第7話 誕生日の昼下がり

2021(令和3)年9月12日(日)  香川県丸亀駅前Aホテル客室内


 米河清治氏はこの前日、約2カ月ぶりに香川県の丸亀駅前のホテルで一夜を明かした。昼過ぎに岡山からマリンライナーに乗って坂出まで出て、その後普通列車に乗換え、2駅先。丸亀駅に降り立った彼は駅前のAホテルにチェックインの手続をし、2カ月前に行った駅前の食堂でビールを飲んだ。

 緊急事態宣言こそもうすぐ解除となるものの、またもまん延防止重点対策発令。

 しばらく岡山市内では酒が飲めない。

 それどころか、前回は早い時間なら飲めた岡山県北の津山市も、この9月中は飲食店で酒が飲めなくなった。そこへ来て、香川県はまん延防止重点対策が適用されているものの、高松市以外では店で酒を飲めないわけじゃない。これは酒飲みの彼にとって実にありがたいこと。


 もちろん、彼がこうしてこの土日を隣県の駅前のホテルで過ごすのは、何も酒を飲むことが目的ではない。あくまでも次作に向けて根詰めた仕事をするためであるとあちこちに主張してはいるのだが、彼の周りにその弁を素直にとる人は、残念ながらいないらしい。

 彼に言わせれば、自分には絶大なる信用というのがあるそうで、その内容は「彼はいつもどこかで確実に(必ずどころか~苦笑)酒を飲んでいる」というものだとか。

 もう一つ、彼は毎週日曜朝の8時30分から放映されている「プリキュア」というアニメをこの4年ほど「皆勤」でリアルタイム視聴をしている。言うには、その時間だけは携帯の電源を切ってテレビの前で集中しなければならんのである、と。

 まして今回の放送は、彼が今までになく「推し」を打出しているキュアパパイアの一之瀬みのりが主人公の回。

 彼は、そのキャラクターを自らの「娘」と評し、さすがにそれではバツが悪いのか、「隠し子」という言葉もつけてSNS上で紹介している。

 なお彼には、これまで結婚歴もなく、また、婚外子を認知したこともなければ、その前提としてとある女性との間に子どもがいるというわけでもない。


 そして、この9月12日。

 偶然にも、彼の52歳の誕生日でもある。


 彼はこの日も、いつものニチアサ(=日曜朝)のルーティンで、朝6時過ぎにテレビをつけた。そして、プリキュアが始まるのを、ひたすら待つ。プリキュアがいよいよ始まる頃まで、彼はネットに接続し、パソコン上から、SNSに書込みをする。

 彼が言うにはなんと、プリキュアを観るというのは、「亡命」なのだとか。なぜ亡命なのかというと、同時間に放映されている別局のニュース番組があって、その報道姿勢が気に入らないから、あえて別のチャンネルに「政治的?」亡命をしているのだとか。本来彼はプロ野球のファンでもあり、そのニュース番組のスポーツコーナーに出ているH氏のさらに先輩筋でもある赤バットの川上哲治氏を大いに尊敬している。しかも彼は、高校時代から日本のプロ野球史に関する知識を徹底して蓄えているから、本来ならそちらを見るべき者がなぜか、幼児のそれも女の子向けのアニメを観ることを趣味と公言するのをいささかためらっているような、そんなそぶりを見せている中で出てきた表現だと思われる。


 この日も彼は、プリキュアとその後のH氏のスポーツコーナーを無事観終え、少しばかり外出した。

 近くにある名物となっている和菓子店の喫茶に行き、そこで、カレーを食べてきた。本当なら早速どこか近くの食堂に入り込んで早速ビールを飲みだすところなのだろうけど、それははばかられたようである。

 というのも、昼間から酒を飲んでもいいのだが、それをしてしまうと、仕事がはかどらなくなってしまうから。

 カレーの後、サービスで出されたソフトクリームも平らげ、彼はしばらくの間、そのテーブルにプリントアウトした原稿を出して、校正をした。

 書き足すよりむしろ、消す方が多いような感じである。

 そして12時になる少し前、彼は作業を切上げ、勘定を済ませてホテルの自室に戻った。

 この部屋に以前来た時、ちょうど6月の最初の週だったのだが、土曜の夜に大酒を飲んで寝込んだときに日本製の丸いセルロイド製の眼鏡の左側の蔓(つる)の部分の金属を折ってしまった。しかしその眼鏡、とある眼鏡店で修理の見積りを頼んだところ、なんと、税込5000円少々の値段で修理ができた。おかげで彼は、その眼鏡を再びかけて、同じホテルのなぜか同じ部屋に、改めて「戻ってきた」という次第。

 それも、自らの誕生日の前日、満52歳になったその日に。

 

 さて、自室に戻ってきた彼は、その部屋の目の前のエレベーター向いにある製氷機から氷をとってきて、飲料用の準備をした。昨日のうちにトリスウイスキーの瓶を買ってきているのだが、決して、昼から酒を飲むつもり、というわけでもない。ともあれ彼は、氷はそっちのけで、久々に新作用の原稿を書き始めた。彼はその気になれば、1時間で5000字程度は新しい文章を書けるという。とはいえ今回は、このところ校正ばかりやっていたせいか、もう一つスピードは出ない。それでもそれなりの速度で、彼はしっかりと文章を打込んでいる。それなりのスピードとはいうものの、人から見れば彼の執筆速度は、かなり早い方だろう。約2時間もすれば、彼はそれなりのまとまった文章を書きあげた。


 さあ、いよいよ、本題を書いていこう。その前に、少し、飲み物を飲んで一服。

 そう思って、彼は冷蔵庫からペットボトルの紅茶を取出し、近くにあるグラスを手に取り、ほこり防止のビニールをはぎ取り、そこに氷をいくつか入れて、紅茶を注いだ。

 グラスの紅茶を一口飲んで、彼はグラスをテーブルに置いた。そして再び、文字を打ち始めた。それから何行か打ち込んだところで、彼はトイレに立った。用を足し、帰って椅子に座り、再びグラスをとって一口飲み、テーブル状に再びグラスを置いたその時。

 

 グラスを置く音とともに、ドアの向こうから音がした。

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