第六十九話 名付け
蝉の声が聞こえる。昼の山林にあって不自然なほど蝉の声だけが際立って聞こえた。
それでも蝉の声だけが鮮明に聞こえる。
「どうしたの?
「――いや」
少女の翡翠の双眸が得体のしれない力に揺らめいて文輝を射た。それだけで息を吸うこともままならない。怪異――
「視えているんでしょ? 『それ』をわたしにくれるだけでいいの。ね? 簡単でしょう?」
「――」
「黙ってたのじゃわからないわ。ねえ、首夏。『わたしにも名前をちょうだい』」
敵意──ではないと文輝は認識した。文輝を殺めたいと思ってる節は感じられない。害意もない。あるのだとすればそれは純然たる悪意だろう。人を──人間を見下して滅んでいく様を嬉々として見つめている。そんな感覚を抱いた。
「信天翁」は白喜のことを理解しろと言った。敬え、とも彼女は言った。刀匠の翁は白喜を恨まないでほしい、と言った。縋るような声で彼は祈った。
その根拠は未だ文輝の両眼に示されないが、
「
「──いい名前、だわ」
蘭に至るもの。蘭というのは生育が困難で美しい花を咲かせる為には限りないほどの手間を要する。温度、湿度、与える水の量。日照時間すら過不足があれば決して花は咲かない。そのあまりの希少性からこの世界において蘭は嗜好品の高みの存在だった。
その、蘭の名を与えた。
蘭のあるじ――すなわち王であることを失念していたわけではない。名は体を表す。とは言っても新たなる王にと望んだわけでもない。ただ、文輝の眼にはそう「視えた」としか言い表しようがない。音が耳朶に伝わるとき、文字を伴う為には相互理解が必要だ。目の前の白喜――至蘭がそれを成し得たというのなら、やはりこの二文字で正解なのだろう。この世界の本質は彼女を蘭に至るものとして受容した。
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