第九十九話 池の鯉
「すまない。急用を思い出した」
それはどんな用件か、と問うのも聞かず
文輝は今朝、陽黎門の外で待つようにとの指示だったからまだ手型を押していない。
「本っ当にすまない! 始末書なら代わりに俺が書くから諦めてくれ!」
副官もいない。
陽黎門は
だから。
「華軍殿の眼を借りっぱなしにしてると、こういうときは便利だよな」
榛色の双眸を二、三度瞬かせる。その間に紅の光が灯もり、文輝の眼には華軍が辿った軌道が可視化される。手前の建物の壁を登って屋根の上へ。そうしてそのまま屋根伝いに直線距離を跳躍していく。猫の大きさではない文輝が通ると当然のことながら大きな足跡がそこかしこに残る。高楼の中層階で職務に当たっていた官吏の一人に見つかって「
人であるならば道を歩け。その言葉を文輝はもう何度聞いたか知れない。
そのぐらい、華軍の眼を借り受けているということは人の世界の常識を超えた情報を文輝にもたらした。
最後の建物の屋根の先から石壁を伝って内府の正門前へと着地する。正門の守衛は落下してきた物音に一瞬だけ長槍を構えたが、その正体が文輝であると見てとるや呆れたように声を漏らす。
「戴校尉。今日は
「では二つ手前の角で降りてくることにしよう」
「校尉。肩書きのあるもののすることではない、と言っている」
「何を言っているんだ。肩書きがあるからやっているに決まっているじゃないか。そんなつまらない律令を少しでも減らせるのなら、俺は寧ろ願ったり叶ったりだ」
あなた方にとっても、取り締まる対象が減るのは利便性が高まると思うが。
開き直ってそう反駁すると守衛の二人は諦めたように大きな溜め息を吐く。
そして。
「──開門。客人は
「感謝する」
感謝はいいから律令の遵守をしろ。聞こえよがしにそう吐き捨てられても「頭は柔らかい方が生き易いと心得ている」と笑って済ませられた。お返しに、とばかりに後方を一切振り返ることなく大きな独り言を零すと今度こそ守衛たちは閉口したようでそれ以上の追撃は来ない。
大理石の敷かれた鏡面のような路の上を多くのものが通ったのだろう。霜が水滴に変わり、軍靴の底と大変相性が悪く、文輝が
紅の光となって続いてる軌跡を辿って、一度も迷うことなく王府の正門へと辿り着く。王府というのは王──
なのに、今日、ここに来られたのは真実、来訪者が文輝の知己であり、
あのとき雪栗鼠の神像──
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