照準を絞った科学的トレーニングを受け、見事金メダルを獲得する(公式記録は10秒6)。一方のリデル青年は、宣教師として父が赴任している中国にいずれは戻る腹積もりだが、まずは英国人として教育を受けるべく、故郷のスコットランドに戻って学業にいそしんでいるのだが、こちらはというと、「神の聖名」を高めるべく、オリンピックの金メダルを目指す。その過程で、日曜日に設定されたオリンピックの100メートル予選を棄権し(実在の事件だが、この映画のストーリーのような実話があったわけではない)、400メートルに変更、そしてそこで、見事に金メダルを獲得する。

 この二人の出自、同じ目標に向かって進むにあたっての動機、そしてその後生きていく上での青写真は、まったく違う。

 しかしこの二人とも、彼らなりにしっかりとしたものを持っていて、それが、制作者各位をして、彼らの「キャラを立てる」ことに相つながっているのです。そして、その違いを踏まえながらも、いつの時代も、どの社会でも変わらない、普遍的な若者の姿を描いている。

 だからこそ、この映画は40年経った今でも世界各地で見られているのです。

 この映画の成功要因は、二人の主人公を対比して描きつつも、そこに相違点を提示しつつも、人間の普遍的な姿を鮮やかに描き切ったことにあると言えましょう。


 さて、名作のうんちくはこのあたりにして、われらのみのりん小説のほうでは、どうだったのだろうか?


 文芸部の先輩が、ストーリーだけでなくキャラについてもありきたりだと指摘したということは、間違いなく、人魚女子と人間女子を二人をきちんとキャラ立てで来ていなかったことが最大の原因ではないのかと思われます。

 しかるに、その先輩文学少女にとって、みのりん小説の登場人物は、どのように映ったのであろうか?

 という命題に対しては、こうお答えするのがよいかと思われる。

 単に同じようなキャラクター、かたや人間、かたや人魚。それが出会って、ただただ、何か触れ合っているだけの状態。

 そんなところじゃ、なかったかな?


 まあその、裁判の訴状だとか、誰ぞの日記であれば、それでもいい。というか、下手な「キャラ立て」などすると、特に前者では裁判官の事実認定や相手方(被告側もしくは原告側。まあ、この場合は前者のパターンとなるであろう)の認否において不必要な混乱を起こす可能性もありますからね。

 だけど、あくまでもストーリーを読んで楽しんでもらうための、何かを感じ取ってもらうための創作であれば、そういうわけにもいかん。

 楽しんでもらうには、人を楽しませてくれるキャラクターに大いに活躍してもらわないといかんでしょう。そのためにこそ、主役級のキャラクターというのは、大いに「キャラ立て」、まあ、プリキュアなら「キュア立て」と言ったらちょうど実態に合う表現だと思うけど、それはまあそれ。

 とにかく、主役級のキャラクター、ひとりか、場合によっては2人になるかもしれまいが、その部分についてはしっかりと、キャラクターを作り込んで誰が見てもわかる特徴を描く必要がある。これはある意味、裁判の訴状やノンフィクションではそうそうできない、フィクション(創作)の特権であるとも言えましょう。

 それを活かさない手は、ないぜ。


 というわけで、もしもその「それ」ができていたら、さらに彼女たちのギミックであるパパイアの存在も、もっと鮮やかに、いやいや、「色鮮やかに!」活きるようになると思われるけどな。

 ここは、みのりん小説の大きな課題の一つやね。

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