第二十九話 応

 文輝ぶんきが今、巻き込まれている事象は心技体揃ってこそ解決の糸口を得るのだろう。今日明日どうなることでもない、と華軍かぐんは言った。つまり、この問題は中期ないし長期間の対応を必要としているということだ。

 行動の拠点は得た。協力者も得た。問題は早晩解決しない。

 溜息を吐く要素と安堵する要素が両天秤の上で上下している。

 選ぶ、という行為は自身にしか出来ない。不合理に落胆するのも非情に胸を痛めるのも、楽観に安堵するのも全て自らが選んだ結果だ。現実を生きているのはいつだって自分自身で、だからこそ人は選択権を行使する。

 いつだってそうだ。どの瞬間もそうだ。

 自らが選んだ結果が現実と結びつく。

 そんな意図はなかったのだとか、そういう願望は含んでいなかったのだとか後から弁解しても現実は定まっていてもう動かすことは出来ない。

 だから。


小戴しょうたい殿。あなたたち人間というのは実に不思議な存在だね。感情という目には見えないものを一等貴び、そうしてあなたたちは事象に善悪の色を塗る。僕たちがその基準を知る日は来ないのだろうけれど、それでも個人的な見解を述べるなら、僕はあなたたち人間のことは決して嫌いではないよ」


 そんな感想を委哉いさいが結ぶ頃合いを見計らってか、深紅の伝頼鳥てんらいちょうが板壁をすり抜けて顕現する。文輝の肩に舞い降りた質量を伴わない存在をそっと指先で摘まみあげ、文輝に与えられた復号鍵を暗唱した。かつて華軍が設定した「武官諸志ぶかんしょし」の前文よりずっと短い文言が文輝の今の所属を暗に伝える。文輝はもう警邏隊けいらたい戦務班せんむはん中科生ちゅうかせいではない。それでも文輝の隣には華軍――だったものがいる。

 信奉していないわけでもないのに、どうしてだか神仙の存在を呪いたくなる瞬間がある。多分、この国で過ごす誰もが似たような経験をしていて「自分に都合の悪い運命を強いるもの」に反発をするのは決して類稀なる事象ではないのだろう。

 万民の矛であるであると称したところで、自らもまたただの一人の民のうちなのだと知ることがどうしても歯がゆかった。それがただの感傷であることなど自明で、だからこそ深紅の料紙の中央に大きく記された「応」の一文字を見たとき、文輝は自らの感情を一旦棚上げすることを決めた。


「委哉。約束だ。菜館しょくどうに案内してもらうぞ」

「小戴殿。あなたにはそういう表情の方が似合っているのではないかな」

「馬鹿の馬鹿たる所以よ。だが、そうだな。貴様の人らしい表情の変化は私も決して嫌いではない」


 誇れ、愚直な我が主よ。言って子公しこうが不敵に微笑む。

 だから、そういう率直な称賛には慣れていないのだ、と言いそうになって、その返答は子公の本意ではないだろうと気付いて、そうして文輝は肺腑の奥に凝っていた緊張感を深くふかく吐き出した。


「行くか。怪異と晩飯とかこんな機会でもなけりゃ一生経験しねえしな」

「開き直るとどこまでも図太いな、貴様は」

「現実主義なんだよ。お前みたいに綺麗な論理をこねくり回すのは俺には無理なんだっつの」

「であれば、私と貴様は実利ある巡り合わせではないか」

「そうだね。僕もあなたたちの噛み合っていないようで噛み合っている会話を聞くのは楽しいと思うよ」


 そんな会話を繰り広げながら文輝たちは湯場の個室を後にする。

 怪異の区画でありながら、沢陽口たくようこうの菜館と遜色ない料理が運ばれてくるのを視認するまで残り半刻。

 暮れない夜に眠るという奇異な現象の中、寝台に潜り込むその瞬間まで文輝は自らに休息を「意識的に」命じ続けなければならないという現実と向き合えるような気がしていた。

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