第三十一話 遠景
沢陽口は概ね岐崔の城下の一部であると言って差し支えないが、正確には、
西白国では古くから
当代の国主――
領地を持たぬ右官の一人である
初夏のむせ返るような新緑の香りを肺腑の奥まで吸い込んだ。瑞々しい木々の間を縫うように蜘蛛の糸が文輝の頭髪に引っかかる。どこまで行くのか、と文輝は幾度も委哉に問うたがその度に少年はそのうちにわかるとしか言わなかった。
「委哉、もう一刻は登ってるぞ」
「おや?
「誰も疲れただなんて言ってねえだろうが」
「では、気の持ちようかな? 何にせよ、先の見えない道程ぐらいで音を上げるような右官殿に俸禄を支払っているのかと思うと民に心底同情するよ」
「舌戦で圧勝したいなら、俺じゃなくて子公とやってくれ」
本当に。心の底から。圧倒的に。感情を伴った願いを吐露すると前方からは苦笑が、後方からは息も絶え絶えに悪口が飛んでくる。大軍師の称号を欲している国官にあるまじき、蚊の鳴くような細い声だったがそれでも確かに悪口の形をしていた。
「文輝、貴様、覚えておけ。私を、駆け引きの、道具にしたこと、必ず、後悔させてやろう」
「そういうことは自力で目的地から生還したときに言えよ、軍師殿」
「それで、目的地、というのは、まだ、なのか」
「
何か気付いたことはないか。遠回しに問われていることに気付かないほど愚昧でもない。目線をぐるりと回し、周囲に注意を向けたが新緑が一面に広がっているだけだ。その中から違和を更に探すと、あることに気付く。
新緑が一面に広がっている? 瑞々しい香りを放って?
その事象は何かを意味してはいないか。そこまで考えて文輝はようやく違和を見つけた。
「雨が降らない――という報告だった」
文輝は学者ではないから植物の生体に通じているわけではない。それでも、岐崔城下にある戴家の屋敷には庭園があり、植物を維持する為に必要なもののことは多少認知している。植物も生き物だ。水がなければ新しい葉が芽吹くことはない。
山野は地下水を内包している。多少、雨が降らずとも地中深く張った根から水を吸い上げることは可能だろう。それでも、変異と報告されるほど雨が降らない状況で瑞々しさを保ち続けることは出来ない。
「雨が降っている、と君は言いたいのか」
「その答えはあなたが自ら確かめるしかないのではないかな?」
そろそろだ。という答えがある。何が、と問うより早くに文輝の耳朶がその音を拾う。その音の意味するところを信じられなくて文輝は人一人交代する余地すらない獣道で、委哉を追い抜いて前に出た。
文輝の立っている位置より人の歩幅程度向こう、そこには――雨が降りしきる樹林の姿がある。
「――嘘、だろ」
豪雨とまではいかないが、それなりの雨量がある。薄暗く曇った空から幾つもの雨粒が降り、絶えず木の葉を下草を叩く音が続いていた。
目の錯覚か、感覚器の不備か。自らを疑って、周囲を観察した文輝は気付く。降雨は「決まった境界線の内側」でのみ発生しており、その境界線が動く様子はない。地面――山肌自体は連続しているから東山の斜面に水分が供給されているものの、直接的に雨が降っているのは特定の範囲だけだ。
天文学を修めたわけではない文輝に、この現象を分析するのは不可能で、ただ「違和」だけが確実に生まれた。
「嘘かどうかはあなたの目を信じるしかないのだけれど、『内側』に入るのはお勧め出来ない。それの制御は多分、誰にも不可能だから」
「ということは、この雨は『怪異』か」
その問いに答えはない。それでも、委哉は暗黙裡に文輝の問いを肯定した。これは――怪異である。特定の地域にのみ雨を降らせる怪異など聞いたこともないが、怪異とは理の外にあるものの総称だ。常識を逸脱していることを根拠に怪異を詰ることは誰にも出来ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます