習作にもなんないもの

柿.

生きにくい

「はい、本日の講義はこれで以上です。みなさん退室していただいて構いません」

小窓から顔をのぞかせていた教員はそういってカーテンを閉めた。それを合図に百を超える氏名の書かれた黒カーテンの小窓はその数をみるみる減らしていく。講義中みんな何をしているのかまるでわからないけれど、このときだけはみんな画面のまえにいるのがわかる。これでわたしは同級生の存在をはじめて認識できる。

「ふう」

退室してからそうつぶやく。小心者のわたしは知らないうちにマイクがついていたらどうしよう、と思ってしまうから講義中テレビをつけたりパソコンで動画を観ることができないし、おしゃべりもできない。そもそも講義中会話する人などいないけど。

 パソコンを閉じて出かける準備をする。といってもただの買い物なので鏡を覗いて姿を確認するだけだ。洗顔フォームを買いに行く。

こうして出かけることでわたしはわたしを赦せる。在宅生活にも慣れてきたけれど、ありふれた平日に家から一歩も出ないということは、少なからず罪悪感を抱かせる。外出は救済なんだ、今の社会では。


 店の出入り口で見覚えのある人をみつけた。彼女は退店するようでショッピングカートを仕舞っていた。店に背を向けた彼女と目が合う。それからすれ違うまで目は合い続けたけれど会話はなかった。どちらが声をかけるべきか決めかねる微妙な空気が結論を出してくれなかった。近所なのはお互いに知っていたが大学以外で話したことがなかったし、何より顔を見るのが久しぶりでその顔に完全な確証を得るには時間がなかった。マスクをしているからなおさらだ。といっても彼女の全貌はSNSでしかみたことないけれど。

 しかし、遅れてやってきた、間違いなく彼女だったという確信がわたしに動揺をぶつけてくる。彼女にメッセージを送るかどうか悩んでしまう。彼女とはそういうやりとりも普段ない。店内を歩きながら取り急ぎ彼女のSNSを開く。最後のつぶやきは一分前、金欠だから豆腐で済ませるそうだ。ほんの少し安心したが、やはり買い物をしていたのだ。結局動揺は和らぐことなく歩みをはやくさせる。スマートフォンを覗き込んで、この歩調では客としては不自然極まりない。無理やり不安とスマートフォンをポケットに押し込んで店内を物色するが今度は視線の移動がせわしなくなる。目の前の棚が塗り薬のコーナーだったから上を見上げて洗顔のあるコーナーを探す。ほどなくしてたどり着いたがお目当てのものはみつからず、お店に豆腐が置いてあるかを確認してから退店した。店員さんの前を横切ったら、ありがとうございました、といわれた。やめてくれ。

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