第六十三話 教えてはいけないもの

 翌朝、たい文輝ぶんき子公しこうが目覚めるより早くに起床した。一人、朝食を取って旅籠やどを出る。赤虎せっこの姿をしたとう華軍かぐんが怪異の区画と沢陽口たくようこうとの境目で待っていた。

 琥珀色に文輝が映ったかと思うと、彼は深々と溜息を吐いてそうして言った。


小戴しょうたい、俺から一つだけ忠告しておくことがある」

「何でしょうか、華軍殿」

白喜はくきと出会っても――いや、この後出会った誰にも、決して名を教えるな。それ以上のことは俺の口からは言えんが、無事に戻ってくるつもりがあるのならそうしろ」


 華軍の忠告がどういう意味なのか、どういう状況を想定しているのか、文輝の知性では即座に理解することが出来ず戸惑う。ただ「名を教えてはいけない」それだけが文輝の中に残った。

 西白国さいはくこくで生きるものは皆、当たり前のように理解している。真実の名――文輝で言えば「戴耀よう」というのがそれに当たる――を他人に容易く教えてはならない、ということを。

 華軍も文輝もれっきとした西白国の生まれだ。

 だから、そんなことはわかっているのだ。分かり切っていることを敢えて彼は言う。どういう意味だろうか。名、の範疇が違うということだろうか。そんなことを考えたが結論には至らない。

 悩んでいても埒が明かないのは自明で、文輝はわかってもいないのに「わかりました」と答える他なかった。消化不良の居心地の悪さを感じたがそれに構えるだけの時間はもう残っていない。文輝は出立することを決めた。

 琥珀の双眸に見送られて文輝は境界線を越える。怪異の区画を出る、その刹那琥珀がくすむのが見えた。華軍の視界から――意識の中から文輝の存在が消えて、これが忘却と失念なのだと理解させられた。あの区画に戻れば文輝の存在は復活するのだろうか。そうだとしたらどんな扱いになるのだろう。疑問は尽きない。それでも、文輝はもう華軍たちと同じ表層を生きていない。先に進むしかなかった。

 朝の陽光を浴びながら、文輝は沢陽口の城郭まちを一人歩く。

 棚を覆っていた麻布を取り除く露天商の男も、旅籠の正面玄関を箒で掃き出す小間使いの少年も、誰も文輝のことに気が付かない。城郭の営みは何の変化も、危機も見出さず今日も続いている。いつも通りの当たり前の光景だ。

 それでも、このまま経過を見守り続けることは出来ない。それは緩やかな自死を許容するのと大差なく、都市が滅ぶということはあまりにも多くの命が失われるということだ。東山の崩落が起きればこの城郭は確実に土砂の底に埋まる。そうなった、ということの認知すら忘却と失念が覆い隠すのかどうか、文輝は知らない。知らないが、国官として何の対処もなくあるがままを享受して一緒に泥の底に沈むのを許容することは文輝には出来ない。

 気持ちを整理しながら歩いていると景色は少しずつ移ろう。

 大路を西へ西へと進み沢陽口の主な機能である波止場に出た。軍用船の姿はない。遊覧船の姿もない。ただ、小さな漁船が水揚げした淡水魚を手際よく魚商人に引き渡しているのだけが見えた。彼らもまた文輝の存在に気付くことがない。風切鳥ふうせつちょうの着地点に困って水面に不時着したときと変わらず、ただ彼らの仕事を続けていた。


