第百話 副官

たい文輝ぶんきでございます」


 王府おうふの門番に一礼すると、そのうちの一人が半身を開く。そして木戸を押し開けて付いてこいと促す。

 ここから先に立ち入った記憶はない。四年前の騒乱の時ですら裏手から無理やりに侵入したから、この門を潜ったことがない。白木の磨かれた神殿のような造りなのが薄暗闇に映える。回廊を巡って通されたのは朝議ちょうぎの間で、明かりの灯っている中、黒々とした空気が静謐さを湛えている。


「戴校尉こういが参られました」

「ご苦労様です。そなたはもうお下がりください。あとはわたくしの方で適切に進めます」

はい


 高床の建物の床板まで絶妙な高さの階段が拵えてある。その、一番下の段で文輝は拱手した。膝を突いて、最敬礼で控えていると暗闇の奥の方から衣ずれの音がする。そんな音などさせる必要はどこにもないだろうに、まるで神威を示すかのように白瑛びゃくえいが人らしさを演出していた。四ヶ月前から何も変わらない、食えない天仙てんせんだった。


小戴しょうたい殿。お上がりください。そしてお忘れなきよう。わたくしは差別を好みません」

主上しゅじょう御前ごぜんであなたに無礼を働けと? 全く、相変わらず俺たちのことが気に食わないようだ」


 まぁ、こちらも今更あなたの顔色を窺うのも面倒だから棒引きにしよう。言って顔を上げる。王府の官吏たちが顔色を亡くしていたが、この天仙はこういうものだと思ってもらわないことには話が進まない。区別を差別と呼び、差別を区別と呼ぶ天仙の前で礼儀などは何の価値もないのだから。


信梨しんり殿。俺はあなたに待てと言われたから陽黎門ようれいもんの前で待っていたのだが?」

「そのまま待っていてくだされば、わたくしが全てを収めてからお話しいたしましたのに」


 そのあまりにも悪意に満ちた善意に今度は文輝が溜め息を漏らす。


「俺は、自分の副官の進退が俺のいないところで決まるのは納得が出来ないと従前に話したという記憶があるのだが?」

「あらあら。困った方ですね。あの方はもうあなたの『副官』などではないのだと何度お話すればよろしいのですか?」

「何度言われようとも知るか。そいつは俺の副官だ」


 それが、文輝の出した答えだ。

 自らの所信を表明すると朝議の間のあちこちから溜め息と憤怒と困惑が噴出する。その空気すらなかったものと無視をして、文輝は顔を上げて目的の人物を探した。眼前に立ちはだかる白瑛。朝議の間の最奥に国主こくしゅ──伶世れいせいが、向かって右側に赤虎せっこの姿をした華軍かぐんが、反対側向かって左にその顔があった。


子公しこう。よく戻った。随分と遅かったじゃねえか」


 異邦人だということは知っていた。青東国せいとうこくの生まれで、高貴な身分なのだということも知っていた。ただ、まさか本当の本当に脱走した皇太子こうたいしである、だなんて思いもしなかったから上官が溜め息交じりにそう告げてきたときには性質の悪い冗談はやめてくれと真顔で言ってしまった。

 その、子公が国賓こくひんとして座っている。見たこともないような豪奢な衣を着て、豊かな黒髪も艶やかに結い上げて、それでも紫紺を泣きそうに歪ませた子公がそこにいた。


「戴校尉! 殿下に向けて無礼であるぞ!」

「貴官の身分で皇太子殿下に直接お声をかけるとは、懲罰ものだ! どなたの許可をいただいて顔を上げた! 身の程を知れ!」


 罵声が朝議の間から雨あられと飛んでくる。それでも、文輝は顔を下げなかった。

 律令は人の暮らしを守る為にある。人が持つ権限を定め、人と人が不必要に争うのを避ける為にある。人の生活を豊かにする為にあるものが、一部のものの私欲の為に使われることが、ずっと嫌いだった。正しいことを正しいと言えない自分が嫌いだった。

 正しさが人を救うわけではない。わかっている。それでも、自分の心を偽って、上辺だけを繕って定められた律令を守って、そうして喪うことを受け入れるだけの自分なんてまっぴらごめんだ。


「子公。故国はどうだった」

「――相変わらず、人を駒の一つとしか見られぬ、愚かな有様であった」

「そうか。それで? お前はどうしたい」

「――どう、とは?」

「人は誰しも国っていう巨大なものを動かす為の歯車だ。お前はどんな歯車になりてえんだ、と訊いている」


 人であるということはいずれかの集団に属することを意味する。家族、親類。何の職に就いて、何を成すのか。そのどこでも集団は生まれ、そして人はその中で役割を得る。子公はそれを駒と表現した。文輝は同じものを歯車と表現する。それぞれの価値観の滲んだ表現をする間も、文輝に対して怒号は飛んだ。衛兵が棍を使って文輝の首を抑えつける。背後から交差した二本の棍によって首は押し付けられて、必死に抵抗しないと顔を上げているのも困難だ。

 それでも。

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