「よう見ておけ。人の営みというのはどこにあっても似たようなものじゃ。ぬしの口にする魚は皆、ああしてぬしらが見下した漁民が獲っておる」

「俺は――色の違うかんを見下したことはありません」

「大きさの違う輝石いしでも同じことじゃ。ぬしは――ぬしらはその環と輝石で守られてきた。ぬしらがぬくぬくとしておる間、わしらは皆、ああして汗水を垂らしておるのよ」


 よく見ておけ。もう一度そう言って哀惜の色を双眸に灯した「信天翁あほうどり」が文輝の隣に立つ。どう見ても二十代後半の女性にしか見えない「信天翁」がここにいる、ということは彼女は文輝の存在を容れたということなのだろう。誰の意識の中にもいない文輝と彼女の二人で波止場にいても、当然のことだが声をかけてくるものはいない。仕事の邪魔だとも、存在が鬱陶しいだとも言われない。そこにいる筈のないもの。認知されていない、ということはこういうことだ、と「信天翁」が歯がゆそうに目を眇めて波止場を行き交う人々を見つめている。

 彼女のことを排斥したこの城郭への感傷だろうか。

 それとも。


「白喜、というのは人々に忘れられたのですか」

「それをぬしが言うのが傲慢だと言うのよ」

「――そうですね。俺はこの城郭のことも白喜のことも何も知らない」

白帝廟はくていびょうに祀ってある白喜のことも知らいでか」

雪栗鼠ゆきりすの化身だ、ということは流石に認知しています」


 天仙てんせんは皆、獣としての性がある。白帝廟に祀られている神像は皆、人の姿ではなく獣の形をしていた。本来、白龍の姿である白帝だけが人の形をしていて、それ以外の天仙は皆獣の姿で人の祈りを受ける。皮肉、というよりはそれだけ白帝の存在を高次のものとしたかったのだ、と文輝は理解していた。

 岐崔ぎさいには二十四白にじゅうしはくの全ての神像が祀られている。

 文輝――というよりは戴家が寄進している廟に祀られているのは白瑛びゃくえいだ。白い狐の姿の神像を文輝は毎月決まった日に拝礼した。だから、白瑛が人の姿を取って文輝の前に現れたとき、本当に喉の奥から心臓が飛び出てしまうのではないか。そのぐらい驚愕したし、白瑛と言葉を交わせることの尊さに気を失ってしまいそうだった。

 白喜――雪栗鼠の像を拝礼している家流は九品きゅうほんの中にはない。

 それは自動的に白喜がそれだけの神格を得ていない、ということを意味していて、忘れたというより寧ろ「そもそも知らなかった」と表現するよりほかはない。

 知らなかったのだ。本当に。天仙は二十四いる。文輝は信心深い方ではないから、白瑛を拝礼する慣習以上のことを求めなかった。白喜、というのが当地を守護する二十四白だということも知らなかった。ただ雪栗鼠の神像は「白喜」という名だということしか知らなかった。


「罪悪感があるのじゃったら、あれのことをもう少し知ってやってくれんか」

「――どうして、天仙となったのですか」

「知りたくば本人から聞くのじゃな。わしはこれ以上、あれの傷を抉る真似をしとうない。あれが話したいと思う相手なら、いずれあれはぬしに語るじゃろう」


 雑談はここで終わりだ、と言外に告げられているのに文輝は気付いた。

 「信天翁」は決定的な答えを口にしない。その意思の強さだけを見せつけて文輝の前から消えようとしていた。忘却と失念に取り込まれるのではない。この城郭――或いはもう少し外の世界のどこかで現実から逃避している白喜のことを想って辞去する。そうして、文輝に探させるのだ。白喜というのは文輝が見つけるべき何かなのだと彼女は言葉ではないもので何度も何度も繰り返し文輝に示す。その道筋に気が付かなければ文輝もまた忘却と失念の一部と成り果てるだろう。


おうな。あなたは――」


 一体いつからこの城郭で白喜を守ってきたのか。

 問おうとした先に既に「信天翁」の姿はない。委哉いさいは翁と呼んだ。子公は媼と呼んだ。文輝の前では妙齢の女性だった「信天翁」は文輝に課題だけを残して消えた。

 途方もない難題を押し付けられている、というのはもう誰かに説明されるまでもなく理解している。

 それでも。


「華軍殿の『眼』が嘘を示す筈はねえんだ」

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